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「蕎麦とパン」 著者: ゆず華

 早朝、バスを降りると鴨が居た。
 鴨はつがいで、道路脇の水路に身を浮かべ、清流のままに、付いたり離れたりしている。
(確か、植物公園の深大寺口までは、少し距離があったはず。急がなきゃ)
 デコボコの石畳を五センチのミュールで蹴る。湿気と汗で、薄手の白いボレロが肌にまとわりつく。
 久しぶりの桜並木には、梅雨の曇がどんより垂れて、人もまばらなモノトーンの門前町は、まだ半分夢の中だ。
 途中、湯気の上がりはじめた茶屋に『そばパン』の文字が見えた。
(ああ、愛するそばパン、また今度ね)
 今日、遅れるわけにはいかない。
 老人ホーム勤めの温(すなお)と、七つ上でOLの私は、付き合って半年程だ。約束は何もなかったから、二人きりで飲んだ日からの計算だ。
 お互い忙しく、時間も合わない。私が新設部署の課長になってからは、一層距離が開いた気がする。私達はデートの約束もしない。直前に連絡を入れ、都合が付いた時だけ会うのだ。既に綱渡りの恋だった。
自然消滅、最近、そんな言葉がよぎる。
 会いたい衝動も危機感も、山積みの仕事や付き合いに紛れ、正体すら判らなくなりかけていた。だが、突然何かを求めるのは卑しいような気がしていたし、温も無理を言うことは一度もなかった。
 ところが、今日初めて、時間と場所指定のもと、温に呼び出されたのだ。
(まさかこんな朝に、別れ話じゃないよね)
 私は期待半分、しかし最悪な事態も想定し、控えめなおしゃれを心がけた。
 植物公園入口につくと、ペールグリーンの爽やかな制服姿の温が笑顔で立っていた。ドラマで見る素敵な歯医者さんのようだ。
「お、おはよう……制服なの?」
 私は、上り坂で乱れた息を整え、なんとか声を出した。
「おはよう、この後仕事なんだ。それより、休みなのに早起きさせちゃったね。実は」
 温が何か言いかけた時だった。
「お早うございます」
 すぐ横にいた二人の老婦人が挨拶をした。八十は越えているだろうか、共に杖をついている。
「あ、おはようございます」
 少し面食らったが、これくらいの歳の人はこういうものかな、と思い挨拶を返した。二人は私の返事の終わらないうちに、とっととゲートをくぐり、公園内に備わっている車イスに手をかけると、こう言った。
「温(オン)サマ、早く!」
(温サマ?どっかで聞いたような……)
「ほれ、娘さんもボーとしてないで早く」
「え……私?」
「絢(あや)さん、ごめん。説明は後で必ず。とりあえず時間がない、急ごう」
 温は、困惑する私の背中を優しく押した。
訳もわからずゲートをくぐると、二台のうち一台の車イスの取手を握らされた。
「チヨさん、あ、こちらチヨさんって言うんだけど、彼女の車イスお願いできるかな?」
「え?あ、うん」
 とは言ったが、まだ事態が飲み込めない。  
「よし、みんな行くよ!」
 温は、もう一人の、布袋様のようにでっぷりした熟女を乗せ、勢い良くスタートした。布袋様は『頑張って温サマ~、オホホ』と大層楽しげだ。
 慌てて私も『チヨさん』の車イスを押してみたが、小石につんのめったり蛇行したり、どうにも上手く操れない。無理もない、車イスなど今日初めて触ったのだ。
 さぞ乗り心地が悪かろう、と、こっそり顔色を伺ってみたが、チヨさんは眉ひとつ動かさない。線が細く、まるで千年の巨木のように、静かで荘厳な佇まいの人である。そして無言だ。
(おかしい、もしかして、デートの約束じゃなかったんだろうか?)
 誰かに何かを問いたい気持ちで一杯だが、近くには蝋人形のような、お婆だけである。とにかく、懸命に温の後を追う。
 森を抜けると視界が大きく開いた。春薔薇が見事に咲き乱れる大庭園だ。なのに、温達は薔薇に目もくれず、庭園を小走りに突っ切ると、その奥に聳える大温室へと吸い込まれた。仕方なく私もそれに続いた。

