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「生まれる。」 著者: 池田 千晶

白い花弁が真っ暗な空から降ってくる。羽毛のように舞う雪は、境内を白く染め上げ、眩しいくらいに輝きを放った。時折、重たげに撓んだ木々の梢から、はらりと崩れ落ちて、その下を行く参拝客に悲鳴を上げさせていた。 
凍える寒さの中で吐く息は、雲のようにもくもくと白く立ち上っては消える。悴んだブーツの中の足の指が痛い。
長くここに留まることはできない、そう思うと目に映る世界は精彩を放ち、さら美しく見えるから不思議である。
「さぁ、お参りをして、早く帰ろう」誠司はさおりの背中を押すように促した。
さおりの家はこの深大寺から程近い場所にある。子どもの頃はこの寺を遊び場にして過ごしたものだった。木々が芽生える春、天を割らんばかりに蝉が鳴く夏、紅葉の美しい秋、雪化粧を纏う冬。季節を感じる感性は、この寺が育ててくれた。毎年、初詣に深大寺に来るのも恒例のことである。
今日は、今年は辞めてほしいという誠司をねだり倒して、彼とは三度目となる初詣に連れて来てもらっていた。
「三年前の初詣を憶えてる? あなたは私に縁結びのお守りをくれた」
すでに交際していたから、そろいのかわいらしい人形の縁結びのお守りを手渡された時は困惑した。それが顔に出たらしく、誠司は慌てたように首を振り、縁結びの本当の意味を教えてくれた。
「縁結びは、意中の相手と結ばれますように、というお守りだよ」
つまり、君と僕だよ、と言われ、さおりは思わず赤面してしまった。プロポーズなのかしら、そう思ってお守りを大切に仕舞い込み、会えない日はお守りを見て過ごすことが多くなった。何度も何度も触ったせいか、次第に角はほつれ、全体的に手垢で黒ずんでしまうほど、それを誠司の心と思って大切にした。
そのお守りも、十月前に古札納所にお納めした。成就叶ったからだ。
「今年は別のお守りを受けなくちゃ」
さおりがねだると、誠司はわかったわかったと大きく頷いて、境内へと促す。夜風は身体に障るから早く済ませたい、という気持ちがありありと伝わってきた。

縁結びのお守りをもらってから程なくして、さおりは妊娠した。腹の中に宿った小さな命は、二人を結婚に踏み切らせた。偶然とはいえ、二人の望んだ子どもに変わりない。両親も喜んでくれ、とても幸福な毎日を送っていた。
お腹が目立つ前に挙式を、と二人は結婚式場を見て回った。気分は高揚し、どこで挙げても満足できると、そう思った。
誠司からかしこまったプロポーズを受けることはなかった。子どもを授かったことで、すぐに具体的な結婚式の話に移ってしまったためだと、さおりは自分に言い聞かせた。元より装飾品に執着する性格ではない。誕生日もクリスマスも、プレゼントにねだったのは実用的なものばかりである。誠司もそのさおりの性格を理解した上での行動だとわかったものの、少しばかり寂しく感じたのも事実である。
新居を決める直前になって、さおりは下腹部に嫌な痛みを覚えた。胸騒ぎがして憚りに行くと、下着が赤く染まっていた。痛みは治まらない。さおりは泣きながらお腹の子どもに話しかけた。
がんばって。私もがんばるから。
誠司に電話して迎えに来てもらい、産科に急いだ。出血は流産の兆候であり、腹の子どもにすでに心音はないと告げられた。
そのまま手術となり、子どもの亡骸は腹から引きずり出された。術後、異常な流産でないか調べるために病理に回すと言われ、子どもを一目見ることさえ適わなかった。その日からさおりは家に閉じこもり、一週間布団の中で過ごした。
いつでもすぐ見ることのできる場所にと、机の隣に掛けられた縁結びのお守りは、手術を終えて言葉なく涙を流すさおりに誠司が掛けた言葉を思い起こさせ、さおりを苦しめた。
「大丈夫。きっとまた授かるよ」誠司の慰めの言葉を、さおりは受け入れることができなかった。
さおりはお守りを鷲掴み、着替えて外に出た。身体はまだ本調子ではなく、足元がふらついたが歩行に支障はない。
もう、見たくない。そうつぶやいて、さおりは深大寺を目指した。
秋口の深大寺は、立ち込める金木犀の香りに包まれる。そうか、もうそんな季節なのかと、さおりは無数に咲き乱れる橙の花弁を見つめて足を止めた。結婚に、子どもに夢中だった。季節を忘れる程に。
「さおり」
背後から声を掛けられ、振り向くと、そこには誠司の姿があった。動揺するさおりに、誠司は「お義母さんから連絡があって」と言う。
「よくここだってわかったね」
「それも、お義母さんが。まさか首を吊ってるんじゃないか、って心配していたよ」
あの人は、とさおりは思わず苦笑する。
「ごめんね。同じ痛みを感じることができなくて。でも、見守っていることしかできなかった僕もすごく辛かった。ねぇ、さおり。結婚はゴールじゃないよ。子どもを産むこともゴールじゃない。僕たちは家族になるんだよ。その通過点なんだって、どうか受け入れてもらえないか。死ぬまで僕たち二人の痛みとして、子どものことは忘れないでいよう」
風が吹いて、橙の花が歌うように揺れた。芳香が強く放たれ、空に舞い上がる。
ほこりが、と言って、さおりはお守りを強く握り締めた右手で目頭を押さえた。
「迎えに来てくれてありがとう。お蕎麦でも食べて、帰ろう」さおりは自分から誠司の右手を取り、来た道を戻った。泣きながら食べた蕎麦の味。薬味のねぎが辛いのだと、意味のない言い訳をした。

