「春告げ鳥」 著者: 鈴村 創
彩夏はまだらに陰の落ちる深大寺のバス通りを歩いていた。引っ越してすぐの新居にはまだクーラーがついておらず、室内にいるだけで蒸し焼きにされるような熱さに襲われたからだ。梅雨も明けていないというのに気の早いセミがどこかで鳴いている。
夏が、くる。もうすぐそこまで迫っている。
「あーつーいー」
彩夏は呻きながら日陰の道を選び、参道へ入った。境内を抜けて石階段を登れば避暑地は目の前だ。仲見世に軒を連ねるお蕎麦屋さんから次から次へと呼び声がかかるが、会釈を返しながら店先を通過した。平日の昼前という時間帯からか人影はまばらで、明らかに彩夏に声をかけていたが、お昼を食べたばかりなんですと心の中で言い訳した。
竜頭の滝の前を歩くとひんやりと冷気が漂った。湧水だ。湧き水は冷たい、とひらめいた途端に彩夏はしゃがみ込んでいた。指先を水面につける。気温は三十度近くあるだろうに、流れる水はとても冷たかった。上流からやって来た木の葉がくるくる回りながら彩夏の指先近くを過ぎていく。
ほぅ、と息をついたときだった。
「おまんじゅう、いかがですか?」
不意に声をかけられた。
彩夏が視線を上げると自分と同世代くらいの青年が、お盆におまんじゅうを乗せて腰を屈めていた。なにやら緊張した面持ちである。
「いえ、結構です」
おまんじゅうは美味しそうではあったが、お腹がいっぱいの彩夏はすげなく断った。逃げるように山門をくぐる。正面に鎮座する本堂に一礼して、日陰を求めて目についた階段を登った。元三大師堂の階段である。
求めていたものがそこにあった。木陰だ。おみくじや護摩木を涼を堪能しながら見て回り、彩夏は運試しとお財布を取り出した。
開運招福お守の方へ二百円を落とし、おみくじの中へ手を入れる。一番に指先に吸い付いたものを引き上げた。
「吉、かぁ」
声に落胆が混じる。じっくり目を通すと恋愛運だけは良かったのでまあよしとする。一緒について来たお守りは亀だった。金運があがりますようにと、お財布に入れた。
「お、大吉」
横から羨ましい声がしたので、顔をそちらへ向けた。
さきほどの青年だった。
「待ち人すぐ来る、かぁ」
やたらと嬉しそうである。彩夏はじわりと距離を取った。
「あれ、また会いましたね」
「奇遇、ですね?」
無視するのも失礼だろうと彩夏が恐る恐る声をかけると、青年は営業スマイルを浮かべた。
「休憩になったので、涼しい所へ行きたくて」
別に追いかけて来た訳じゃないですよ、と青年は続けたが、すこぶる胡散臭い。
「今日は何をしに深大寺へ? 縁結び、とか」
「と、言うわけじゃないんですけど」
言葉を濁して矛先を交わそうと思うが、青年は理由をいうまで彩夏を解放してくれそうになかった。さっきおまんじゅうを買っておけば良かったか、と後悔がよぎる。
「家が暑くて、ちょっと涼みに」
「へぇー。お近くですか?」
えぇまあと目を逸らしながら答える。
「もっと上行った方が涼しいですよ。木立と剥き出しの土で、ひんやりしてて」
「知ってます。昔住んでましたから」
冷たく返してから、しまった、と気付く。青年はその答えを聞いて驚き、ついで嬉しそうに笑った。
「じゃあ帰って来た、ってことですか?」
「そぉですねー」
小学校の二年生くらいまでこの近所で暮らしていたが、父の仕事の都合でその先は地方都市で過ごした。大学は東京を選び、土地勘のある深大寺界隈に彩夏だけが戻ったという訳だ。
青年は彩夏の返事に機嫌を損ねるでもなく、一人楽しそうに続けた。
「僕も子供の頃から近所に住んでるんですよ。もしかしたら、どこかで会ったことがあるかもしれませんね」
「そうかもしれないですねー」
彩夏の気のない返事にもへこたれる様子がない。むしろ嬉々として、上へ行きませんかと誘って来た。断りたかった彩夏だが、あの蒸し暑い家に戻る気にはなれず、渋々距離を取ってついていった。
本堂の裏手に回ると保護林が待ち構えていた。
「あ、涼しい」
「自然は偉大だー」
青年も感心したように梢を見上げている。この事態をどうしたものかと彩夏は内心頭を抱えたが、それよりも興味を引くものを見つけて、そちらへと駆け寄った。
クマザサだ。一葉だけ摘み取る。
「ササか、懐かしいな。小さいころ笹舟とか作りませんでした?」
そう問われ、彩夏は作りましたね、と小さく応じた。
子供の頃はよく作っていた。自分でいうのもなんだがとても上手で、友達みんなに教えていた。
「なんだかすごく懐かしいなぁ。子供のころ笹舟作るのが得意な女の子がいて、その子によく教えてもらってました。僕、結構ぶきっちょで、なかなか作れなくて」
ちく、と彩夏の記憶のどこかがうずいた。
ぶきっちょ。
「女の子はどんどん作っちゃうのに、僕は全然作れなくて。下の川に流しに行こうって一緒に遊んでたみんなに急かされて、余計焦って大変だったなー」
記憶が微かに呼び覚まされる。そう、彩夏も、この場所で遊んでいた。笹舟を作っては下の湧水まで駆けていき、誰の舟が一番早いかよく競争した。その中には確かに、笹舟が作れなくていつも苦戦していた男の子が、いた。
「でもその子と遊びたくて、いつもここに来てました。その女の子、帰る時間になると『また明日ね!』って元気よく言って、帰っちゃうんです。次の日になると、知らない子がいてもあっという間に仲良くなっちゃって。すごかったなぁ、引っ込み思案だった僕からすると、憧れでした」
まぶしそうに青年が目を細める。
「でもね、その女の子が急に来なくなっちゃったんですよ。何日も何日も待ったんですけど、全然来なくって」
青年は彩夏を見つめた。満足げな表情が浮かんでいるように思えるのは気のせいだろうか。
「それからずっと、ここで待ってるんです」
「なんでその子はいなくなっちゃたんですか?」
「さぁ、それは今でもわかりません。中学校に上がっても高校へ行っても見つからなかったから、どこか遠くに引っ越してしまったのかも」
引っ越してしまった、笹舟を作るのが上手な、女の子。
話を聞けば聞くほど、心当たりが増えていく。
「でも、もしかしたら、見つかったかも」
目をまっすぐに見て、微笑まれる。その笑顔にどこか、見覚えがある気すらしてくる。なぜだろう、ずっと、忘れていたのに。
深大寺に帰りたいと、心のどこかで思っていた。あのぶきっちょに、また明日って約束したんだから、帰らなきゃと、ずっと思って。
やっと、帰って来た。
「もうひやひやしてたんですよー。僕の知らぬ間に帰って来たらどうしようって、バイト先も深大寺にして。ここんところ観光客多かったし、見逃してたらどうしよーって思ってましたけど、そんな事はなかったみたいですね」
青年は心底、嬉しそうだ。
「あなたの名前を当ててみましょうか?」
さら、と風が流れる。梢が揺れる。
「彩りの夏と書いて、彩夏。違います?」
季節外れのうぐいすが、林のどこかで鳴いていた。
鈴村 創(東京都)