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「君は、あの満月の夜」著者:ねごろみちこ

 ぬるい風がびょおと吹いた。けんけんで靴を履きながら、空に月を探す。
「どこだ、満月。」
母さんが玄関ドアから顔を出した。
「十五夜の会が終わったらまっすぐ帰ってくるのよ。」
わかってるよ、と心の中で返事をして、僕は深大寺へ走り出した。夜に一人で出掛けるなんて、今日は特別だ。
 深大寺まではゆっくり歩いたって五分。途中、小学校の前を通ると門の隙間から見る校庭は真っ暗でがらんとしていて、今日体育の時間にハードル走をした場所とは思えなかった。僕は全部をわかっていたつもりの学校の知らない顔を見てしまったような気がして少し怖くなった。

小走りで向かっていると参道の手前でふいに女の人に声を掛けられた。
「コウちゃんじゃない?」
一瞬誰だか分らなかったけれど、隣にちさがいたから、ちさのお母さんだと気が付いた。
「うわぁ、久しぶり。大きくなったねぇ。」
知らない男の人も一緒だ。僕が何を話せばいいかまごまごしていると、
「コウちゃん、私より背が高くなっちゃったのね。かっこよくなってぇ。」
と、おばさんはころころと笑った。
おばさんってこんな感じだっけ。前はいつも忙しそうで、あんまり笑わなくて、なんというか、もっと暗かった。それは、保育園のときにちさのお父さんが死んでしまったからで、〝女手ひとつでねぇ〟と母さんたちが心配そうに話すのを聞いて、幼心におばさんは大変なんだと感じていた。でも今日は、こんなに明るく笑って、お化粧だってしてるし、スカートなんて履いて、まるで別の人みたいだ。
ちさは、つまらなさそうにつま先で地面の石を掘っている。四年生くらいまではしょっちゅう一緒に遊んでいたけど、だんだん話さなくなって、六年生になった今は、同じクラスでも話すことはほとんどない。それでも僕は教室でちさが笑っているだけで、なんだか安心した。
「ねぇ、ちさ。コウちゃんと一緒に民話語り観てきたら?」
えっ、とちさが急に顔を上げた。
「なんで?お母さんと一緒に観るよ。」
ちさはおばさんの腕を掴んで、思いがけず強い口調でなんで?と繰り返した。
「でも、せっかくコウちゃんと会えたんだし、行っておいでよ、ね?」
「……わかった。」
ちさはとても悲しそうな、傷ついた表情をした。僕だってちさと二人でいるのを友達に見られたらと思うと断りたかったけれど、こんな顔のちさは見たことがなかったので、なんとなく言えなかった。
おばさんと知らない男の人に笑顔で見送られて、僕たちは二人で参道を歩きはじめた。ちさは何も話さない。僕はずらりと並んだ露店を眺めながら、お小遣い持ってくればよかったかなとかぼんやり考えていた。

 民話語りの会場になっている深沙堂は思っていたより混み合っていて、観客用に敷かれたござはもうぎゅうぎゅう詰めだった。僕たちはなんとか場所を見つけてくっついて座った。小さい頃に戻ったみたいな気がした。
唐突にちさが口を開いた。
「ねぇ、深沙堂って縁結びの神様なんだって。」
舞台の方を見ているけれど、その眼は別のものを見ているようだ。
「ふうん。」
「……お母さんが言ってた。」
目を伏せてそう言い、それから初めて僕の方を見た。
「ずっと正座だと足しびれるよ。」
「あ、確かに。」
ちさが笑ったので、僕はほっとした。やっぱりちさは笑っているのがいい。
 と、突然どぉんとお腹に響く太鼓の音がした。
どぉん、どん、どどどどどどどど……
松明の揺れる明かりで照らされた舞台に語り部の人が登場し、低く、でも驚くほどよく通る声で語り始めた。民話は『三枚のおふだ』で、僕も知っている話だった。けれど、夜の深大寺で聞くと一味も二味も違っていた。風が吹くたび生い茂った木々がざわざわと大きな音を立てて不気味に騒ぎ、松明の火は生き物のように動いた。そして頭の芯まで響いてくる太鼓の音。その怪しげな雰囲気に僕はすっかり飲み込まれてしまった。

どんどんどん、小僧が逃げる。どどどどど、やまんばが追いかけてくる。
どんどんどん、おふだを投げる。どどどどど、まだ追いかけてくる。

その時、ちさが僕の手を握った。僕の意識は、民話の世界からすっ飛んで深沙堂へ戻った。保育園の時から、ちさとは数えきれないほど手をつないできた。なのに今度は自分の心臓の音が頭に響いて、太鼓の音が聞こえない。
ちさを見ると、目に涙をいっぱいに溜めたまま空を見つめていた。さっきまで探しても見つからなかった満月がいつの間にか空の真ん中にいる。明るい、そして優しい光だ。
ちさが本当に小さな声でつぶやいた。
「……お父さん。」
ちさの目に溜まった涙に、満月が映って、僕はつい奇麗だと思ってしまった。
黙ってちさの手を強く握り返した。僕たちは民話語りが終わるまで、そうしてずっと手をつないでいた。ちさの手は少し汗ばんで、とても熱かった。

次の日、ちさは学校に来なかった。
理由は終わりの会で先生が読み上げてくれた手紙でわかった。家の事情で引っ越すこと。悲しくなるからみんなには黙っていたこと。いつかまたみんなに会いたいです、とその手紙は締めくくられていた。
 僕は頭の中がごちゃごちゃになって、そして胸が痛くなって、なんだかわからないまま、さようならの挨拶が終わらないうちに教室を飛び出した。
 裏門から出て深大寺に向かって走る。ちさの家までは参道を突っ切った方が早い。途中、昨日の深沙堂の前もスピードを緩めず駆け抜ける。
 ちさの手、熱かったな。
 どうして走っているのかわからない。
でも。
僕は僕の足に「もっと速く」と言った。

ねごろみちこ(東京都)