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「恋の縁起」著者:阿乃亮

 ニイニイ蝉が鳴いている。蝉が鳴きだすと梅雨が明けるといわれているが、気象庁は梅雨明け宣言を出していない。梅雨前線がまだまだ、日本列島上空に横たわっているらしい。例年より遅い梅雨明けになっている。
 杉下茂樹は、29歳、職業は大学教授の助士。現在研究しているテーマは、一目惚れのメカニズム。心理学と脳科学の両方からのアプローチである。茂樹の上司は雫石教授。父の古くからの友人である。父とは囲碁仲間。父は国文学の研究者で大学教授、俳人の与謝野蕪村研究の一人者でもある。母は中学校の副校長。父と同じく俳句好きで、小林一茶の研究論文を著わしている。教育者の両親に育てられた茂樹は一人っ子、堅物で通っている。
 雫石教授は、男女の恋愛の機微は数多く女性と接することだと、茂樹に無断で、婚活のマッチングアプリに登録した。
 茂樹は、仕事の一環だと納得して、婚活アプリのサイトを何度も検索した。今特に結婚などとは思っていない。恋愛の研究ツールとして考えている。
 茂樹が気になった女性があらわれた。名前は島谷さとみ27歳。職業はグラフィックデザイナーとなっていた。一目ぼれというわけではないが、この女性が気になった理由を、自分なりに分析したかった。人を好きになる理由は、自分とどこか共通する部分があるか、自分にないものを持っている人であると本に書いてある。島谷さとみは、スマホの画面でみるかぎり、飛び切り美人ではないが心がときめいた。心が動くと、相手の事がもっと知りたくなった。心理学的に言っても当然のことである。
 相手の事を聞くのに、まず自分の事を知らせなければ、相手も情報を開示しないだろうと思われたので、自分の趣味についてのメールを送った。
 「私の趣味はカメラです。お気に入りのスポットは深大寺です。吉祥寺に住んでいますので、自転車で30分かかりません。コロナが発生する前は、天気がよければ日曜日ごとにでかけていました。お寺がメインではなく深大寺を囲む樹木が好きなんです。信心深い人間ではありませんので、お寺にはめったに手を合わせません、島谷さんはどちらにお住まいですか」
 島谷さとみからメールの返信が来た。
「目黒川沿いのマンションに住んでいます。桜の時季には、ベランダから目黒川の
桜がみえます。坂を上ってゆくと、美空ひばり記念館があります」
 茂樹とさとみは何回かのメールを交換し、自分の職業も話した。さとみは深大寺には
いったことがないということ分かったが、あまり外には出歩かないのか、さとみの
お気に入りの公園やスポットは無いようだった。
 茂樹は大学での助手の仕事も、新型コロナ感染防止のため、家でリモートミーティング
が増えていた。資料も画面共有でアップすると、普通のリアル会議よりも明確に表示できた。さとみにもリモート会議の設備を使って、今まで撮りためておいた深大寺の写真を
アップで見せた。
 さとみは喜んでくれた。意外だったのは、水木しげるの妖怪漫画のねずみ男が好きだと
言ったことだった。
 茂樹は、思い切って、さとみを深大寺に誘った。仕事が忙しくて自分の部屋からは出られない。自分は身体が、丈夫ではないので、コロナに感染したら、重症化しないともかぎらないから、ごめんなさい。という返事だった。
 写真であれだけ喜んでいたのに、さとみを喜ばせる方法はないのだろうかと、茂樹は頭を悩ませた。茂樹は一人っ子で甘やかされて育ち、誰かを喜ばせようと思ったことは
全くなかった。それが、さとみを喜ばせたいと悩んでいる自分に驚いている。
 さとみからは今取り組んでいるイラストのデザイン画がメールで届いた。大画面に
映しだすと大迫力である。恋する女性の情念をイラスト化して、紅蓮の炎が天まで立ち上っている。さとみから絵の感想を聞かれたが、茂樹はただ紅蓮の炎で、自分が焼き尽くされそうですと答えると、そう感じて下さればうれしいと笑顔になった。
