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「短い詩(うた)をあなたに」 著者:寶生 貴三

 妻が、浮気をしている。
 私の定年退職と同時に、耳に飛び込んできた話だった。本人から聞いたわけではない。妻と同じパート先で働く、親切なご婦人が教えてくれたのだ。甘過ぎる蜜でも味わったかのように、口元を醜く歪めながら。
いつからなのか、相手が誰なのかもわからない。聞けば最近の妻は、職場での休憩時間にも恋愛小説などを読み、どこか浮かれた様子を見せているのだという。
 妻は私より十五歳下だ。見た目はそれ以上に若く美しいと、今でも素直にそう思う。二十年前、私が不惑の歳に差し掛かろうという時に、互いの家族の反対を押し切り、駆け落ち同然で一緒になった。私は当時すでに両親も亡くしており、口やかましい妹たちがいるだけだったが、妻の方はそれ以来、実家とも疎遠になってしまった。子宝にも恵まれず、お互いだけを頼りに生きてきた。
やがて私は、出世と引き換えに増えていく責任に埋もれるように仕事にのめりこんだ。それでも妻のことは、私なりに思い遣ってきたつもりだ。理解してくれていると思っていた。共に在ることが当たり前だと。何も言う必要はないものだと。
 昨日、買い物から帰宅すると妻が電話をしている声が聞こえた。
 「―じゃあ、明日、深大寺で」
 帰宅した私に気づいた妻は、何食わぬ顔で「おかえり」といった。私は「ただいま」と答えた。その日の会話はそれがすべてだった。

