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<第6回応募作品>「虎と亀」 著者:斉藤 努

  私は自分の名前が嫌いだ。虎。あの凶暴な肉食獣である。その名前をなぞるように私は育った。幼い頃から名前をからかう男子がいれば拳を浴びせてよく暴力沙汰を起こしては母が同級生の家へ謝りに行った。そんな私も高校生になり周りの女の子達を見つめるとみんな恋に浮き足立っている。恋人がいる子もいれば、片思いの子もいる。問題は、恋をしていない子が私以外にいないことである。蒸し暑い教室の中、白い夏服たちが眩しい。汗をかいても、女の子はどうして花のような匂いがするんだろう。私の浅黒い肌からは獣みたいな汗臭さしか感じず、扇ぐ手を止めて窓の外へと目をやる。どこまでも高く青い空に白い雲たちが楽しそうに泳いでいる。私は独り置いて行かれたような気持ちになる。「虎は好きな人いるの?」とうとう私に白羽の矢が立った。女の成分がまるでない女がどんな男を好きになるのだろうと、女の子達が私を囲み固唾を飲んで答えを待っている。「いるよ、当然。」言ってしまった。その後も聞かれるがまま答えていくと、私は同じ陸上部の先輩のことが好きで、今度の日曜日にデートへ行く約束をしていることになってしまった。
 その時だった。何かが倒れる鈍い音、女の子の甲高い叫び声、男子の低いどよめきが一斉に上がった。何が起こったか半分私にはわかっていただけに、誰よりも速くそこへ駆けつけて倒れている人間を抱き起こし背負って運んだ。
 もう一つ大嫌いな名前がある。
 「瑞希君、また倒れちゃったのね。いつも悪いわね虎ちゃん。」
 保健室の先生が見つめる先、白いベッドの上に白い人影がある。瑞希。女の子みたいな名前だと幼い頃からよくからかわれていた。言われる当人も困ったように微笑むだけだった。私はそれが許せなくて、からかう男子を虎のように追いかけては懲らしめた。目の前で眠る瑞希は華奢で折れそうな体をしていて、青白く整った顔立ちは人形のようでこのまま目が覚めないんじゃないかと思う。瑞希が何度倒れて私が何度こうして運んでも、この不安な気持ちだけは慣れることができない。長い睫毛が、揺れた。ゆっくりと開いた瞳に見つめられる。「虎、ごめん。」まだはっきりしない頭でいつも最初にそう言う。そしてまた翳りのある微笑みを向ける。私はやっぱり許せない。唇を噛み締める。瑞希はいつも悲しそうな顔でしか笑えない。瑞希の生まれながらに弱い体を、憎む。病魔を追い立てて懲らしめることはできない。それならせめて私の男勝りな力を瑞希に少しでも分けてあげられたらいいのに。放課後の始まるチャイムが鳴り、瑞希がゆっくりと起き上がる。
「虎、陸上部の時間だよね。俺のことは大丈夫だから、行って。」
私は首を振る。家まで送っていくよ、そう言おうとした時、
「ここから、陸上部の練習が見えるんだ。」
 窓から風が吹いて、彼の三日月みたいに儚げな横顔に、色素の薄い髪が陽に透けてさらさらと揺れる。
「虎が走っているのを見ると、俺も風を感じることができるんだ。」
 その言葉に背中を押されるようにして、私は土埃舞うグラウンドへと向かった。いつものように練習をした後、先輩をデートに誘った。驚いたことに先輩は肯いてくれた。この様子も瑞希に見えているのかなと思うと、なぜか胸が痛んだ。その針のような痛みのせいで保健室の方を見ることができなかった。
 土曜日、晴天の下、私は瑞希と深大寺行きのバスに乗っている。明日に控えたデートの予行練習に付き合ってもらうことにしたのだ。
 「そういえば、なんで深大寺?深大寺と言えば」「蕎麦」と私が答え「植物園」と瑞希が同時に言う。私達が分かれた意見を延々と言い争っていると、坂道を上るバスはいつのまにか終点の深大寺前へと着いた。
 緑が、深い。さっきまで街中にいたのに、不思議だ。バス停から一歩足を踏み入れると石畳の床が涼しい。両脇にお土産さんが並んでいて、まるで縁日みたい。どこかで風鈴が鳴る。一つ一つのお店を丁寧に見ている瑞希の腕を引っ張る。まるで小さい頃に戻ったみたいだね、そう笑うと、瑞希も魔法がかかったみたいににっこりと微笑んだ。私は瑞希のそんな曇り無い笑顔を見たのは初めてだったので、見入ってしまった。
木漏れ日輝く緑の屋根を潜り抜け、絶えず清水の流れる音を辿って、私達は水車の回る蕎麦屋さんを見つけた。澄んだ空気と薫高く冷たい蕎麦が、咽喉を滑り落ちていく。私は大盛りを頼んでもまだ食べたくて、瑞希が笑いながら少し分けてくれた。
再び二人で歩き出すと、不意に塔が現れる。天へ向けて立つ、動物霊園の慰霊塔だった。
 「いつだって、虎なんだよ。」
