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<第6回応募作品>「ほんとのことは」 著者:長崎 美然子

 雨降りの深大寺通りは、いつもに増していよいよ鬱蒼として、降る雨が地面を掘りかえす匂いがむっとするぐらいだった。
 蕎麦屋が軒を並べる道沿いの歩道を歩く真希の傘は白い花柄で、通り過ぎる人がみな一瞬はっとするほどの鮮やかさであった。
真希はこの傘がとても気に入っていた。
吉祥寺の専門店で買ったものだったが、値段は真希の予算を大幅に越えていた。いつどこに忘れてきてしまうかも知れない傘に支払う金額にしては多すぎると、少し躊躇した。そのぐらい、迷いに迷って手に入れたた傘であったから、使ったあとは店員のアドバイス通りに日陰に干して、購入したときにつけてもらったプラスティックの透明カバーをつけてしまっている。
 そんな真希のお気に入りの傘が、その日深大寺通りの歩道上で、見知らぬ誰かの傘とすれ違いざまに触れ合いそうになったとしたら、それは真希にとってはちょっとした事件なのだった。
 その人は何の変哲もない、濃紺の傘をさして、すれ違いざまに
「おっと失礼」と言った。
、そして、真希の傘の華やかさに少し心を奪われたのか、花柄の傘の中の真希の顔をちらりと見やった。
 真希がその顔を覗き返した時、その人がこころ奪われていたのが傘ではなく、真希本人であることに気付いた。
 濃紺の傘のなかには、真希の忘れられない懐かしい顔があった。

「真希ちゃん、俺のこと覚えていた?」

 傘の中のひとは、みるみるうちに真希の知っていた幼いころのあっちゃんの顔になり、大口を開けて破顔した。そして、ちょっと真面目な顔にもどって、思案げに
「うーん、そうだね。あれは確かに駆け落ちと言っていいものだった。」
と、濃紺の傘から滴り落ちる雨粒をみながら言った。
 あの当時、二人は中学3年生だった。
 駆け落ちといっても、当時二人の恋愛が親に反対されていたとか、赤ん坊がができてしまったとか、そういったややこしいものではなく、今思い出してもほんとうに笑いだしてしまうような、ささいなきっかけで思いついたことで、その顛末もおおげさなことにはならなかった。
 そうでなければ、こんなところで出会って、にこにことあいさつなどできようはずもない。
 でもしかし、その駆け落ち事件は、真希にとって、その後何年間もの間、真希の心を支え続けた温かいできごとであったことに間違いないのだった。
 事件の発端は、真希の両親の離婚であった。
 ある日唐突に母親は真希に、父と離婚することを宣言し、夏休みの間に母の実家のある長崎へ引っ越すことになったと告げた。
 「ごめんね真希ちゃん。お母さんはもう、お父さんと一緒に暮らすことはできないの。」
  
 その一言で真希は、子どものころからこの町を離れることになった。
 真希は、同級生で幼馴染の敦士とつきあっていたから、敦士に泣きついて一緒にどこかへ行っちゃいたいと頼んだのだった。

 二人は、深大寺の門前で落ち合うことにして、その日の授業が終わるやいなや、部活もぶっちぎりで待ち合わせ場所に駆け付けた。
 真希が、門前に着くと敦士はすでに門前で所在無げに立っていた。
 二人はしばらく、池の前のベンチの鯉をながめながらぼんやりしていたが、岩の上に乗っていたカメが、池の中にぽちゃん、とび込んだ拍子に敦士が言った。
 「おれはさ、思うんだけど。真希の幸せは真希が決めるんだろう。どこにいたって、誰といたって、ひとに決められるんじゃなくって自分で決めることだろ。」
 あっちゃんとこのまま逃げてもいつかはそんな生活に嫌気がさすことがあるのかもしれない。それは、自分が何かから逃げているからだ。
 「好きな人といるために、どうして何かから逃げないといけないんだ。俺はそんなのはほんとじゃないと思う。逃げなくたって、いつかほんとだったら俺たちはまた会って、それで自分たちで決めて幸せになることができるんだよ。」
 池のそばのアジサイの濡れた花がひときわ奇麗に見えるように、あるべき時に、あるべきところにあるから、一番輝いてみえるんだ。
 どこに行ったって、何があったってそこで自分が頑張っていればいいんだ。
 わたしとあっちゃんが、このままこの町にいても、いつかは別れるときが来るかもしれない。でも、今離れ離れになってしまっても、いつかまた会えるかもしれない。
 別れることは、終わりじゃない。なにがあったって、終わりってきめられることじゃない。
 わたしは、まだ中学生でいろんなことを自分だけの意志で決められるわけじゃないけど幸せかどうかは自分で決めることができるんだ。
 あっちゃんと、手をつないで雨にぬれた石畳の道を歩きながら、こころの中はだんだんとあったかくなって、つないだ手にギュッとちからを入れたら、あっちゃんがギュッと握り返してくれた。涙がでそうなぐらい幸せな気持ちになって、なんだってがんばれそうな気がした。
 あっちゃんは、、目はちょぴり赤くなっていたけど、唇をきっと噛みしめてわたしの顔をまっすぐに見た。
 「だから真希、俺たちここでお別れだ。ここで思ったことを忘れないでいよう。」

 寂しい時いつも思いだした。
 深大寺小学校の角をまがるその道であっちゃんと別れた時のこと。
 幸せは自分が決めるんだって、そんなふうに教えてくれたあっちゃんのことを。

 「おれさ、来月子どもがうまれるんだよ。よかったら真希、見に来てくれよな。」

 何もかもが永遠に続くわけじゃない。
 幸せも、幸せじゃないことも。

 ただ、それが永遠じゃないからってほんとじゃなかったって言うことにはならないんだよ。
 むしろ、永遠のほうが嘘っぽいことなのかもしれないよ。
 大切なのはそのとき。
 何年たっても、雨上がりの深大寺の石畳の道をわたしは忘れない。それがたったひとつのあっちゃんとわたしの間の真実だから。

長崎 美然子(東京都武蔵野市/44歳/女性/事務職)

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