今でも思い出すと、あの時のことは胸に痛い。しかし誠司を生涯の伴侶と心に決めた暖かい気持ちも同時に思い出す。
「そうか」今さらながら、ふと気が付いてさおりは言葉を漏らした。「あれは、プロポーズでもあったんだ」
どうしたの、と顔を覗く誠司に首を振り、さおりはようやくたどり着いた賽銭箱に小銭を投げ入れた。神社ではないので手だけ合わせて頭をわずかに垂れる。息を吸い込むと冷たい空気と一緒に過去の残り香を嗅いだ気がした。

去年の初詣は結婚して初めてのお参りだった。「来年は三人かもね」と優しく微笑んで言った誠司の言葉が忘れられない。さおりも同じように感じていたことを、ついに言うことはできなかった。変わりに参拝の際に仏様にそう願った。どうか幸せな家庭を築けますように、と。
願いが叶ったのか、その三ヵ月後に再びさおりは身ごもった。
その子どもは今、さおりが寒い境内に佇むのもかまわず、お腹の中でゆったりと泳いでいる。
「いい子。もう帰るからね」
はち切れんばかりに膨らんだお腹を撫でて、子どもに話しかける。生まれたら子どもの初参りにまた深大寺に来ることだろう。幼い頃、さおり自身が両親に抱かれながら来たように。
「安産祈願のお守りだけ受けてくるよ。ここで待ってて」誠司がさおりの肩を撫でて、急ぎ授与所に向かう。
その背中を見送って、しんしんと空から漂いながら降りてくる雪の花弁に目をやった。
一つ捕まえようと、手を伸ばす。
「あ」
ぴり、とした痛みが腹に走る。それは新しい命の誕生を知らせる合図だった。
生まれる。そう思うと堪えきれない喜びが湧き上がり、今までのことが寄せては返す波のように浮かんでは消えた。
子どもを身ごもったと知ってからの十ヶ月は短いようであっという間であった。三年前に受け取ったお守りも、それを機に古札納所にお納めした。きっと、あのお守りのようにかわいらしい赤ん坊が生まれることだろう。
子どもの出産予定日は明日である。それでも、絶対にお参りに行くのだといって聞かないさおりを、誠司は仕方なく受け入れ、今日ここに連れてきてくれた。去年願った通り、三人で来ることができたのだ。
――生まれる。
さおりは愛おしくてならないわが子を、腹の上からそっと撫でた。再び鈍痛が走る。
――生まれておいで。
さおりは優しく語りかけた。
ふと顔を上げると、向こうから安産守りを手に小走りで戻ってくる誠司の姿がある。嬉しくなって、自然に笑みがこぼれた。
――大丈夫よ。
――さぁ、生まれておいで。

池田 千晶(愛知県刈谷市/27歳/女性/会社員)

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