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「赤駒に乗じて」 著者: 四本松 千尋

下りの京王線は空いている。理由は良く分からないし、どうでもいい。とにかく、今私は疲れている。電車の窓の奥、遠い空を何も考えないで見ていたくて、こんなところまで乗ってきてしまった。曇り空だ。それでも直接目を向けると、空は曇り空と言っても、だいたいまぶしい。想像以上にまぶしくて、視界がちかちかする。自分勝手に出来ると確信したり、物事をなめてかかったりするとだいたいの事は、上手くはいかない。各駅停車の中から、見るでもなく見るのが空なんてものはいいのだ。自分に言い聞かせてやろう。独りよがりに上手く行くと思うな。何にも気付いていないようなお前は痛い目にあう事になる。昨日まで気付かなかった事だが、独りよがりであるという性質は、社会に生きる者として、実は相当に最低な性質なのだんだから。
 付き合って四年だった。お互いにいい年だし、私の仕事は経済的にも社会的にも落ち着いてきていた。そのうち結婚するんだろうと思っていたし、彼女もそう思っていると思っていた。思っていただけで詰めた話をしたわけでないし、もちろんプロポーズもしていない。ただ、そうなるんだろうと、高をくくっていただけだ。全て私の事情、私だけの準備が整っていただけに過ぎない。とにかく私は独りよがりだったのだ。
「別れようか。」
 こういったセリフを自分の恋人の口から聞く時、人はだいたい一度では聞き取れないものだ。もう一回言ってと聞きなおした。
「別れようか。」
 聞き取る事は出来たが、今度は意味を理解できない。正しくは、日本語として読解はできるが、この状況を理解出来ないという事だった。その後二度ほど聞きなおし、自分の置かれている状況をやっと飲み込んだ。その時私は、四年付き合った恋人に振られていた。ついさっきまで自分のものだと思っていたものは、勝手に自分のものだと思い込んでいただけで、私のものではなかった。気持ちが冷めたという人にすがっても、状況がどうにもならない事くらいは知っている。知っているだけで実践出来る訳でなく、私は年甲斐も無く「いやだいやだ」と、彼女にすがって繰り返し、嗚咽し泣いた。そして、昨日から彼女は居なくなり、今私は、京王線に乗っている。アクティブな現実逃避だ。この沿線の景観は美しい。地下鉄から地上に出ると、ビル群で狭くなっていた空が、郊外に進むにつれどんどん広くなり遠くまで見渡せるようになる。ちっぽけなくらいに家々がどこまでも果てまで続く様は、都会で暮らすちっぽけな自分を俯瞰で見ているような気分になる。ぽつぽつとしか無かった緑色が家々の間を埋めるように増えていく。
 昔、彼女と京王線を乗り継いで高尾山に登りに行った事がある。ロープウェイもリフトも使わず、全て歩いた。私にとって中学の遠足ぶりの登山は、なかなか楽しく刺激的だった。思っていたより、彼女は体力があり、私には無かった。私は疲れ果て、ふもとの土産物屋を回るといって聞かない彼女に少しうんざりした。彼女には各地のキーホルダーを集めるという趣味があり、高尾山では「高尾山」と大きく書かれた金メッキのキーホルダーを買い、大阪城に行った時は嬉々として大阪城ミニチュアキーホルダーを買っていた。彼女が日光に行った時の私へのお土産は、とてもリアルな三猿のキーホルダーだった。趣味のいいものは絶対に選ばない。華奢な体躯に清楚な雰囲気の彼女の鞄に、全国各地のキーホルダーが付けられた様子は、いつ見ても背徳感すら漂うものだった。
「観光地になるくらいのパワーがあるんだからありがたいんだよ。すごいんだって。」
 そういう彼女を、私はただ漫然と見ていた。何も考えないで、ただ近くにいただけだった。
