「三万フィートの空」著者:宮町陶子
金細工が零れるように銀杏を流れ、碧風にのって遥か高く舞い上がる。落ち葉の甘い匂いが立ち込め、ノゲシの綿が舞った。腕の中で由紀子が小さなくしゃみをする。高度七千八百フィートの茂さんに会いに行く。茂さん、新型機が嬉しくて仕方ないのだ。
「美佐子さん、きっとですよ。今日は飛燕に乗りますから。由紀子と見に来てくださいね」
茂さんはそう言って由紀子を高い高いした。朝げのおかゆをべとべとにして、由紀子はけらけらと笑う。愛らしい足で茂さんをつつき、反り返って私を見る。
「秋の突き抜けるような深い青を飛ぶんです。東からこみ上げる強烈な陽に照らされて、多摩川の水面は朝焼けの空ごとのみ込む。いつか美佐子さんにも見せてあげたい」
私は飛行機のこと、さっぱり分からないけれど、茂さんは楽しそうに話す。茂さんは飛行機でいるかを見せてくれると言う。いるかは南の温かい海にいる頭のつるつるした魚で、弧を描いて海に潜るそうだ。茂さんが知覧で整備士をしていた時、一度だけ見たと言う。
多門院坂を上ると息が切れてしまった。水車の音が涼しげに石畳を打つ。精米しているのかしら。今夜おいもがゆにしようね。由紀子、まんまが好きだから大きい子になるね。
飛行機を見るのは、深大寺の元三大師さんの境内。なるべく高いところなら、少しでも茂さんに近づける気がして。駆けだす由紀子を慌ててつかまえる。最近由紀子はしきりに歩きたがる。それも両手を広げて堂々と。転ぶの、怖くないのかしら。
スズの硬貨が二枚、お賽銭箱を仲良く転げていくのを確かめる。
『茂さんの飛行機が高く飛びますように、由紀子の夜泣きが治りますように、由紀子がはしかをしませんように、茂さんの腰痛がなおりますように……』
お母さんになってから、お願い事が増えた。これでは良源さまに愛想を尽かされる。
由紀子はおしめをした丸いお尻で石畳にしゃがむ。ノゲシの綿が舞っていて空がよく見えない。それでも、身体を穿つほどの重低音が聞こえている。
「操縦席の茂さんのお顔を見られないし、どこを飛んでいらっしゃるのか、私には分かりません。それに美佐子はあんまり高いところは苦手です。茂さん、ここにいてください」
前にそう言ったことがある。茂さんは困ったように笑った。
「美佐子さん、僕の飛行機はいつも七千八百フィートを飛ぶんです。いざとなったら三万フィートまで昇りますよ。僕は七千八百フィートの空にいると思ってください」
そのときだった。風が勢いよく境内を突き抜けて、木々のさざめきが障子を揺らした。雲一つなく磨かれた深い群青の空を、尾の赤い飛行機の深い緑がまっすぐに。大きな翼は水平で、飛び方がどこか優しい。茂さんの飛行機だ。七千八百フィートを飛ぶんだわ。由紀子の小さな手が飛行機を追いかけてひらひら飛び、大きな瞳は眩そうに細められる。高度をどんどん上げて、飛行機は一瞬のうちに去って行った。迷いなく、私を置いて。由紀子があんよをしたいとせがむので、帰りは元三大師さんのうらを通って北門から帰った。
爆撃があった。おとといの雨でぬかるんだ防空壕は冷たかった。由紀子は蕁麻疹が出てしまう。痛いやら痒いやら、由紀子はひくひくと泣きつづけてお昼も食べない。夜泣きも酷かったので、私はぐったりしてしまう。家に帰った茂さんが、高い高いをしても、お馬さんをしても由紀子はぐずるばかり。赤い発疹を掻き毟る姿が痛々しい。
「美佐子さん、きっと由紀子は分かるんですね。賢い子だ。怖い飛行機が飛んできて、お家を燃やしてしまう。お父さんが由紀子をまもってあげるからね」
茂さんの下がった目じりが由紀子に微笑みかける。
「美佐子さんも、気を強く持たなくちゃいけませんよ。僕が飛行機で守るんです。美佐子さんは夕げのおかずのことだけ考えてくれれば平気ですから」
茂さんが私の肩を引き寄せる。逞しい肩と精悍な横顔。茂さんがいてくれて良かった。お嫁にもらってくださったのが茂さんで良かった。そう思ったとき、涙が零れた。
「泣き虫なお母さん。美佐子さんは愛らしい」
茂さんの低い声が耳元で掠れる。湯たんぽのようで、まだ寒い春の日ものどかになった。
