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<第6回応募作品>「花の回路」 著者:池田 裕美

「ボーンボーンボーンボーン、仏説魔訶般若波羅蜜多心経・・・」
 少し遅れた朝の境内。白髪まじりの男女が太鼓のリズムに合わせて経を読んでいる。重たいトーンの声の重なりに若い女の透きとおった声音がかすかに交じっている。アキコはお経を読み間違えないよう、詠んでいるところを見失わぬよう経典から目を離さず姿勢を正している。長い観音経のあとの般若心経に何かから解放されていくような軽さを感じる。
 もう少し詠んでいたい、そう思うところで御務めは終わり。顔見知りと話しながらおのおの靴を履いて散らばってゆく。アキコもゆっくりと靴を履いて外へでた。
「めずらしいですね。若いのに」
「えっ」
 アキコより少し年上に見える背のすらりとした男が穏やかな声で話しかけた。
「そうですか、一度来てみたかったんだけど、よかったです。すっきりしますね。」
「そう、これいいんだよね、皆で声合わせてさちょっと音楽みたいだし。普段は目ばっか使う仕事してるからなんかいんだよ。あ、僕コウイチです。そちらは?」
「あ、アキコです。よく来るんですか?目使う仕事?」
「ここ地元でね、気分転換にくるんだ。仕事ね、写真撮ってる。フリーなんだけど、最近は結婚式が多いから平日はけっこう時間あってね」
 参道に出るまで何気ない会話をして別れた。一人になったアキコは身体も軽く暖かな光を浴びたような気になる。まさかね。やっぱりお経をあげるって気持ちいいわ、そう確認してバスに乗った。
 アキコは普段、吉祥寺にあるカフェのキッチンで働いている。白い壁に木で作られたテーブルと椅子、温か味のある間接照明、何時間もかけて仕込んだ料理が小さな子を連れたお母さん達の、おしゃべりの止まらない女の子達の口に運ばれてゆく。穏やかな空間、悪くない。だけど仕事のない時、どうすればよいのか、思い出せない。奴に未練はみじんもない。だけどもう一か月経つのに、まだ空いたままの心の空白を埋める方法がわからない。仕事の量を増やしてもらい、店の定休日の火曜日をどうにかしようと思っていた。
 次の休みの朝もアキコは深大寺へと向かった。バスに揺られる間、こないだの彼と話した場面を思いだす。今日またそこに現れる男の姿がぼんやり浮かぶ。どちらにせよアキコはお経をあげるために行動している、男に会うために出かける訳ではない。
 元三大大師堂の中に座り、辺りを見回すと端にコウイチが静かに座っていることを確認するとすぐに御勤めが始まった。
 ここで自分の倍ほど生きた人たちと一緒にお経をあげると安心する。深く呼吸ができる。新しくて物ばかりの世界が全てではない、このお経がお寺が昔からあり続けるように過去から積み上げたものの上に私がいる。手を合わせてお辞儀しながらそんな大きな存在をアキコは感じていた。
 読誦が終わって立ち上がるとコウイチがアキコに気付いて合図するように頬を上げた。
「どうも」 
外にでて自然と一緒に歩きだす。雲がうっすら浮かんでいるが太陽の日差しはどこまでも届いている。人も参道のそば屋も少しづつ活気づき始めている。
「深大寺好きなの?」
「なんか落ち着くんです。全然違うとこに来たみたいだし。特に最近は、ね」
「僕も最近都会の中いてもあんまり面白いとこなくてね。けっこう植物とか緑好きなんだ、恥ずかしいからあんまり言わないけど」
「恥ずかしいなんて植物に失礼です。それじゃ、あっちの水生公園寄ってきません?」
 アキコは気分がよかった。もう少しこの穏やかな時間を延ばしたい、そう思っていた。
 森の中の湿原地帯のように板で作られた木道の下には池や田園やまだ花を咲かせる前のハナショウブやハス達が調和している。花々しくはないそこでは何より豊かな水がアキコを潤わせている。二人はひと回り歩くと休憩小屋の中に座った。
「なんで落ち着くのかって思ったんだけど、ここらへんて下品な音が少ないんですね。この鳥の声。お寺も太鼓とか鐘の音とかだし。」
「そっか、そういえば車の音もあまりしないね。ここはカメラ持った人が多いなあ。あ、カモ」
 田園の端にカモが三羽来ては口ばしをつついて餌か何かをつまんでいる。しばらくたつと満足したのか三羽そろって飛んで行った。

