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「ラヴ・イン・フォール」著者:小島晴

「美咲」
 呼ぶ声に顔を上げると、いつの間にか部屋の入口にお母さんが立っていた。何も言わず、笑顔で廊下の先を指さしている。その先を視線で辿ると、奥に見えるお店のレジに見慣れたお客さんが立っていた。お母さんの笑顔の意味が分かって、思わずため息が出る。
「いま読書中。お母さんが出てよ」
「それじゃ意味ないでしょ。ほら、早く」
 お母さんに無理やり起こされ、背中を押され、結局私が対応することになる。こんなやりとりはもう何回目だろう。本当にこの人は――。
「こんにちは。唐揚げ弁当、ひとつください」
お店に出た私を見て、坂口さんはいつもの注文をした。この一年近く、三日に一回くらいのペースで来ているのに、この人から唐揚げ弁当以外の注文を受けた覚えがない。他の弁当に興味がないのだろうか、なんて思っていたのは最初の数回だけ。興味の対象がそもそも弁当じゃないと気付くのに時間はかからなかった。
いつも通りに弁当を手渡し、支払いが終わっても、なぜか坂口さんはその場を動こうとしない。どうかしましたか、と尋ねようとした瞬間、坂口さんが先に口を開いた。
「……ここでお弁当買うの、今日が最後かもしれません」
「え、そうなんですか?」
 意外な言葉に、思わず声を上げてしまった。
「もともと期限付きで来ていたんですけど、今週いっぱいで終わりなんです。あの、本当にお世話になりました。ここのお弁当でどれだけ助かったか」
 坂口さんはポスドクの研究員で、共同研究のような形で一時的に国立天文台に来ている――というのは決して私から聞いたわけではなく、度重なる来店とそれに伴う世間話から自然と知った話だ。本来所属している大学は東京ではないと言っていた気もするが、こっちにいるのは今週までということだろうか。
坂口さんにそのことを尋ねようと思ったのに、口から出たのはなぜか違う言葉だった。
「……思い残したこととか、ないんですか?」

 坂口さんと二人、武蔵境通りを歩く。まだ五時前なのに辺りはもう夕陽に染まっている。少し前まで華やかに咲いていた百日紅はすっかり鳴りを潜め、代わりに欅の紅葉が一面を飾っている。気が付けば、もう花でなく葉が色づく季節になっていた。
今日の夕方、時間ありますか――あの後、何かを言いたそうにしている坂口さんを見かねて私の方から声をかけた。急ごしらえのデートは、今のところ会話らしい会話が何ひとつ発生していない。
「美咲さんは、あのお店を継がれるんですか?」
 沈黙に耐えかねたのか、坂口さんが唐突に質問してきた。
「ええ……そうですね。ご存じの通りうちは片親ですし、収入的にもお店を失くすわけにはいきませんから」
「そっか、そうですよね。大変ですね、美咲さんもお母さんも」
「まあ、結婚でもすればまた別なんでしょうけど」
 横目で坂口さんを見ると、あからさまに緊張した表情が見て取れた。ここまで分かりやすい人も珍しい。
「美咲さんは、予定はあるんですか?」
「結婚ですか? 私、二十歳ですよ。さすがにまだ考えてません」
「早いと二十歳くらいで結婚する人もいませんか?」
「そうですね。それこそ母は十九で結婚してますし。でも、私はもっと遅いと思います」
 話しながら辿り着いた二つ目の交差点で、直進しようとする坂口さんを止めて左へ曲がった。この先に、連れて行きたい場所がある。

 紅葉に囲まれた石畳を抜け、深沙堂に着いた。時間帯のせいか人は誰もいない。坂口さんは物珍しそうに辺りを眺めている。
「深大寺、来たことあります?」
「いえ、実はこっち側は全然来たことがなくて。確か有名なお寺ですよね」
「はい。いろんなお堂がありますけど、ここは縁結びで有名なんです」
 深沙堂に向かって手を合わせ、目を閉じる。風で揺れる葉の音が聞こえる。それ以外には何もない。
しばらくしてから目を開け、隣を見ると、坂口さんも手を合わせていた。坂口さんは私から三拍ほど遅れて顔を上げた。
「何かお願いしましたか」
 私の不躾な質問に、坂口さんは苦笑いした。
「しました。でも中身は秘密です」
「縁結びですか?」
「さあ、どうでしょう。美咲さんは何かお願いしたんですか?」
「お願いしました。大切な人のこと」
「……大切な人、ですか」
「ええ。その人、年の割に子供じみていて、人が大好きで。そのくせ鈍感で、自分に向けられている視線に気付きもしない」
「…………」
「でも……ずっと、大切な人です」
 坂口さんは私の顔を見つめ、それから深沙堂を見上げた。
「叶うといいですね」
「叶いますよ。私も、坂口さんも」
「え?」
「だって」
「……だって?」
 思わず吹き出してしまった。坂口さんの表情があまりに必死だったからだ。
「深大寺ですから、ここは」

 木陰から覗いた先、深沙堂の前で、坂口さんが所在なさげに立っているのが見える。
――坂口さん?
入口の方から声が聞こえ、慌てて近くの木の後ろに滑り込む。
――こんにちは。観光ですか?
――いえ、実は美咲さんと待ち合わせでして。
――え? あれ、おかしいな……私も美咲に呼ばれたんですけど。
お母さんのその言葉に坂口さんは少し驚き、それから何かを悟ったように微笑んだ。
本当に、どうして私の周りは世話の焼ける人ばかりなのか。
――あの、お伝えしたいことがあります。
意を決したような坂口さんと、ぽかんとしたままのお母さん。そんな様子を見届けて、私はそっとその場を後にした。この先の言葉は、あの二人だけのもののはずだから。
石畳を歩く。降る木漏れ日は、日を追うごとにその面積を増やしているようだ。紅葉も盛りを越え、少しずつ葉が落ちているのだろう。
お母さん。
私はもう大丈夫だから。
だから――。
今度は、自分をちゃんと幸せにしてあげて。
あのとき手を合わせて願ったことは、きっと届いているはず。
「……お父さん、か。ちゃんと呼べるかな」
そっと呟いた私の独りごとは、小さく吹いた秋風がすぐにどこかへ運んでいった。

小島晴(東京都北区/31歳/男性/会社員)