茂さんは近頃、前よりずっと高く飛ぶ。三万フィート。深大寺に行っても茂さんの飛行機は見つけられない。
茂さんの後輩の靖さんが知覧に行くことになった。今日はお別れ会。隊歌を高らかに、お雑炊で乾杯。靖さんは知覧から南の島へ飛ぶのだと言う。
「じゃあきっと、いるかが見えますね」
私を見て茂さんは弱弱しく笑った。
「飛行機に驚いて、いるかは逃げてしまったんじゃないかなあ」
茂さん、背中を丸めて真っ赤な拳を震わせている。靖さんはその肩を力いっぱい叩いた。
「知覧はいいとこです。青い茶畑と開聞岳、南へ広がる大海原がある。飛行機からの眺めもさぞ綺麗でしょう」
「だが、きっと調布が良かったってなる。海はなくとも多摩川がある。武蔵野に勝る地はない。飛燕も武蔵野生まれだ。零は機体が軽すぎる。靖、由紀子の顔も見れなくなるぞ」
「またあ、相変わらず茂さんは零嫌いですなあ。由紀子ちゃん、俺のこと忘れんもんな」
靖さんは眠っている由紀子の髪に手を置く。由紀子は靖さんの分厚い手が重たいのか顔をしかめて寝返りを打つ。薄闇の中の靖さんは、まだあどけない少年のような横顔だった。
その晩、茂さんは布団で私を見て言った。
「靖が心配でたまらんのです。美佐子さん。意気地のない男で情けない」
「茂さん、何もかも終わったら美佐子は知覧に行きたいです。いるかを見てみたいわ」
「いるかも帰ってくるかもしれませんね」
乾いた温かい手が私の布団に乗る。茂さんの角張った手。その手が髪を梳いてくれる。
「美佐子さん、飛燕はきっとやりますよ。敵機に体当たりして調布から追い払います」
「体当たりなんて……、それじゃ由紀子に高い高いもお馬さんもできなくなります」
「大丈夫、撃破される前に落下傘で降り立ちますから。僕は美佐子さんと由紀子と、調布の人をきっと守ります。僕の大切な記憶を灰にされてたまるか。飛燕で守りたいんです」
茂さん、そうやって笑ったまま行くんですか。神様は優しい人に恐ろしいことをさせる。
「三万フィートは青空が宇宙に変わる境目です。飛燕は鱗雲のはるか上で青が滲むところを見せてくれる。あれは整備も難しいが、何より高く飛ぶ。僕もいずれ知覧に行くことになるでしょう。終わったら基地で飛燕を見せてあげよう」
「飛行機が見えないと由紀子がぐずるんです」
「由紀子はきっと立派な飛行機乗りになりますね」
「由紀子まで三万フィートに行ってしまったら、美佐子は地上に独りぼっちだわ。早く帰ってくださらないと私、三万フィートまで迎えに行きますから」
「僕はずっと美佐子さんの側にいますよ」
ノゲシの綿は高く舞い上がり、はらはらと落ちてはまた舞う。夏空を失ったヒグラシの声が葉陰に染み入る。美佐子さんの銀色の髪は柔らかに、ほんのり香り袋の匂い。車椅子で西参道を下るのは少々力がいる。近頃は上り坂より下り坂のほうがきつい。
美佐子さんの朝は「今日もよろしくお願い致します」で始まる。僕のことをヘルパーさんと勘違いしていて、三つ指をついて迎えてくれる。美佐子さん、一日の半分はうわの空。それでも、ふとしたとき「茂さん」と呼ぶ。戦後紡績工になってからも、僕は空に囚われた。一度だけで良いから、また飛燕に乗りたいと願った。飛燕と散った者を忘れる時代に牙をむいた。美佐子さんにもどんなに辛く当たったか知れない。罰が、下ったのだ。
車椅子で元三元師堂まで行くのは無理らしい。美佐子さんを山門横の木陰に連れて、腰を下ろした。秋晴れの空に一本の飛行機雲。美佐子さんは少しばかり疲れた様子だが、白い頬を紅潮させている。木漏れ日がかすれ、彼女は群青の空を一心に見つめる。出会ったときから、彼女の澄んだ瞳が好きだった。でも、その目はもう僕を見てはくれない。
「茂さんがね、今日は飛燕に乗るはずなの。三万フィートまで飛ぶんですって」
彼女は僕に笑いかける。細い指先を瞼に添えて、日傘を傾けた。
「やっぱり見えないわ。茂さん、早く帰ってきてくださらないと由紀子がぐずるのに」
僕はまだ、あなたの隣に戻りませんか。
「あんまり遠くに行くと、美佐子さん。僕のところに帰れなくなりますよ」
美佐子さんは不思議そうな顔をした。
宮町陶子(東京都調布市/20歳/女性/学生)