 そして私は今、深大寺の参道にいる。近所に住んでいるので妻と何度か来たことはあったが、土曜日の午後となれば相変わらずの賑わいだ。若葉の薫る五月の風が心地よい。しかし今は、素直にその心地よさに浸っていることはできない。
 妻は正午前に出かけて行った。おそらく今頃は、境内にいるのだろう。私は帽子を目深に被り、妻の姿を探した。探し出して何がしたいというわけではない。ただ、じっとしていることはできなかった。山門をくぐり、本堂を眺める。見頃を迎えたなんじゃもんじゃの木の前で足を止め、見上げたその先―元三大師堂の前に、見覚えのある後ろ姿があった。私はハッとして身を屈めた。
 おみくじや絵馬などが並べられた台の前に、妻と、その隣に背の高い若い男が立っていた。妻は並べてられている冊子のようなものを手に取り、男に何やら熱っぽく語っている。男はそれを聞きながら笑みを浮かべている。仲睦まじい二人の様子は、妻の若々しさも手伝って、しっかりと恋人同士のそれに見えた。
 男は絵馬を購入したようだった。そこに何かを書き入れると、二人で絵馬掛に奉納し、歩き出した。私は二人が立ち去るのを待って絵馬掛の前に歩み寄り、今しがた二人が掛けたばかりの絵馬を見つけた。
 ―二人がずっと一緒にいられますように。 修・由里子
 妻の名と、知らぬ男の名が記されたそれは良縁成就の絵馬だった。
 「由里子・・・」
 私はほぞを噛む思いで、二人が立ち去った方向に目をやった。ふらふらとそのあとを追って歩き出す。妻と男は、今度は延命観音の前で手を合わせていた。さらに深沙大王堂の方へと動き出したのを見て、私はもうそれ以上追いかける気力がなくなってしまった。
 ここまでか―。私は二十年間の夫婦生活を思い返しながら、とぼとぼと参道へと引き返した。二人と鉢合わせしないうちに帰ろう。
やがて、有名な妖怪マンガの関連商品を並べる店先まで来た。テレビドラマでこの漫画家役を演じた若い俳優に、妻が熱を上げていたことを思い出す。そういえばさっきの若い男も似たような雰囲気だったか。
 そんなことを考えていた私の腹の底に、突如として怒りが込み上げてきた。私は何をすごすごと逃げ帰ろうとしているのだ。なぜ私が隠れなければいけない。そして無性に、あの若い男の顔を殴りつけてやりたくなった。
帽子を脱ぎ、右の拳にぐっと力を入れると、踵を返して深沙大王堂へと足早に向かう。地面を踏みしめながら進むと、男がそこにいた。妻の姿はない。私は首を振って辺りを見回したが、手洗いにでも行ったのか見当たらない。
それならばかえって好都合だと思い、私は男に向かってさらに歩を進める。その足音に異様さを感じ取ったのか、若い男は振り返ると、「わっ」と叫んで目を見開いた。私は男に詰め寄り、その襟元に手を伸ばした。
男は後ずさりして首をすくめ、「ちょっと、おじさん」と叫ぶ。
―おまえのような奴に「おじさん」呼ばわりされる筋合いはない。
私は構わず男を追い詰める。しかし男は、そこで予想外の言葉を口にした。
「待って下さい、博徳叔父さん」
「え?」
振り上げた右腕が空中で止まる。私は、じっと男の顔を見た。この男は・・・。
「宮田修です。覚えておられませんか?」
「宮田・・・」
ふと記憶が蘇った。妻には姉が一人おり、その姉が嫁いだ先が宮田家というのではなかったか。そして、かつて受験の為に上京してきたという姉の息子に、妻と三人で会ったことが一度だけ―。
「修・・・あの、修くんか?」
「はい。ご無沙汰しております」宮田修が深々と頭を下げる。
 これは一体どういうわけだ。狼狽を隠せずに立ち尽くす私の真意を汲み取ったのかどうか、宮田は私の反応を待たずに先を続けた。
「僕、今年結婚するんです。叔母さんにそのことを報告したら、良縁成就にご利益のあるお寺があるからって」
 結婚?良縁?ではさっきの絵馬は・・・?
「実は相手の名前が、叔母さんと同じ『由里子』なんですよ。奇遇でしょう」
「あ」と私は声を洩らした。あの名前は、妻のものではなかったのか。
 「本当は、叔父さん叔母さんにも式に来ていただければとは思っているんですが・・・」
 そこで宮田は伺うような表情で私を見た。
 「いや・・・」私は口ごもってしまう。私が嫌がると思って、由里子はこんな密会を選んだのか。
 「・・・お二人は僕の憧れなんです」
 宮田が突然そういった。発言の意味がわからず、私はあからさまに怪訝な表情を浮かべたのだろう。それを見た宮田が少し笑う。
「お二人は周りの反対を振り切って一緒になられたんですよね?その絆の深さというか、覚悟というか、本当にすごいなと思って」
 そんなに格好良いもんじゃない、と思う。周囲を説得するのが面倒くさくて、ただ逃げ出しただけだ。
「由里子叔母さん、さっきから叔父さんの話しかしないんですよ。やっと退職してくれたからこれからはずっと一緒にいられるなんて、見るからにウキウキしてて」
ウキウキ?最近浮かれていたという由里子の様子はもしかして・・・。
「さっき延命観音に参ったんですけど、それも叔母さんが二人で長生きできるようにって」
あれは、そんな。
「それに―。あ、いや、これは言っちゃまずいかな・・・」宮田の歯切れが悪くなる。
「なんだ。言いなさい」私は焦れて先を促す。
内緒ですよ、と前置きして宮田がいう。
「ここって、恋物語を募集するイベントをやってるそうですね。受賞作をまとめた文集がさっき売られてて―」
由里子が手にとって熱く語っていたあの冊子か。もしかして職場で読んでいた恋愛小説というのも・・・?
「叔母さん、あの文集をわざと叔父さんの目に付くところに置いておく作戦らしいですよ」
「・・・どういうことだ」
「叔父さんて、むかし小説家を目指したことがあったんでしょう?退職後の趣味に、また小説書いて欲しいって、叔母さん言ってました」
由里子がそんなことを―。宮田の話のショックから立ち直る暇もなく、遠目に由里子の姿が見えた。私は慌てて帽子を被り直す。
「急用を思い出した。私はこれで失礼するよ。修君、結婚おめでとう。それから・・・ありがとう」
「え、叔父さん。ちょっと」
私はそれだけを言い残すと、そそくさとその場を立ち去った。

その夜、由里子が作る夕食を待つ間、件の恋物語集がリビングのテーブルの隅に置かれているのを見つけた。通読すると、最後の頁には次回の募集要項が載っていた。
いいだろう、と私は心の中でつぶやく。妻からのこの無言の誘いに乗ってみようじゃないか。私たちは二十年前と何も変わっていない。恋を始めた、あの頃と同じままだ。
「なぁ」妻の後ろ姿に声を掛ける。「修君の結婚式、行ってあげないか」
「え?」由里子は心底驚いたように声を上げて振り返る。
 私は手に掲げた文集を振りながらも、恥ずかしくて妻から視線を逸らした。妻が微笑んでいる気配を、久しぶりに背中に感じた。

寶生 貴三(埼玉県川口市/30歳/男性/会社員)

   - 第7回応募作品