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「瑠璃子の涙」著者:江中桃子

一年振りに会った美鈴は頬が紅潮していた。肌が抜けるように透明で五月の陽光みたいに眩い光を放っている。恋をしているのだろう、と思った。
僕と美鈴は一年に一度深大寺で会うのが約束になっている。何時ものように軽くお参りを済ませて僕達は「雀のお宿」に向かった。深大寺に数ある蕎麦屋の中でも一番落ち着いた竹藪のある古民家風の蕎麦屋である。中高年の客が多いこの店に、若い僕達が通うのには訳があった。
「私来月結婚するから」
店員が蕎麦を運んで来るなり、美鈴が言った。僕は口にした蕎麦をごくりと飲みこんだ。
美鈴は何時も事後報告だ。兄弟なのに例えれば美鈴は動、僕は静。太陽と月くらい違う。結婚相手は会社の一歳下の同僚で、交際してまだ六か月だと言う。
「結婚したら、今度は三人で毎年ここに来ようよ」
 と僕が言うと美鈴は「そうね」とだけ軽く笑った。
 この蕎麦屋は僕達にとって家族の象徴みたいな店だ。子供の頃、緑深い深大寺が好きな父が毎年家族を連れて来てくれた。母は深大寺も古風な蕎麦屋にも興味はなかったし、僕達も蕎麦よりハンバーグやオムライスが食べたかった。離婚後は父の代わりに母が僕達を年に一度この店に連れて来てくれた。母の死後、さして蕎麦好きでない僕と美鈴もこの店に来るのが年中行事になった。父の顔の目鼻も今となってはよく覚えていない。僕達を育てるのに忙しかった母との思い出もろくにない。覚えているのは、ただ深大寺のこの店で四人で蕎麦を食べたことくらいだ。僕達はこの蕎麦屋があるから、家族として繋がっていられる気がしていた。
 外に出ると五月だと言うのに陽射しがやけに目に沁みる。汗がじんわりシャツにまとわりついた。美鈴の後姿が揺らぎながら、眩い陽ざしの中に小さくなって行った。
 深大寺から植物園に向かう脇道に一軒の植木屋があった。軒に無造作に売られていたサボテンが目に留まる。
「サボテンは人の気持ちが分かるんだよ」
 店の奥から年老いた婆さんが僕を見てニヤッと笑う。売れ残っているサボテンを何とかして売りたいだけだろう。「サボテンに人の気持ちが分かるもんか」と思いながらも、僕は鉢植えを手に取り、頭にピンクの花の咲いたのを一つ買って帰った。
 家に帰ってサボテンを窓辺に置き、水をたっぷりかけてやった。来る日も暑い植木屋の軒先に置かれて喉が渇いただろうと思ったのだ。
「アンタ、そんなに水をかけられたら根腐れしちまうよ」
 どこからともなく声らしきものが聞こえた。辺りを見回したが誰もいない。
「女の扱い方が下手だね、アンタは」
 女? 何度見回してもこの狭い六畳一間の部屋には僕しかいない。まして女なんている訳がない。
「アタシ、瑠璃子って言うの」
目の前のサボテンにふと目が留まる。ピンク色の頭の花が少し揺れた気がした。その声らしきものは、このサボテンから聞こえて来たようだ。その時植木屋の婆さんが「サボテンは人の気持ちが分かる」と言っていたのを思い出した。僕はサボテンの鉢を何度も色々な角度から眺めてみた。
「女の体をそんなにじろじろ見るもんじゃないよ」
 瑠璃子と名乗るサボテンの声は、どこか擦れていて、酒やけした場末の飲み屋のママみたいだ。人生の辛酸を舐めて飲んだくれているサボテンが存在するのか。それとも場末の飲み屋のママがサボテンに化身したのか。理屈はよく分からないが、頭に咲いたピンクの花が何処か可愛くて、僕はそっと頭を撫でてやった。瑠璃子さんは気持ち良さそうに寝息を立てた。
 その晩から僕は瑠璃子さんと酒を飲みながら話すようになった。実際は瑠璃子さんをテーブルの上に置き、僕が勝手に話しかけるだけだ。相槌を打って聞いてくれる日もあれば、詰まらなさそうに欠伸をしているように見える日もある。瑠璃子さんの鉢の砂の部分に少しお酒を浸してやると、美味しそうに飲んでいるように見えた。
「美鈴がね、結婚するんだよ」
 酒をすすっていた瑠璃子さんが不意に僕を見上げる。
「随分寂しそうだね」
「先越されちゃったからね。瑠璃子さん、誰か紹介してよ」
「妹に恋しちゃ駄目だよ」
「恋? 恋なんかじゃないよ」
 僕は慌てて笑って見せた。コップに残っていたお酒を一気に飲み干した。
「何であれ、男が女を好きになるのを恋って言うんだよ」
 そう言うと瑠璃子さんは、足元に沁みこんだ酒をすすった。
 美鈴に僕が恋をしている? 恋、恋なんかではない。長らく兄弟二人で暮らして来たから、美鈴が結婚すると聞いた時、確かに寂しい気持ちもした。だが美鈴を独占しようなんて思っていないし、ちゃんと幸福を願っている。婚約者と三人でまた深大寺の蕎麦屋で会う約束もしている。新しい家族としてまた蕎麦を食べるのだ。
「叶わない恋はさっさと忘れるのがアンタのためだよ」
 そう言うと瑠璃子さんは、頭に咲いたピンクの花から寝息を立てて眠りに落ちた。
 数週間後、美鈴に呼び出され、深大寺の「雀のお宿」へ行った。婚約者を連れて来たのだ。長身で爽やかなその男は悔しいぐらい申し分ない男だった。時折美鈴と男の視線が合う。まるで僕は透明人間みたいで、二人の世界には存在していない人物のようだった。子供の頃手を繋いで行った夏祭り。初めて失恋した美鈴を慰めた高校生の頃。何時も僕は美鈴の一番の理解者のつもりでいた。兄として美鈴を支えて、年に一度この蕎麦屋で会う。それでいいと思っていた。だが今どこか満たされないものが沸々と沸き起こり、僕の心を支配している。
 美鈴の唇が男の唇と重なり合う。美鈴の半開きの唇に男の舌が入り、潤いを帯びた瞳が男をみつめる。男の体が美鈴の中に入り、美鈴が悦楽の表情を見せるのが目に浮かび、慌ててもみ消した。美鈴の目にもう僕は映っていないし、もう肌に触れることも出来ない。僕の体の中を熱いものが流れ、押さえても溢れ出て来るのを止めることが出来ない。
「この店渋くていいですね。来年も三人で来ましょうよ」
 男の笑顔は残酷なくらい純粋だった。美鈴は僕のものだ。誰にも渡したくない。
僕はこの男と美鈴の三人でこの店に来るのだろう。来年も再来年も家族みたいな振りをして、妹の幸せを願う優しい兄を演じるのだ。
 その晩も僕は部屋で瑠璃子さんをテーブルの上に置き、何時ものように鉢にお酒を浸してやった。だが瑠璃子さんの表情は何一つ変わらない。
「何か喋ってよ、瑠璃子さん」
 僕は何度も瑠璃子さんの鉢をゆすったが、酒やけした声も何も聞こえなかった。その時瑠璃子さんの体から涙とも汗とも言えない、一筋の雫が流れて落ちた。瑠璃子さんはどこにでもいる多肉植物の一個体に戻り、それ以来声を発することは一度もなかった。僕は一人になった。

江中桃子(東京都北区/49歳/女性/会社員)