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「バラ香るベンチで」著者:島岡吉郎

うららかな春の午後、神代植物公園のバラ園でお決まりのベンチに腰かけると、いつもの猫がどこからともなく現れ、ニャッと鳴いて僕の横に香(こう)箱座(ばこずわ)りした。その背中を撫でながら、たおやかに揺れる色とりどりのバラの花群を眺め、その甘い香りにうっとりしているうちに脳裏に浮かんでくるのは、四十年前、僕が二十五歳だった秋の日の出来事――
 あの日、僕は新宿のレストランで直子と二人で食事をした。久しぶりに会った直子は、赤いルージュがよく似合う大人の女性になっていて、僕は面映ゆく複雑な思いだった。
「ナオちゃんは、来年、卒業でしょ。どこかに就職するの?」
「いえ、実家で家事手伝いします。両親が戻ってこいと言うんで」
「あ、花嫁修業か。てことは、婚約者がいるのかな?」僕は心をざわつかせて訊いた。
「いえ、いません。だから、両親の勧めで今度お見合いするんです。私、内気なんで、好きな人ができても自分から言えないし、慎重すぎるって言うか、占いとかでよくなかったりすると、前に進めなくなってしまうんで、お見合いのほうが向いてるのかもしれません」
「ふーん、お見合いするのか……ナオちゃんは、どんな男性と結婚したいの?」
「私は、あのコマーシャルのように『少し愛して長く愛して』くれる人がいいですね」
直子は中学からの同級生である茂雄の妹だ。彼女に初めて会ったのは、中一の夏休みに茂雄の家に遊びに行ったときだったが、彼女を一目見て、痺れるような戦慄が僕の体中を走り、彼女も身じろぎせず大きな瞳で僕を見つめていた。まだ小学生だった彼女の反応に特別な意味なんかあるはずがない。そう思いつつも、その衝撃をずっと忘れられずにいた。
僕も茂雄も関西出身だが、二人とも東京の大学に入り、僕らが四年生になる年に直子も東京の女子大に進学した。僕は大学を卒業して金融機関に就職し大阪に配属されたため、大学院に進んだ茂雄とは二年以上会っていなかった。それで、東京に出張した金曜の夕方、久しぶりに一緒に飲もうと思い立ち、彼のアパートに電話したのだが、直子が電話に出て、兄は出かけていて帰りは夜遅くなると言ったので、思い切って直子を誘ったのだ。
大学生のとき、直子と付き合いたいと茂雄に言ったことがあるが、彼は、妹を自分の友人とは付き合わせたくないと拒否した。だから、彼のアパートに遊びに行って直子と顔を合わせたことは何度もあったが、直子と二人だけで会ったことはそれまで一度もなかった。
直子と過ごす至福の一時は瞬く間に過ぎてしまい、僕が「そろそろ出ないと新幹線に間に合わない」と言うと、直子は「明日はお休みだから、うちに泊まったら? お兄ちゃんもきっと喜ぶよ」と誘った。僕は、ワインの酔いでとろんとした直子の瞳に魅せられ、もっと彼女と一緒にいたくなり、彼らが住む調布のアパートに泊めてもらうことにした。
アパートに着くと、直子はすぐに自分の部屋に入って化粧を落とし室内着に着替えた。すっぴんになった直子には少女っぽさが残っていて、僕は密かに安堵した。
テーブルの上に色が揃ったままのルービックキューブがあった。僕がそれを手に取ると、直子は「流行(はや)ってるんで買ったけど、色を崩すのが怖くて……」と恥ずかしそうに言った。
テレビでドラマを観ていたらベッドシーンになり、胸を露わにした女性が呻き声をあげ始めた。僕はばつが悪くなり、近くにあった新聞を手にとり、それに目を落とした。すると直子は、くすりと笑ってテレビを消した。そのとき、電話が鳴った。茂雄からで、直子は少し話してから受話器の送話口を手のひらで押え、悩ましげに眉間に皺を寄せて言った。
「お兄ちゃん、実験がまだ終わらず、今夜は研究室に泊まるんですって」
「ええっ!?」僕は慌てて立ち上がり、直子から受話器を取り上げた。
「杉山だけど、東京に出張だったんで、泊めてもらおうと思って」僕は恐る恐る言った。
「えっ、どうしてお前がいるの?」茂雄は事情がわからず、険しい口調で訊いた。
「夕方、電話したら、お前いなかったんで、ナオちゃん誘って食事して、それで……」
茂雄は、僕が話し終わらないうちに、電話をガチャンと切ってしまった。
僕があたふた上着を着ようとすると、直子は「でも、もう帰れないでしょ」と制止した。
「いや、夜行列車はあるだろうし、どっかのホテルに泊まってもいいし」
「私、杉山さんなら平気ですよ」直子は笑顔で明るく言ったが、その声は上ずっていた。
