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「夏が巡る」著者:伊藤 將彦

七月も中旬ともなると太陽は煌々と高く、立っているだけで首筋に汗がつたう。新卒で入った電機メーカーの営業職も今年で五年目。仕事は慣れたが、スーツのジャケットを脱いでいても汗が接着剤となってワイシャツを肌にへばりつかせる、このじめっとした暑さだけはどうにも慣れない。腕時計に視線を落すと針は約束の五時から十分を過ぎようとしていた。半休を使って臨む今日という日が時間を追うごとに重く圧し掛かる。
「涼介、お待たせ。思ったより仕事終わんなくて。本当にごめん」
 深大寺の山門の前で自分でもわかる程度に少しばかり落ち着きなく佇んでいると、カジュアルスーツに身を包んだ咲が申し訳ない程度に小走りで寄ってきた。
「ちょっと早いけど夕食にしちゃう? 今日、忙しすぎて昼ほとんど食べてないんだよね」
「そうだな。だったら嶋田家にするか? ここらで飯を食うならやっぱり蕎麦だし、そうなると選択肢は一択なわけで……」
「だよね。懐かしい」
 咲が顔に満面の笑みを携えて石畳を歩いていく。その先にあるのは、土産物屋を併設した伝統的な日本家屋の風格を備えた蕎麦処だ。右を見ても左を見ても蕎麦処が居並ぶ中で、『元祖 嶋田家』が店を構えるのは山門の目の前。徒歩零分の一等地である。
 咲に感化されたのか、どうにも回顧の念が込み上げてきてむず痒い。振り返って深大寺の山門を見上げる。もうあれから干支がひと回りしたのだ。
 あの日も今日と同じ蒸し暑い七月だった。

「今日もご苦労様。涼介、ちょうどお昼時だし、お蕎麦にしようかね」
 祖母が決まり文句を口にしながら、本堂を背に山門を抜けていった。そして、嶋田家の暖簾をくぐると定位置である一階最奥のテーブル席に腰掛けた。壁は膝丈から上が全面ガラス張りで、池とその周りを囲うように茂る青々とした木々が夏本番を告げていた。
 祖母に連れられて調布霊園に祀られた先祖の供養と深大寺への参拝に毎週末出かけるようになったのは、祖父の四十九日を終えてすぐの五月中旬のことだった。四十年以上連れ添った伴侶を亡くした喪失感による寂しさもあったのだろう。祖母は目に見えて気落ちしていた。見かねた母に「おばあちゃんひとりじゃ心配だから」と、偶々用もなく家でごろついていたのを咎められるように、つき添いを命じられたのが始まりだった。
 十五歳。中三の時である。月一程度ならまだしも、思春期の小僧にとって毎週末、祖母と出かけるなど健全たる男子の所業たり得ないのである。しかし、それでも欠かさずついて行ったのには訳があって、もちろん祖母を気遣う気持ちがなかったわけではない。ただ、それ以上に目当てがあったからに他ならなかった。
「いらっしゃいませ」
 テーブル席に着くと間もなく、白と灰色のストライプ柄のエプロンをしたアルバイトがキンキンに冷えた水を持ってきた。後に知ることになるが、そのアルバイトは二歳年上の高二の女子で、名前を『咲』という。なぜ名前を知っているかというと、一度、他の店員が急用で呼んだのを聞き漏らさなかったからだ。思春期の集中力をなめてはいけない。
「そうだね。今日は『上天ざる』をもらおうかしら」
「同じので」
 祖母に続いて気もそぞろに答えると、咲が「かしこまりました」と言い終えた後に小声で「今週もおばあちゃんのつき添いをして、偉いのね」と耳打ちしてきた。そんな些細なことで顔がすぐに赤くなってしまう。二か月も通っていると多少は会話するくらいの顔見知りになることができていた。不純な動機かもしれないが、青春ど真ん中を突き進む少年にとってこれ以上の優先事項など存在しえないのだ。
 カラカラに乾いた喉が水を欲して、やってきた上天ざるを平らげるよりも早く、グラスの中の氷だけが底に溜まっていた。祖母が「おかわりをもらうかい?」と言って気遣ってくれたのをやんわりと首を横に振って断った。代わりに「帰る前にここでお手洗い行っておいた方がいいんじゃない?」と促すと、祖母は「そうしておこうかね」と、言ってから二十分ほどで蕎麦を食べ終えて席を立った。二階にあるトイレへと向かうその背を目で追いながら視界から消えたのを見計い、一方で咲の忙しなさが一段落していたのを確認してから「すみません。お水ください」と、声を張った。咲がすぐにウォーターピッチャーを手にやって来た。慣れた手つきで空のグラスを手に取って水を注いでいく。「あの」と、声をかけて、咲が怪訝そうにグラスをテーブルに置いたところで、休日には決まって携帯している黒のショルダーバックにしまっていた手紙をあたふたと取り出して手渡した。
「待ってます。来ても来なくてもいいです。それでも待ってます」
 咲が首をかしげて手紙を開けようとしたのを慌てて阻んで「バイトが終わった後にしてください」と、お願いした。
 祖母と共に店を後にして一度家に帰ってからしばらくして、深大寺へと踵を返したのは午後六時。それから境内の離れにある入母屋造で建てられた深沙堂の前で待つこと二十分弱。バイト上がりで歩み来る咲の姿を視界に捉えると、鼓動が尋常ではない速さを記録した。後には引けない。緊張を解すべく取り留めもない会話で抵抗を試みて、無駄だとわかって意を決し、初めて咲を見かけてからこの二か月の間、心に秘めていた想いを口にした。
 咲がすうっと、小さく息を吸い込んだ。成否は無論、ここに語るも野暮な話である。