「今日、昼から吉祥寺で仕事の打ち合わせなんだ。バイクだけど駅前でよかったら送りましょうか?」
 帰り際にコウイチが言った。いつもバスで帰るアキコはじゃあ、と乗せてもらうことにした。
 バイクにまたがるとアキコは腰のあたりを両手で押さえる。吉祥寺までの大通りを走っている途中、腕がコウイチの身体を包みそうになる。アキコの身体に染みついた記憶。目の前の背中と自分との隙間に身体が火照るのを感じつつ、アキコは風とスピードから体を支えるため腰に手をあてたまま姿勢を正した。
「じゃあまたね」
「うん、また。ありがとう」
 吉祥寺の北口のロータリーに着いて、コウイチはアキコを下ろして仕事先へとエンジンを切った。アキコは帰り道、サンロードの中を歩き花屋の前を通ると立ち止まり、店の前に並んでいる小さな紫色の花を咲かせたワスレナ草を手に取り、うんと頷いてレジへ持っていった。またね。また、朝の深大寺でね。その意味をかみしめて花を持ち帰った。
 次の休日の朝。アキコは家の鏡の前に立っては服を脱ぎ捨てている。コウイチの姿を想像すると洋服がなかなか決まらない。だんだんイライラしては別にデートに行くんじゃないんだから、と自分をなだめてやっと外へでた。
 その日、コウイチの姿は見当たらなかった。読誦が終わってお参りをしたり、参道を歩いたりしたけど結局現れなかった。彼だっていつもひまなわけじゃないのよね、そう思いつつ、夢から覚めてしまうような、天気がいいと思ったら急に雨雲が押し寄せてきたような、そんな予感がした。
 翌週の深大寺もやはりコウイチは現れなかった。あぁやっぱり。諦めとふて腐れたアキコはそれでもお経を読むと気持ちが晴れるのを覚えて語呂の好きな般若心経の経典を買って帰った。
 その日の晩、家で何もせずコーヒーを飲んでいた。カーテンを閉めた窓際にはアキコの手入れがよくワスナ草の可憐な花がまだわずかに咲いている。ぼんやりしていると、心の窓から闇がじわじわと侵食し、アキコを蝕んでいく。結局男って都合が悪いと逃げていくのよ、そうゆう小さい生き物なのよ。あのコウイチ君にしたってただの気まぐれで話しかけてきたのよ、ほんっとに勝手。その気がないならあんなやさしい顔しないでよ。あれはきっと詐欺師ね、カメラマンなんて嘘ついてきっと失業保険もらってプラプラしていたのよ。もういいわ、もう男はいい。これからは一人で生きていくの、自分の足で立つのよ。ふと思い出し、アキコは鞄の中から経典を取り出し、力を込めてお経をあげた。やり場のない想いを意味もよくわからない、だけど力のある言葉に変えていると、しばし自分のことを忘れていられた。
 もうコウイチに会えるかどうかはよかった。だんだんとアキコは落ち着いていった。翌週も相変わらず深大寺へと向かい、皺を刻んだいつもの顔ぶれ達と一緒に不協和音の真言ハーモニーを奏でていた。短い御勤めを終えさっぱりとした顔で立ち上がるとコウイチの姿がある。どう接していいのかわからないアキコはこんにちはと言って靴を履いた。
「久しぶり、もういないかと思った」
 そういつもの穏やかなトーンの声でコウイチが言うと
「それ、こっちのセリフじゃないですかっ」
 アキコは怒りと嬉しさが混ざって顔をしかめた。
「いや、実は雑誌の撮影の仕事が入って、少しカナダに行ってきたんだ。とにかく広かった、自然の大きさもスケールが違かった、打たれたよ」
「そう・・・よかったですね」
「あ、いや、それで一面可愛らしい花が咲いているところがあって、なんていったか確か近くにいた人がそれはアラスカの州花だって言っていたんだけど。その花を眺めていたら、君が急に現れた、気がしたんだ」
「え?どういうこと?」
「いやだからうまくは言えないけど、その花に見とれていたら君のことをね・・。だから、とゆうかこれ、はい」
 コウイチは写真を一枚渡した。鮮明に写し出された先の尖った葉に可憐な薄紫の花が一面アップで切り取られている。アキコはドキリとした。この花、うちにいるわ。そう説明しようと思ったけどやめた。少しの間写真を眺めてから、コウイチに笑みを向けた。
「他の写真も見せて」
「うん、じゃ後で見せるからさ、その前に僕お腹がペコペコで・・・」
「まだこんな時間だけど、まあいいわ。じゃここで決まり」
 アキコがそう言うと、目の前のそば屋ののれんをくぐった。
「いらっしゃいませーっ、あら?コウちゃんじゃない!久しぶりねぇ元気にしてたの?あらま、かわいい子連れちゃって」
 コウイチはいつになく子供のような照れた顔をしてはにかんだ。

池田 裕美(調布市国領町/25歳/女性/ フリーター)

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