 つつじヶ丘駅で、制服姿の女子高生三人組みが乗ってきた。同じような背格好、同じような髪型、同じような子達だ。見たことのある制服だった。派手でもなく、目立つわけでもない彼女達が大人になり、派手でも無く目立たない私のような男を、振ったりするんだと思うと、無性に悲しくなった。どうして、男と女は出会ってしまうのだろうか。窓の奥の曇り空を彼女達越しに見ることになり、見る気はなくとも彼女達は目に入った。同じような三人の中、一人鞄に変てこなものを付けている子が居る。気まぐれに動く為、よく見えないが、それが女子高生の鞄につけるものとしては、妙である事は遠目でも分かる。それが深大寺の赤駒だと気付くまでに、その後何分かかかった。深大寺土産の赤駒。藁で出来ているそれの首の付け根にグルグルと紐がくくられ、その紐は直接鞄に結ばれていた。どうしても鞄に付けたかったという気持ちを推測できる仕上がりだった。その赤駒は貧相ながら強烈なインパクトで、外国の変わったお土産のように見えなくも無い。ただ、何かに似合うものでもなければ、それをつけるに至った経緯を想像せざるを得ないものだった。変てこなものを付けている以外に、特徴の無い子である。当たり前のようにスカートを短くし、地味なりに化粧をし、多分当たり前に大学に行く。周りと自分の境が分からなくなるくらいに平凡なのに、そのことを恐れてもいないし、悲観もしていない。ただ、途方も無く周りと違う部分があることもまた、漫然と受け容れているかのようなその女子高生が清く正しい者に見えた。その女子高生は何か、私にとって象徴的なものに見えた。気持ちが揺さぶられた。四年前、昨日去った彼女と出会った時の感覚が肌の内側に鮮明に蘇った。
 深大寺の赤駒は、深大寺の山門の横にある「あめや」で売っている民芸品だ。万葉集にある歌が発祥というこの赤駒は、その歌の詠まれた背景より、愛する人に贈り無事を祈るというお守りとして、正月などに買う人があると言う。そういった謂われは知っているが、昨今朝ドラによる深大寺のブームやらなんやらで盛り上がるのを尻目に、私は深大寺に近付いた事が無かった。お守りも、信仰も、これまで必要だった事はなかった。でも、行ってみようと思った。どうしても、あの赤駒が欲しかった。どうしても、渡したい人がいるのだ。
 調布で降り、バスに乗った。バスは混んでいたが、男一人は私だけだった。だいたい、女二人かカップル。あとは、ポシェットをさげ帽子を被ったお婆さんの集団。妙な居心地で10分ほどバスに揺られ到着した深大寺は想像してよりもずっと質素なお寺だった。砂の乾いた匂いと木々や草の匂いが鼻をざらっと抜ける。風の音が聞こえてくるような素朴な場所だ。さくっと、本堂に手を合わせた。本堂の中は意外と派手だった。金色の飾りのようなものが、お堂の真ん中にぶら下がっている。床は濃い赤の絨毯が敷かれ、外側の抑圧の分か、内側はとてもきらびやかに見える。正門を出て右に目当ての「あめや」はある。本末転倒の極みだが、深大寺にある「あめや」のはずが、私の中では「あめや」の横の深大寺という風に置き換えがされていた。朝ドラ写真の張り紙と共に、赤駒はひっそりひとつひとつ袋の入れられて並んでいた。手にとってみると、意外に首の付け根に紐をぐるぐると巻きつけても壊れそうにはない。紐を巻きつけて鞄にくくりたくなる気持ちが少し理解できた。一番小さいのをひとつ買った。鞄に括り付けるなら、この大きさがいい。「あめや」で売っている甘いそばクレープを食べて、参道をだらだらと引き返しながら、こういうのも全部、独りよがりだと、思った。独りよがりで、とても愚かだ。でも、やっと私は自分以外の事に気付いたのだ。振られてやっと、振られたからやっと、目を向けられた。忘れていた事を思い出せたのだ。彼女から見れば、まだ何にも分かっていないのだろうと思う。だけど、こんなにはっきりとした気持ちを久しぶりに感じていた。彼女のどんなところが好きだったのか、どうして彼女が離れていこうとしたのか、いろいろな事が頭を巡って、行き着いた思いは、たったひとつ。
上りの京王線も、空いている。どんどん緑が少なくなって、空が狭くなる。私の住む町に戻っていく。赤駒ひとつ持って、赤駒の勢いに乗じて、彼女を迎えに行ってみようと思う。空は見ようとしなければ見られない。そんな気分になっていた。

四本松 千尋(東京都港区/26歳/女性/事務)

   - 第7回応募作品