「美しく、永遠に留めるべきもの」著者:柚木理佐
大柄の蝶にふわふわと行く手を阻まれて、私は足を止めた。褐色の紋が鮮やかなアサギマダラだ。隣を歩いていた槙野教授が目を細める。
「本来この辺りは生息域ではないのだが、台風の影響だろうね。それにしても、都会でこれだけの蝶を見られるとは」
神代植物公園の広大な敷地には約四千八百種類の植物が植えられている。梅や桜、薔薇の名所だが、花々に集う蝶たちの知る人ぞ知る観測スポットだ。
昆虫学者だった私の父は勤務先の大学を早期退職した後、この植物園でボランティアのガイドをしていた。長く会うこともなかった父が心不全で急逝して、私はロッカーに残された彼の私物を引き取りに来たのだった。私物の中に数点の標本ケースがあると聞いて、私は父の恩師である槙野教授に声をかけた。
「最後まで手元に置いていたというから『雪の貴婦人』だと思ったんだがねえ」
それは父が発見した新種の蝶の名だ。
「岩木君があの蝶を発見した時のことは、今でも昨日のことのように覚えているよ」
二十年前に行われた越冬昆虫の調査でのことだった。雪山での調査中、急激な気圧の変化に襲われた一行は、吹雪にとじこめられてしまった。食料も尽きかけた時、父がおかしなことを言い出したのだ。白い蝶の群れが見える、と。
低体温症による幻覚と誰もが思った。仲間たちの制止を振り切ってテントから飛び出した父は翌朝、なんと自力で麓に辿り着いた。その手の中には白銀の蝶が捕らわれていた。衰弱し熱にうかされながら彼は言った。
雪の向こうから現れた女性が助けてくれた。彼女は雪に舞う蝶の化身で、父を人の世界に返してくれただけでなく、その願いを聞き入れ身を捧げてくれたのだと。
「ご覧、こんなにも美しい。この蝶は、もとは人であったのかもしれない」
自らの手で標本にした蝶を愛おしげに見つめる父は、子どものような目をしていた。
「あの蝶を最後に見たのは、中学生の頃でした。母が、家に標本を置くのを嫌ったので」
「ああ……」
ベンチのところで槙野教授が足を止めた。
「少し休もう。飲み物を買って来るよ」
自分が行くと言ったのだが、ついでに小用をと断られて、私はベンチに腰を下ろした。ずっと抱えていた鞄を下ろし、中から父が残した標本ケースを取り出してみる。珍しい物ではなく、この植物園でも見られる蝶ばかりだった。
「あれ……」
一つ、入れた覚えのない標本ケースがあった。中味は空っぽで金色のピンだけが刺さっているが、その美しいピンには見覚えがあった。
私が中校生だった時、父は鍵のついた戸棚から一つの標本ケースを取り出した。
「お母さんには内緒だよ。全部、手離したことになっているんだから」
美しい蝶だった。子どもの掌ほどの大きさで、ぱっと見ただけでは真白に見えるが、光の加減で翅には模様が浮かび上がってくるのだ。
「キラキラしていて、きれい」
私は翅のことを言ったのだが、父は蝶を刺す金色のピンのことと思ったらしい。
「特別に作らせた、純金製なのだよ。これほど美しく、永久に留めるべき蝶なのだから」
「教授は、まだこれをお持ちだったんですね」
ふわりと甘い香りがした。気がつけば、傍らのベンチには一人の女性が座っていた。白く美しい手が私から標本ケースを取り上げる。
「あんな風に突然、フィールドワークをおやめになって、標本は全て処分したと伺っていたのに」
女性の声には非難の響きがあった。彼女は、父に心酔していた若手研究者だったのかもしれない。
母は最初から、父がフィールドワークに出ることを嫌がっていた。彼の身を案じた為でもあるし、金銭的な問題でもあったが、何よりも、虫たちをピンで刺すその行為が残酷だと言って、標本を嫌がったのだ。父は母の非難を聞き流していた。小学生だった私が心臓に疾患を持つと知るまでは。
母は、ここぞとばかりに父を責めた。
生き物の命を奪うようなことをしているから娘が病気になったのだ、と。非科学的で一方的な糾弾だったが、父はそれを受け入れた。全ての標本を手離すことで。
手術が成功し私は健康を取り戻したが、父は次第に元気をなくしていった。羽をもがれた鳥のように、研究に対する熱意を失い、仲間まで遠ざけるようになった。夫婦の間に刻まれた溝が埋ることはなく、私が高校生の時に両親は離婚したのだった。
母と共に暮らすことを選んだ私は以後、数えるほどしか父に会うことはなかった。
父は恐らく、失意と孤独の中で死んだのだ。
いずれにせよ妻子を失うならば、己の道を捨てるべきではなかったと、悔やんだに違いない。彼には何が残されたと言うのだろう。
「美しい物、希少で価値ある物だから、永久に留めるのだと彼は言った。その熱意が本物だったから、愛とまで感じられたから、私はこの身を捧げたのに」
その時、女性の身から陽炎が揺らめきたった。白銀の美しい翅が見える。
この人は、まさか……
「彼は私を裏切った」
冷ややかな声が女性の唇からこぼれ出た。
「より大切な物があるからと、私の手を振り払った。ならば、その宝こそを今、永遠に留めるが良い!」
呪詛とともに、女性は標本ケースを私に投げつけてきた。とっさに受け止めた箱は空っぽではなくて、何かが金色のピンに刺されている。それは、親指ほどの小さな人だった。人形のように見えるが小さな体はもがき、苦しんでいる。
あれは、幼い私だ。父が、真白の蝶を裏切り、選び取ったもの。
悲鳴をあげた私の手から標本ケースが落ちた。ガラスが砕け、金のピンが弾け飛ぶ。
バラバラになったケースから舞い上がったものは、白銀の翅を持つ蝶だった。
一頭だけではない。女王たるその身を守るがごとく、無数の蝶が地から湧きあがる。急速にあたりの気温が下がった。ここはもう、午後の日差しが降り注ぐ秋の植物公園ではなかった。風が鳴る深い山中だ。
真白の蝶の群れは、雪片となって私を襲った。冷気が胸を刺し、手足の感覚が失われていく。私は積る雪に膝を着いた。けれど霞む視線の先に、私は見たのだ。両の腕を広げて誰かを迎えようとする白銀の女を。その人の目は、私を見てはいなかった。
真白の蝶は笑っている。自分のもとに堕ちてくる男を迎えようと言うように。その笑みは高らかに勝ち誇り、妖しく、そして慈愛に満ちていた。
「岩木君!」
肩をゆすぶられて、私は意識を取り戻した。女性の姿は消えており、青ざめた顔をした牧野教授が、こちらの様子をうかがっていた。
ふうわりと、木の葉色した蝶が一頭、凍りついていた時を緩めた。
「……飛び去る蝶を見たよ」
教授は壊れた標本ケースを拾い上げた。掠れかけたラベルの文字は、それでもかろうじて読み取ることが出来た。雪の貴婦人、と。
「行ってしまったね」
牧野教授が静かに言った。
「幻の蝶も、彼も」
「はい」
行ってしまった。連れて行かれたのではなく、父は自ら選んだのだ。ひとたびは手にすることが叶わなかった、美しく、永久に留めるべき、彼方を。
柚木理佐(東京都)