「深大寺の休日」著者:宮藤宙太郎
「『江本』なら別にいいって」
鋭利な言葉だった。
(やだわ奥さん! そんな失礼なものいいってある?)
(でも僕高いよ。一時間五万円。お支払いは現金のみです)
おどけた返しはいくつか浮かんだ、でも結局それは口から出なかった。
「……うん」
「『うん』って。やったじゃん江本、私とデートだよ」
「……いうねぇ」
そういい返す僕は、激しく動揺している。
まさか、『杏菜』はマトリョーシカの一番奥に隠した僕の気持ちを知っているのか?
「江本もデートくらいしたことあるでしょう?」
「一応」
「一応って何よ。土曜日ね。ちゃんと案内してよね」
一方的に話を終わらせ、彼女は西棟の方へ走り去っていった。
『デート』。そう呼ぶことにたいした意味がないことは分かっている。ただ、それでも僕は高揚し、すでに緊張すらし始めていた。
午後の講義をすっぽかし、買うあてもないのに生協をグルグル。その後ひたすらキャンパス歩いた。それでも息苦しさで飽和して、全力で自転車を漕ぎ、一人暮らしの部屋に戻り布団を被った。
暗闇の中、さっきの会話を思い出す。
*
「江本、寺とか好きでしょ」
昼休み、中庭でぼーっとしていた僕のところに杏菜は突如現れ、唐突にそう言った。
「……まあ、普通の人よ 」「私、深大寺に行きたくてさ」
さえぎって、彼女は一方的に要求を述べた。
なんでも大学の近くの深大寺へ、彼女はずっと行きたいと思っていたらしい。ところが不運にも彼氏も周りの友達も、神社仏閣にまったく興味がない。一人で行くのはさすがにと思っていたところ、僕が写真サークルの学内展に発表した深大寺の写真を見て、僕に白羽の矢が立ったという。
「連れてってよ」
「……いいけど……彼氏は大丈夫なの?」
束縛がかなり強い。
杏菜から、彼氏の『菊池』についてそう聞いていたから、僕は尋ねた。
「江本なら別にいいって」
*
菊池とは確かに面識があった。学科が同じで共に寮暮らしだったから、他の友達も含めて何度か遊んだことがある。ただそれだけだった。少なくとも僕は菊池について何も知らないと思っている。一体、菊池は僕の何を知っているというのか?
とにかく菊池は僕を安全無害な男と判断した。そういうことだった。そして当然それは杏菜自身も同じということだ。僕は未だ緊張で波打ってる胸が少し痛むのを感じた。
せっかくの土曜日は雨降りだった。
杏菜はセミロングだった髪をバッサリと切って僕の前に現れた。
僕は正直面食らった。髪型はおそろしく似合っていたし、何より艶かしかった。新しい彼女の誕生。そんな風にさえ思った。
「私、晴れ女なんだけどな」
彼女が不満を漏らす。
「知らないよ」
「さては雨男だな」
「いや、曇り男です」
「なんだそれ。ところでどう?」
「何が?」髪のことだとわかっていながら僕はごまかす。
「江本はおバカさんですか?」
まったくだ……。僕は今、またマトリョーシカを外側に1つ追加したのだ。
「……そうかもね」
「髪型くらい、自分で決めたいじゃない」
彼女はそういって、指先で髪をはじいた。
「決めたらいいんじゃないの? 自分の髪だし」
「ありがとう」
なぜ彼女にお礼を言われたのか、僕にはわからなかった。
「歩いていこうよ」
深大寺行きのバスの話を始めると、彼女は言った。雨が降っているし、歩くと意外と距離があると僕は言ったのだが、彼女はどうしても歩くことにこだわった。
傘と大きな雨音のせいで、僕たちは無口になって歩いた。実際話すことをいろいろ準備してきたはずなのに、いざとなると、そのどれもがつまらないように思えた。彼女は退屈してないか? 僕はそれを心配したが、歩いている彼女は満足そうだった。
深大寺周辺をゆっくり散歩して、鬼太郎茶屋によって、山門、ナンジャモンジャ、本堂から釈迦堂、お土産を見た後、極上の蕎麦を食べる。そんなコースを考えていたのだけれど、深大寺通りまで来ると「蕎麦が食べたい」と彼女が言って、結局蕎麦屋に入った。
「計画くずれちゃった?」
蕎麦をすすりながら、彼女がからかうように言う。
「計画なんか立ててないよ」
僕はまたマトリョーシカを追加する。
「けち」
「そうだね。ここも割り勘だね」
「それでも、私のいうことはよく聞いてくれるのね」
「……」
蕎麦屋を出ると杏菜は僕の提案なんて無視して、勝手気ままに行動を始めた。『水車館』見た後、おみやげ屋を何軒か周り買い物を楽しみ、次に団子屋へ行って4種類の味すべてを堪能した。さらにその後、陶芸の絵付け体験をすると言い出した。
雨は一向に止む気配を見せなかった。でも、雨降りの深大寺はわるくなかった。深い緑が雨を全て受け入れ、雨と完全に同化し、ここをより一層特別な場所にしているように思えた。
「今日はやりたいようにやるの」
絵付けをしながら彼女は改めてそう宣言した。その言葉に含まれた決意や渇望、僕はそこでようやく、彼女が抱える束縛のストレスの断片をみた気がした。
