「バラの日傘」 著者: くらお ことえ
「それはない。それはないよ、おばあちゃん!」
可奈はバスを追い、ひたすら自転車のペダルを漕いでいた。途中赤信号があったり停留所があったりするので、自転車でもなんとか追いついて行ける。でも、野イチゴ模様のワンピースの背中は、にじみ出た汗がベッタリとはりついていた。
「ああ、お気に入りのワンピに汗じみが……」
この春から大学一年生の可奈。今日は午後が休講になったので、お昼代を浮かそうと学食に寄らず家に帰る途中だった。おこづかいとは別に一日五百円のお昼代をもらっているのだけど、思わぬ買い物をしてしまったのでお財布がピンチなのだ。
調布駅の駐輪場から自転車を出して家に向かおうとしたら、バス停に並ぶ人々の中で白い日傘が目に入った。
「あ、私のと……」
先週の日曜、代官山のお店で見つけた日傘。象牙色の大きなフリルに白い小さなレースの縁取りがある。さしてみると、白バラの蕾がフワリと花開くようだった。ただ、値札の七千八百円は、可奈にとってドキドキするような金額だった。
高校の制服は、どんよりとした紺色でとことんダサかった。あこがれは乙女チック。ピンク、フリル、花柄、フワフワ。高校を卒業したら毎日カワイイお洋服を着ようと心に誓ってきた。ねらい目はもっぱらレトロな古着屋さん。気絶するほどかわいいブラウスが二千円ぐらいで手に入るのだ。
代官山の古着屋さんを目指す途中のお店で出会ったバラの日傘。買わなければ一生後悔する! と手に入れた。だから、見間違うはずがなかったのである。
バスに乗り込むためにスイッと日傘がたたまれ、持ち主の顔があらわれた。
「マジ!?」
日傘の持ち主は意外にも若い子じゃなくて年寄り、それも見慣れた――あろうことか、可奈のおばあちゃんだった。
「……あれ、私の!?」
おばあちゃんは可奈のママのお母さん。おじいちゃん亡き後、可奈の家族と一つ屋根の下に住んでいる。
おばあちゃんはハデでも若作りでもない。世間一般の「おばあちゃん」というカテゴリーにぴったり当てはまるタイプだ。「着やすいのが一番」と、ユニクロなんかで買ったのびのびジーンズやカットソーを愛用している。そんなおばあちゃんが最近可奈のファッションにやたら注目するようになった。可奈のフワフワなパフスリーブのワンピをまぶしそうに眺めて「かわいいちょうちん袖! なつかしいねえ」なんて言うのだ。
バスの行き先は「深大寺」となっていた。おばあちゃんは終点まで行かず、手前の「神代植物公園」で下りた。おばあちゃんはふたたびバラの日傘を広げ、吸い込まれるように園内に入っていった。可奈も駐輪場に自転車を入れ後を追った。
「入場料五百円……うう」
イタイ出費だけどこの際しょうがない。園内に入りキョロキョロ見渡すと、うっそうとした森の中にバラの日傘がゆらゆらと小さくなっていくのが見えた。可奈は小走りに追った。空はどんよりとした曇り空で今にも雨粒が落ちてきそう……。深緑の木立がつくる深い影がいっそう可奈の疑問をかきたてる。
「なんで雨が降りそうなこんな日に日傘なわけ!? それも、私の!」
パッと視界が開けると、広い園庭にバラの花が咲き乱れていた。大輪のバラ、小さく可憐なバラ、深紅のバラ、ピンクのバラ……。バラが咲き乱れる向こうに、バラの日傘をさしたおばあちゃんがたたずんでいた。隣には知らないおじいさんが立っている。おじいさんはスッと背筋が伸びて、チノパンに薄いブルーグレイのシャツが似合っていた。
今まで焦って気がつかなかったけれど、おばあちゃんはいつものユニクロファッションじゃなかった。たまにお芝居に行くときに「一張羅よ」といって着る浅黄色のワンピース姿。、ぺたんこ靴じゃなくて、ヒールがあるベージュのパンプスを履いていた。
「おばあちゃん、おしゃれしている……」
バラの日傘にさえぎられて、おばあちゃんの顔が見えない。どんな表情をしているか、可奈はとても知りたいと思った。
ふたりはゆっくりとバラ園を歩き回ってから、園内のカフェに入っていった。ガラス窓越しに、おじいさんがセルフサービスのアイスコーヒーと水をふたり分トレイに載せて運んでいるのが見えた。おばあちゃんは一番奥の席に座り入り口を背にした。可奈は入り口近くの席にこっそり陣取った。
「自販機なら百五十円ですむのに……」