 茂樹は、雫石教授から、リモートで行う心理学授業の画像を依頼されていた。むずかしい講義内容を、イラストの動画で作成し、雫石に送ると 写真だと頭に入ってこないものも、動きがあると、記憶に残る。すごくわかりやすいと褒められた。
 茂樹は、そうだ、さとみを喜ばせるには、映像だ。しかも、リアルタイムで、現場の実況中継をすればいいのだ。茂樹は次の日曜日に深大寺から、実況中継をするから、
忙しいだろうけれど、付き合ってほしいとメールした。
 「うわー、うれしい、楽しみにしています」と、弾んだ声が返ってきた。メールの文字では、感情は伝わらないが、人の声は、しっかりと感情が伝わってくる。茂樹はさとみの
明るい声を聞いて、ますますうれしくなった。
 日曜日がやってきた。雨は降っていなかった。曇り空。暑くなくて帰って有難い。
 「今、家をでます。深大寺についたらまた電話します。スマホの電池結構使うので
一旦切ります」
「お気をつけて、お電話、お待ちしています」
 茂樹は高速充電器を確認して、走り出した。自転車で移動中はマスクを外した。
やはり、息苦しい。そのかわり、透明のフェイスシールドを付けた。
 深大寺につくと、マスクをつけた家族ずれや若いカップルが多かった。
外出自粛といわれていたので、ここに来るのも四か月ぶり。
さとみに電話してテレビ電話に切り替えた。
「まず、僕が一番気に入っている、木々のみどりです。丁度薄日が射して来ました。
木々を渡る夏の風、胸いっぱい深呼吸をします」
「気持ちよさそうですね、風の音も聞こえてきそう」
「仕事が落ち着いたら、一緒に、ここ歩きましょう」
「・・・」
さとみの返事はなかった。茂樹は、途中の店を映しながらあるいた。
「ここが、さとみさんが好きな、ねずみ男がいる、鬼太郎茶屋」
「鬼太郎の下駄、可愛いい!」
「ひとりなので今日は食べませんが、このお店のおそばおいしいんですよ、いつか一緒に
食べたいですね」
 茂樹は、神代植物公園も実況中継した。茂樹が気になったのは、今度はご一緒に、来たいですねと言うと、返事が返ってこない。なぜだろうと不思議に思いながら、家に戻ると、
さとみから、メールが届いていた。「自分は、大学二年生の時、交通事故に遭い、両足が不自由で車いすの生活である。仕事が忙しいと言うのは嘘で、深大寺に行きたくても
ゆけない。こんな私に親切にしていただいてありがとうございます。今日で交際を終わりにして下さい。素晴らしい時間をありがとうございました」
 茂樹は、すぐに連絡をいれたが、つながらない携帯番号になってしまっていた。
 会えなくなってしまうと、ますます恋心は募る。さとみの住所は分からない。
茂樹の生活はさとみを捜す毎日になった。どうしても、もう一度会いたかった。目黒川の桜が見えるマンションを捜した。美空ひばりの記念館は目黒川からは少し坂を上る。さとみのマンションから記念館が見える距離なのだろうか? さんざん探した。マンションも個人情報保護で、表札を出しているところは本当に少ない。駅近くの交番でも尋ねたが、
結局わからずじまいだった。
 茂樹は障害があると恋は燃えるのだと、自ら体験した。人を喜ばすために何かをしたことがなかった茂樹だったが、さとみを車イスにのせて、深大寺の深い緑の中を歩いてみたい。さとみの喜ぶ顔が見たいと切に願った。特別な事を望んでいなかったが、一度でいいさとみの笑顔が見たいのである。
 茂樹はまた深大寺に来ている。まともに、神仏に手を合わせた事がなかった茂樹が
良縁成就ご利益本尊のお札がたてかけてある深沙堂の前で手を合わせている。 
深大寺をひらいた満功上人は、自分の両親の恋愛に手を貸した深沙大王を祀るため
この地にお堂を建てた。七三三年の事である。以来縁結びの御利益の由縁となった。
「島谷さとみさんとご縁がありましたならば、どうかもう一度再会できますように」
茂樹は心の底から祈った。御堂を背にして歩きはじめると、雲っていた空の雲間から、一筋の光がさしてきた。茂樹は、いつの日か必ず、さとみに会えるのではないかと思った。
 頭上には、アブラゼミが今を盛りに鳴いている。

阿乃亮(東京都北区/70歳/男性/自営業)