逡巡の末、泊まることにしたが、僕は急に腑抜けのようになってしまい項垂れていた。沈黙の中、直子は、僕用に出したパジャマのボタン付けをしていたが、それが終わると、信じられないことに、僕の傍らで転寝(うたたね)し始めた。僕が戸惑いつつもピンクのバラの蕾のような直子の唇に見とれていると、直子ははっと目を開いて僕を見た。僕は自分の卑しい心の中を覗かれた気がして心臓が止まりそうになった。そのとき、玄関を開ける音がした。
茂雄は入ってくるなり真っ赤な顔をして僕を睨みつけ、鼻を小刻みに動かし、直子の顔を探るように見てからフーッと息を吐いた。しばしの沈黙ののち、茂雄が「もう寝ろ!」と怒鳴りつけると、直子は、ルービックキューブを掴み取り、無造作に回してその色をばらばらに崩して床に放り投げ、下唇を噛んで自分の部屋に入り、襖をピシャリと閉めた。
翌朝、三人とも黙ったまま、直子が早起きして作ってくれた焼き鮭と卵焼きの朝食を食べていると、茂雄はようやく重い口を開き、直子に向かって、「僕は研究室に行かなあかんから、お前が杉山を植物園にでも案内してやれ」と言って、僕のほうを見ずに笑った。
神代植物公園に入ってすぐ、眼前に広がる光景に、僕は思わず「おお!」と感嘆の声をあげた。すると直子は、「ここのバラは秋にも綺麗に咲くんですよ」と得意げに言った。
僕は直子の横で、バラの香りに酔いながら多彩な花々の饗宴を眺めていたが、流行歌になぞらえ「君はバラより美しいよ」とおどけて言おうとして直子に目をやると、直子は未来を夢見るようにうっとりと青空を見上げていた。僕は直子が近々見合いすると言っていたことを思い出し、直子が鳥のように翼を広げて、僕の手の届かない遠くの空に飛び立っていってしまうような錯覚に襲われ、無我夢中で直子の肩を引き寄せてキスした。直子は抵抗しなかったが、唇は固く閉じられていた。僕が離れると、直子は初めて会ったときと同じ目で僕を見つめていた。もし断崖絶壁にいたなら、僕は迷いなく飛び降りただろう。
僕が歩き始めると、直子は数歩の距離を置いてついてきた。雑木林の小径を彷徨(さまよ)っていると、木漏れ日が嘲笑(あざわら)い、木々の梢が嘆息し、水路のせせらぎが諭すように響いていた。
とんでもないことをしてしまった、茂雄が知ったら激怒するにちがいない、と後悔し、直子に謝ろうと思って、僕は立ち止まった。すると直子は、俯き加減で僕に近づき、笑顔を強ばらせて、「深大寺にお参りして、おみくじをひきましょう」と小声で言った。
直子は大吉、僕は末吉。直子はおみくじを読み終わると、急に口元を緩めて言った。
「年末年始は大阪に帰るんで、京都に初詣に行きません?」
それは二人で? いや、そんなはずはないと思い、「ああ、三人で行こう!」と僕が答えると、「でもお兄ちゃん、今度のお正月は大阪に帰らないんですって」と直子は言った。
僕は、直子のその一言で、絶望の淵から辛うじて這い上がることができた。
そのときのほんのり頬を染めた直子の笑顔が、眼前に滲んで見えるピンクのバラの花と重なり合った瞬間、スマホが振動した。イギリス人と結婚してロンドンに住む娘の静香からだった。定年退職し、しかも独り住まいの僕のことを心配し、よく電話してきてくれる。
「パパ、元気にしてる?」静香は直子とそっくりな声で明るく訊いた。
「ああ、元気、元気。今日も朝から墓参りに行ってきたよ。早いもので、母さんが死んで、もう十五年だな」
「そうね。なのに今でも毎月墓参りしてるパパって偉いよね。ママも喜んでるよ。でも、この前、茂雄伯父さんが学会でこっちに来たときに会って、そんな話をしたら、伯父さん、『妹が生きているうちに、もっと優しくしてやればよかったのに』と文句言ってたよ」
「ああ、もっと長生きしてくれると思ってたからな」
「パパは仕事ばっかりで、ママが入院したときも、あまりお見舞いに行かなかったよね」
「そうだな。あのときは会社の合併で仕事が大変だったからなんだけど、今さらながら、本当に悪いことをしたと思っているよ。で、静香は旦那さんと仲良くやってる?」
「うん、トニーは優しくて、先日も結婚十周年の記念にルビーの指輪を買ってくれたの。それに、この前、トニーとエジンバラに旅行したとき、お城の近くの公園のベンチにメッセージが貼ってあって、亡くなった妻のことを偲んでベンチを寄贈したと書いてあったの。彼、それを見て号泣して、もしお前が先に死んだら同じようにする、と言ってたよ」
「おお、それは、彼がお前のことを本当に愛してくれている証(あかし)だよ、間違いなく」
僕は橙色に染まった空を見上げ、ベンチの背もたれに貼られた、古びて傷が目立つ金属プレートを撫ぜた。そこには、『思い出ベンチ ナオちゃん ここに来れば君に会える 少しかもしれないけど永遠に愛してる 杉山啓介 2005.10』と書かれている。
僕が傍らに座っている猫の頭を撫ぜると、猫は大きな目で僕を見つめ、ニャオと鳴いた。

島岡吉郎(千葉県柏市/66歳/男性/無職)