四百円のメロンソーダをストローでちびちび吸いながら、上目づかいでふたりの様子をうかがった。
おじいさんは始終笑顔で、おばあちゃんに話しかけている。
「確定。あの人はおばあちゃんのカレシだ」
可奈が納得したとたん、おばあちゃんがおもむろにコップの水をおじいさんの顔にバシャッと浴びせた。
「ぶっひゃあ!」
可奈はストローを吹き出して素っ頓狂な叫び声をあげてしまった。まわりのお客さんが驚きの目でおばあちゃんと可奈を交互に見た。おばあちゃんが振り返った。可奈を見つけ目を見張ると、スッと立ち上がり早足で出ていってしまった。あたふたと席を立とうとした可奈に向かって、おじいさん近づいてきた。
「もしかして、君は頼子さんのお孫さん?」
頼子さんとはおばあちゃんの名前だ。可奈が小さくとうなずくと、おじいさんはきれいに折りたたまれたハンカチで濡れた顔をぬぐいさわやかに笑った。
「若いころの頼子さんによく似ているなあ」
水をかけられた申し開きはなし。
「水もしたたるいい男になってしまったね」
「はあ(ベタだ)……」
「さてと、僕も失礼するかな。おばあさんによろしく」
おじいさんも出て行ってしまった。一人残された可奈はしばらく呆然としていたけれど、気を取り直してお店の人とお客さんに「どうも、お騒がせしました」とペコッと頭をさげ(一応身内なので)カフェを出た。すると、隣の売店からおばあちゃんが出てきた。どうやら、隠れて可奈を待っていたようだ。
「可奈ちゃん……ごめんね」
おばあちゃんは可奈を伴ってもう一度バラ園へ向かった。途中、ポツポツと話し始めた。
「……あの人はね、むかぁし、おつきあいしていた人」
「むかぁしって、どのくらい前?」
「えっと……かれこれ四十五年になるわね」
「よ、よんじゅう……ごって、すごいね」
「ふふふ。でもね、時間がたってしまえば、そんな昔にも思えないものなの。四十五年前に私はあの人と別れ……いえ、あの人に私が捨てられたの。別に好きな人ができたって言われてね」
可奈は思わず首をすくめた。おばあちゃんから昔の恋バナ(それも失恋!)を聞くなんて思いもしなかった。
「あらら、孫にこんな話しちゃっていいのかしら。……いいわよね」
可奈は曖昧にうなずきつつ、恋愛事情って昔も今もあまり変わらないかも……と思う。
「お別れしてしばらくしてから、私はおじいちゃんとお見合いして一緒になったの。あの人も結婚したけど、しばらくして離婚したって風の便りで聞いたわ」
「今になってどうして再会したの?」
「今年の冬、お葬式でバッタリ。亡くなったのが共通の古い友だちだったのね」
そういえば、とても寒い日におばあちゃんが喪服で出かけたっけ。
「あの人三度結婚して三度離婚して、今は独りだって。要は浮気性ってことかしら。それで今度ふたりで会いましょうって言われてね。私が調布であの人は三鷹に住んでいるから、お互いバスに乗って中間地点のここがいい。あの人、バラの花が盛りのころに会いましょうって。それが今日。昔からロマンチストだったけど、変わっていなかった」
「どうして、私の日傘を持って行ったの?」
可奈が一番聞きたいことだ。
「こっそり借りちゃってごめんなさいね。私も昔こんなふうにかわいい日傘を持っていたの。あの人と会うときにもよくさしていったわ……。今日、どうしても実行したいことがあってね。でも、いざあの人を目の前にしたらたぶん気持ちが萎えてしまう。でも、それじゃ会う意味がない。あれこれ悩んでいたら可奈ちゃんがこの日傘を買ってきたの。これがあれば、勇気を後押ししてもらえる」
「勇気って、コップの水をかける勇気?」
「そう。喫茶店で別れ話をしたときに、やろうとしてできなかったこと」
「じゃ、じゃあ、復讐できたんだね」
おばあちゃんは、曇り空を見上げて苦っぽくほほえんだ。
「でもね、これは終わりじゃなくて始まり。やっと昔の決着をつけたから、ここからがスタート」
「え、……あの人とつきあうの?」
「わからない。のっけからあんなことしちゃったもの……許してくれるかしらね。あの人浮気性だし……これからどうなるかしら」
おばあちゃんが可奈にバラの日傘をさしかけた。
「でもね、この年になってこういう気持ちを味わえたのは、可奈ちゃんの日傘のおかげ」
おばあちゃんのほっぺはほんのりバラ色。可奈はきれいだなと思った。
くらお ことえ(東京都)