「七月十七日。今日が何の日か覚えてる?」
「スロバキアの独立宣言記念日」
 そう答えると、咲がムッと口を尖らせた。
冗談である。今日が何の日か忘れようはずがない。だが、メインイベントを決行するには店内を埋め尽くす参拝を終えた客の賑わいもあって無性に落ち着かず、相応しくない。そもそも蕎麦処では雰囲気がない。咲も本気で怒っている様子はないのだが、なんだか居心地が悪そうで、視線が当て所なく泳いでいる。
十二年ぶりの決心を貫き通すには、『今』ではない。験担ぎの上天ざるを口へと運ぶ手が急く。当たり障りない仕事の話や今見ている恋愛ドラマの感想などで間を潰して、食事を終えた。会計を済ませて店を出ると、石畳を行きかう人々もまばらになっていた。一時間近く店にいたが、それでもまだ太陽は燦燦と地を照らして眠る素振りすらない。
拝観時間を過ぎた深大寺の山門は閉じられていた。嶋田家を出て石畳を左へと進み、目的の場所へと歩を進めていく。咲は黙ってついて来ていた。
「懐かしいね。ここに来るのって告白された時以来じゃない?」
深緑が包む深沙堂の前で立ち止まると、後ろから声がした。
咲が石段を上って御堂の前へ歩み寄ると、徐に財布から五円玉を取り出した。
「よく覚えてるね」
「忘れられないわよ。突然、『仕事終わりに深沙堂で待ってます』って一行だけ書かれた手紙を渡されて、来てみたら涼介の顔のこわばり様ったら凄かったんだから。今でも目に焼きついて離れないわ」
 口元を緩めた咲が賽銭を投げ入れると、静かに手を合わせた。
後れを取るまいと慌てて隣に並び、財布から取り出した五円玉を賽銭箱に放り込んだ。奉拝しながら思ったことは己のサプライズセンスの欠如だ。今更ながら高層ビルの最上階にある洒落た高級フレンチでも予約しておけばよかったと臆してしまう。だが、そんなことを案じた所で栓ない話だ。意を決する勇気を振り絞るきっかけが神頼みというのは心許ないように思えるかもしれないが、毎年寺社仏閣には何百万、何千万という人が訪れては祈り願うのだ。神に頼って何が悪い。どんなきっかけであれ、一歩を踏み出せるのならばそれでいいではないか。そう開き直って、眼前に御座す深沙大王に決意と祈りを捧げた。
「恋がはじまり 愛へと変わる 深大寺」
 拝礼をし終えた途端に、「何を祈ったの?」と、詮索してくる咲にそう答えた。
咲が「そんなんじゃ伝わらないわよ」と、眉根を寄せた。
 一瞬の間があって、互いの顔に微笑がこぼれた。緊張がほろりと解けていった。
姿勢を正して、鞄の中に大事にしまっていた白い小箱を取り出す。目を瞠る咲に、蓋を開けて見せた。そして、奇を衒わず、ただひと言だけ「結婚しよう」と添えた。
 咲がすうっと、夏葉の香りに包まれた空気を口に含んだ。

伊藤 將彦(東京都三鷹市/41歳/男性/会社員)