「紫陽花の咲く森」著者:朝海つかさ
梅雨のいっときの晴れ間だった。木々のすきまから、ときおり道しるべみたいに木漏れ日が落ちる。地面は連日の雨に濡れている。道の脇を細い水路が流れていて、雨あがりだというのに、そこの水だけ澄んでいた。
自分たちでこの場所へやってきたというのに、迷い込んだというのがふさわしい気がした。私はこんなに頼りない気分だというのに、沙織はなんでもないふうに隣を歩いている。
「向こうのお蕎麦屋さん、水車回ってたね」
「水車なんてあった?」
「あったよ。もう、舞ってば、ちゃんと前見て歩かないとだめだよ」
沙織が細い肩を揺らして、私をからかうように笑った。
この深大寺からわりあい近い場所に、私も沙織も住んでいる。小学校から高校まで一緒に進み、私たちはずっと良い友人だった。別々の大学へ入ったいまでも、変わらない。私たちはときどきメールをして、電話をして、近所で顔を合わせる。私が彼と別れたばかりの今日も、もちろんなにも変わらない。彼は同じサークルの人だった。また明日から顔を合わせるのが憂鬱だ。大学のちがう沙織は、彼に会ったこともない。別れたと私が伝えたとき、沙織は理由を尋ねなかった。
あの森へ行こうよ、と沙織が言った。近くに住む子どもたちのあいだで、深大寺のあるこの場所は、森と呼ばれていた。住宅街とはちがって木がたくさん生えていて、小さなころは、深く大きな森に見えたのだ。私たちはこの近くで生まれ育ったわりに、深大寺に遊びにくるなんてほとんどしなかった。お祭りでもあれば別だけれど、子どもにとっては、高い木々やそれらの作るひんやりした影が、なんだか近寄りがたく感じた。大人のための場所のようにも思えた。いまでも、そう思う。私がここを歩いていていいんだろうかと、不思議な気分になる。
「この奥にもお堂があるみたい。行ってみようよ」
沙織は細く暗い道の先を指さす。私を励まそうとしているのがわかった。木漏れ日からはみ出ると、陽射しが眩しく目にかかる。すぐに、ひっそりとしたお堂の道に入った。
「ここはなんの神さまなの?」沙織の背中に訊いてみる。沙織はお堂の屋根を見上げた。
「ええと、深沙大王、だって」
「王さま?」
さあ? と首を傾げながらも、沙織は小銭を取り出して、箱に投げ入れた。彼女は本堂からずっとそうしている。見かける賽銭箱すべてにお金を投げ入れてきた。熱心に願うべきなにかがあるのか、それとも単に、習慣だろうか。私も彼女に続いて、お金を入れた。なにを願うべきかもわからないまま、ぼんやりと沙織にならって、手を合わせた。
沙織はこういうとき、いったいなにを考えているのだろう。ちらりと沙織の横顔を盗み見る。大きな瞳を閉じて、なにかを熱心に祈っているような姿。それを見つめてみても、彼女の願っていることを知ることはできない。ただ、綺麗になったな、と純粋に思った。
お堂から引き返すとき、沙織が一瞬足をとめた。見ると、小道の脇に、小さな家のかたちをした絵馬掛けがあった。何段にも重なって、いくつも絵馬が吊されている。
「みんなはなにをお願いするんだろう」
「人のお願いごとを見ちゃ悪いよ、舞」
「でも、見たらここがなんの神さまだったかわかるかも」
私はあたりを窺った。お堂のそばには、私と沙織しかいない。本堂からすこし離れた場所にあるから、あまり人がこないようだった。私は腰をかがめて、絵馬掛けに近づいた。悪いような気もするけれど、興味もあった。沙織の祈りが、見えるような気がしたのかもしれない。吊された絵馬を、そっと覗きこむ。
――素敵な彼氏ができますように。良縁に恵まれますように。田中佑典さんと結ばれますように――いくつもの絵馬に書かれた願いの数々に、思わず息を呑んだ。顔も知らないだれかの願いが、はっきりとした祈りのかたちになって、ここに存在している。
「……縁結びの神さまだったみたい」