 塔を見上げる瑞希が、そのままどこか遠くへ行ってしまいそうで、
 「俺に、生きろって元気づけてくれる。」
 私は瑞希の腕を掴んだ。大丈夫どこへも行かないよと瑞希が微笑む。一陣の風が吹いて無数の葉が海の波のような音を立てる。その中に聞きなれない声がした。その主を見ると白い猫がこちらを見ている。私が思わず「おいで。」と手招きすると猫は走り去ってしまった。追いかけてみよう、と瑞希が私の手を引く。いつも私の背に隠れていた瑞希の背中をいま私は追いかけている。いつの間に、私よりも背が高くなったんだろう、こんなに背中が広くなったんだろう。小道を行くと、深大寺の境内に入る。お寺の建物の中から荘厳なお経が聞こえる。私の内に秘められた、生や、死や、苦や、喜びが、しみ渡ってくる、言の葉の波音だった。瑞希の足が止まる。いつの間にか賽銭箱の前に居た。手を合わせ二人それぞれ願いを唱える。目を開けると瑞希が私を見ていた。「何をお願いしたの?」そっと聞いてくる。瑞希の体が良くなるように。言えなかった。今日ここに来て、笑ってくれて、元気になってくれて、これ以上何を望むというのだろう。
最後に、隣接する神代植物公園へ行くことにした。普段は花に無関心の私でさえ色とりどりの花に囲まれることがこんなに嬉しいのだから、花が好きな瑞希はなおさらだろう。
 「私、全然女の子らしくない。こんな花たちみたく、綺麗になりたいよ。」
 「虎だって綺麗だよ。強くて美しいと思う。」
 何の悪びれた色も無くそう言われるとこっちの方が恥ずかしくなる。私は話を逸らそうとして「いい匂いだね。」と言って、花びらの中に鼻を寄せる。
 「花が似合うって、女の子らしいこと?」
 え?と彼の方へ向き直ると、私の鼻の上を彼の指先がなぞって、花粉が黄色く染めた。 
「花、似合うよ。」
 彼の笑顔が眩しかった。
 日曜日、曇り空の下、私は一人、深大寺行きのバス停へ向かっていた。慣れないスカートと踵の高いミュールを履いているせいで、うまく歩けない。私は先輩とデートをして恋をしてこれでやっと女の子の仲間入りだと自分に言い聞かせていた。空虚で真っ暗な心の穴に小石を投げているようだ。何も響かない。小石につまずいて、転ぶ。擦り剥けた膝と、踵の折れた靴。頬に、水の粒が当たる。空を仰げば、どんよりとした雲から雨が降っている。目から、次から次へと涙が溢れる。どしゃぶりの雨になる。私じゃない。こんなこと、私らしくない。苦しい。本当にしたいことは、違う。誰か、助けて。助けて、
 「瑞希。」
 開いた傘を、雨から庇うように私の上に差し出してくれた、その人は瑞希だった。
 「やっぱり、天気予報、見てないと思った。」
 走ってきたのだろう、息が苦しそうだ。体に障るのに、私なんかのために、走ったんだ。
 「バス停まで、行こう。」
 戸惑う私を無理やり背負って、歩き出す。彼の首筋からは薬の匂いがした。このままバス停で彼と別れてしまったら、もう一生会えないような気がする。怖くて、しがみつく。
 「これは、深大寺にある弁天池の伝説。」
 泣きじゃくる私をあやすように彼が語り出す伝説。昔々あるところに、一人の美しい娘がいた。そこへ青年が現れ娘と恋に落ちる。しかし、娘はやれないと両親は娘を池の中島へと閉じ込めてしまう。青年はただただ池のほとりで立ち尽くすしかない。毎日深沙大王に祈り続けもし娘に逢えれば社を建て貴方様を祀りましょうと誓うと、池から一匹の亀が現れ青年は亀の背に乗り島へと渡り娘と逢うことができたという。
 「俺はその亀になる。虎の恋を、叶えるから、だから、泣くな。」
 立ち止まって苦しそうに大きく息をしては、また歩く。そうしながら「でもうまくいかなかったらごめん、俺のせいだ。」と呟く。
 「昨日お寺で虎の恋の成就を願うべきだったのに自分のことを願ったんだ。今隣にいる女の子と結ばれたいって。でも俺、体は弱いし、男らしくないし、だからせめて」
 「馬鹿!」
馬鹿は私だ。女の子らしいことにこだわって、ありのままの自分に嘘をついて、
「弱いとか男らしくないとか、関係ない。私だって瑞希が好き。だから、今日行きたくなかったの。」
 静かに降ろしてくれた、そのバス停に先輩はいない。きっと遅刻を怒って帰ってしまったのだろう。私達は顔を見合わせる。
「先輩に電話で謝ったら、虎の靴を買ってこのまま深大寺へ行こう。」
 「でも、雨だよ。」
 「雨の深大寺も乙かもよ。」
 私の知らない、大人びた笑顔で瑞希が誘う。もっと知りたくて、私は肯いた。

斉藤 努 (東京都調布市)

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