彼女は菊池と付き合っていて、幸せなのだろうか……
「やっぱり釈迦如来見ようよ!」
絵付けを終えた彼女に僕はいう。
「だから興味ないって仏像はさ」
「杏菜ぜったい気にいるよ。人生でじっくり仏像を見たことある? 本気で観察すれば、今まで気づかなかった魅力がきっと見つかるよ」
僕は今度は譲らなかった。
「なんか理屈っぽいな」
「理系だからね」
僕はそう言って、釈迦堂へ向かって歩き出した。彼女がついてこないならそれまでだ。そう思った。でも、彼女はちゃんとついてきてくれた。
釈迦如来像は静かに僕たちを待っていた。
美しかった。それは記憶の中のそれよりも格段に美しかった。僕自身、今までこの美しさにまったく気がついていなかった。そう思った。この感覚……今日駅でショートカットの杏菜を見た時を思い出す。僕はふと彼女の横顔を見た。彼女は何も言わず、静かに釈迦を見ている。
「どう?」
僕はおそるおそる聞いた。
「何が?」
お返しだった。
「釈迦如来像」
「うん……とっても美しいと思った。正直、びっくりした」
そういった杏菜に、僕はいよいよ参ってしまった。彼女の感想は心からのものだと分かったし、なにより思った通り彼女はこの美しさを理解してくれたのだ。しかし……すぐに猛烈な寂しさがこみ上げる。今や僕の気持ちはもう何重にもなったマトリョーシカの一番奥にあって、しかもそれを取り出したところで、どうなるものでもないのだ。
「えっ? なんか江本泣きそうじゃない。そんなに感動したの?」
不意に杏菜にいわれ、我に帰る。
「……ブッダの……悟った者の悲しさがわかったんだ」
「何それ?」
「なんだろね……」
「次はおみくじ引こうよ」
おみくじの創始者「元三大師」の秘仏が深大寺にあると蕎麦屋で話した時から、彼女はここで引くことに決めていたらしい。僕自身そんなウンチクを並べつつ、深大寺でおみくじを引いたことはなかった。大体、おみくじが何をしてくれるというのか。
「二人とも『凶』かもね」
僕は言った。
「江本は悲観的ね」
「深大寺はドーピングしてないからね」
「どういうこと?」
「引いた人を満足させるために『吉』の数を増やしてないってこと。だから『凶』が多いって噂がある」
「私、今日は『大吉』引く気がする」
彼女は確信に満ちた顔をする。
結果、杏菜は『凶』で、僕は『大吉』だった。
「こんなに自由なのに『凶』なの……」
彼女はぽつりと言った。
一方僕も自分の『大吉』について考えた。
確かに杏菜と出かけることができた。釈迦如来の美しさを共有できた。でも、結局、僕の中のマトリョーシカは今日、さらに大きくなった。果たしてこれで『大吉』と言えるのだろうか?……
「電話かかってきちゃった!」
突然、杏菜は言った。
確かに彼女の手の中で携帯電話が震えている。
彼女は「ごめん」と言って僕からかなり距離をとって電話に出る。
遠くの彼女は、電話口の向こうの誰かに仕切りに説明しているように見えた。僕にはもうわかっていた。菊池から電話がかかってきたのだ。
「行かなくちゃ」
電話終えて戻ってきた彼女がそう言った。
予想し、覚悟していたことなのに、びっくりするぐらい重い言葉だった。
(やだわ奥さん、これほど重い言葉ってある?)
(では、三時間四三分でしたので十八万円です)
僕は心の中でだけそうつぶやく。
「……そう。送ろうか?」
僕は必死で何ともない顔をつくる。
「大丈夫。アイツがバイクで迎えにくるから。ひとりで来てることになってるし」
「……?……そう」
「ごめんね。なんか今日私の見たいところばっかりだったね……今から江本は行きたかったところ、ゆっくり見て」
「……うん」彼女はずるい。
「ありがとね。バイバイ」
満面の笑みで彼女が手を振る。
「うん。こっちこそありがとう」満面の笑みを返す僕もずるい。
僕は彼女の後ろ姿を茫然と見つめている。
今の彼女に、ショートカットは似合っていなかった。
遠くからバイクの音が聞こえてくるような気がした。
これで本当に『大吉』か?
僕は僕に問う。雨音がドラムロールのように響いている。
…………冗談じゃない!
僕の心が激しく異議を唱える。
『江本なら別にいいって』彼女の言葉がマトリョーシカを開ける。
『江本はおバカさんですか?』彼女の言葉がまたマトリョーシカを開ける。
『髪型くらい、自分で決めたいじゃない』……『私のいうことはよく聞いてくれるのね』……『うん……とっても美しいと思った。正直、びっくりした』……『……ひとりで来てることになってるし』
心に焼きついた。彼女の満面の笑みが強烈に浮かび上がった時、僕はマトリョーシカを全て開け終えている。
「行かなくていいんじゃない!」
雨音に負けないくらいの大声で僕は杏菜を呼び止めた。
宮藤宙太郎(東京都八王子市/37歳/男性/自営業)