隣の沙織と、口元に手をあてて、顔を見合わせる。見てはいけないものを見てしまったような、いたずらを共有するような感覚。子どものころみたいだ。しかし、よりにもよって縁結びだったのかと、なんだか後ろめたい気分もあった。私はいまそんなことを願う気分でもないし、ここにある思いの強さが、恐ろしくも見えてしまった。
「せっかくだし、舞も絵馬書いたら?」
「私はいいよ。彼氏はしばらくいらない」
「でも私、書きたいな。舞も一緒に書いてくれたら、心強いんだけどな」
「え? 沙織のそういう話、意外」
そうかな、といいながら、沙織が参道へ向かって歩きはじめる。絵馬はそちらで買えると書いてあったからだ。
私の知るかぎり、沙織に好きな人や彼氏がいたことはない。沙織は興味がないのだと思っていた。ときどき、男の人に告白されたという噂を聞いた。沙織はそういうことも、直接私に話したことがない。私が一度尋ねてみたら、「断っちゃったから話すことでもないかと思って」とはにかむように笑った。
まっさらな絵馬を持って、ベンチに腰掛ける。ベンチの横にも小さな水路が流れている。澄んだ水の上に、紫陽花が一輪、流れてきた。あれ、と沙織が驚いたような声を出して、地面にかがむ。沙織は流れてくる紫陽花を、そっとすくい上げた。
「この季節、深大寺は紫陽花がそこら中に咲くの。これは落ちちゃったのかな」
木のテーブルの上に濡れた紫陽花が置かれる。まだ枯れてもいない。咲いたばかりの、青と紫のグラデーション。ここに紫陽花なんて咲いていたんだ。顔をあげてみると、沙織のいうとおり、あちこちに紫陽花の色が見えた。気づかなかったのは、きっと前を見て歩かなかったから。沙織はこの森で紫陽花を見たことがあるんだろうか。私と一緒で、森にくることなんてほとんどないと思っていた。沙織が私の知らない世界を持っていたなんて。胸のまんなかが小さく痛む。なぜだか、取り残されたように寂しい。
私がそうしているあいだに、沙織は顔をうつむけて、文字を書きだしていた。なにを書くのか、とっくに決まっていたみたいだった。彼女にはいつも、迷いがない。迷子になったことなんて、一度もないのかもしれない。
沙織はなにを願うんだろう。沙織のことをすべて知っている気になっていたけれど、私も自分のことをすべて沙織に話しているわけでもないし、結局、私は、沙織のことをなにも知らないのだ。私は向かいでうつむいている彼女の手元をちらりと覗いた。沙織らしい美しい字が並んでいる。それが読めた瞬間に、どくんと心臓が大きく打った。
「沙織、どうして?」
沙織が顔をあげる。垂れた横髪を、ペンを持った指でそっと耳にかけながら。沙織のすこしだけ茶色い瞳が、私のことをじっと見つめる。
「それ……、沙織、なんで書いたの?」
――舞が幸せでありますように――
沙織の絵馬には、そうやって迷いなくはっきりと書かれている。逆さ向きだってわかる。さきほどの、目を閉じて祈る沙織の横顔が頭に浮かぶ。私の隣で、だけど私には知ることのできない場所で、なにかを熱心に祈った。あのときの祈りも、同じものだったろうか。
「なんでって、私はどうにもしてあげられないから、せめて神さまにお願いするんだよ」
あ、王さまなんだっけ? と沙織がはにかむように笑う。
そのとき、ふいに思い出した。中学生のころ、こんなふうに一緒に紫陽花を眺めた日のことを。雨の日の帰り道だった。青い傘とピンクの傘を並べて、紫陽花の前に並んでしゃがみ込んだ。綺麗だねと言ったら、沙織がはにかんで笑った。髪型も体型も変わって、私たちはすこし大人に近づいた。だけどその笑い方だけは、ずっと変わらない。
「沙織が男だったらよかったのに」
「私もそう思うよ」
沙織は私を見つめたまま、小さな唇を動かす。真剣だった。私は前歯で下唇を噛んだ。ひどいことを言ってしまった気がした。紫陽花から滴が溢れ、きらりと光る。
「紫陽花、綺麗だね」
「うん、舞が教えてくれたんだ」
それから私は、沙織が幸せでありますように、と祈りを込めて、絵馬に書いた。
朝海つかさ(東京都稲城市/33歳/女性/家事従事)