 温室内はムンとして、珍しい熱帯植物や、南国フルーツがひしめいている。無口な老女と不安を抱え、しばらく進むと、自販機のある一時休憩所で温が待っていた。
「ご苦労様、着いたよ」
 温はそう言ってチヨさんの車を受け取り、慣れた手つきで、先に到着していた布袋様の車の脇にピタリとつけた。
 なぜか皆、目の前の池を食い入るように見つめている。
「温、あの……」
 温がシーっ、と唇に指を当てながら、手招いた。私は戸惑いながらも、傍に歩み寄り、まるで、植物の留守宅に忍びこんだ泥棒のように息を潜めた。
 途端、辺りに音の無い世界が広がった。
 静かだ。
(こんな静かな時間、いつ以来だろう……)
 かすかに聞こえる水音が、密室の静けさを一層際立たせている。いつしか、意識が現実から遠のいていく。
 ミシッ……。
 その時、何かとても小さな音が聞こえた。
 思わず温の方を振り向くと、いたずらな瞳で私を見つめ返した。
 ミシッ、パリリッ。
(あ!睡蓮の華が開く音なんだわ)
 池にたゆたう睡蓮の華が、ひとつ、またひとつ開いた。その神秘の営みを邪魔しないよう、誰もが口を閉ざしたまま、じっと動かずに見守っている。そうして、睡蓮に魅入るうち、哲学とは無縁の私の胸に、自分でも驚くほどの想いが去来した。
(可憐なのに逞しい華、いいえ、本当は儚くて孤独かも、それとも……無心)
 波打つ想いは徐々に収まり、代わりに、今このかけがえのない瞬間(とき)を、私達は共有しているのだ、という奇跡に似た感覚に包まれ、なぜか泣きそうになった。
 皆、この風景に溶けてしまったようだった。

 私達は車イスを返し、共に門前町へ下った。
 朝の様相とは一変、観光バスなども乗り入れて、多くの老若男女で一面賑わっていた。
 ふと、温の姿が見えないことに気づき、探しにいこうか思案していると、寡黙をつらぬいていたチヨさんから唐突に声をかけられた。
「娘さん、一緒に来てもらえませんか?」
 チヨさんは、通りはずれに、ひっそりと佇むお堂を指差した。断る理由もないので、私は連れ添って参拝することにした。
 彼女は、とても丁寧にお参りを済ませ、こう呟いた。
「素敵な日。私の願いが叶いました」
「まぁ、それは、おめでとうございます」
 縁結びで有名な神様だった気がするが、一体どんな願いだろう。少なからず興味がわいた。
「貴女が叶えてくれたんですよ」
「え?」
 私は目を丸くした。
「さぁ、お礼もしたし、もう行きましょう」
 杖をつき、しっかりと歩くチヨさんを見て、なぜ自分を誘ったのか首を傾げた。
 その時、鈴なりの絵馬の中にある『大好きな温さんが幸せになれますように』という小さな文字に目が留った。
「チヨさん、これ、もしかして?」
 ふふ、とチヨさんは意味深げに微笑んだ後、遠くを見るように、瞳を潤ませて言った。
「人生はあっと言う間、ぼーっとしてたら、人も時間も通り過ぎるだけ。後悔するような人生を送ってはダメよ、私のように……」

 私達が戻ると、温はホッとした表情を見せた。
「よかった、迷子になったかと思った」
 子供じゃありませんよ、とチヨさんは言い残し、布袋様と土産物屋へ入ってしまった。
 その後姿を見ながら、温が言った。
「チヨさんの初恋の人は、俺に似てるんだって。のんきな所が特に」
「そう……」
「前回の夜勤の日だったかな。いつか、あの華を絢さんに見せたいなって、あの二人に話したら、スグじゃなきゃダメだ、絶対立ち会うって聞かなくて」
 温は困ったように笑った。
「ね、チヨさんの初恋は叶わなかったの?」
「さぁ……。でも最近は、初恋の人よりも、俺に惚れてるみたいだったけどね。自惚れかな?」
 きっと、両方なのだろう、と私は思った。
「温、あのさ、その、これからも宜しくネ」
 突然の言葉に、温は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに、熱を帯びたような真剣な眼差しで私を見つめた。
「こちらこそ、末永く宜しくお願いします」
 温は、それだけ言うと、一度小さく頷き、急に思い出したように、ぶら下げていた袋を私に手渡した。
蒸かしたての、そばパンだった。
「絢さん好きでしょ、それ」
「うん、超嬉しい」
 満足げな温の背中越しに、土産を買い込んだ二人が、ゆっくりゆっくりやって来るのが見えた。

ゆず華(神奈川県横浜市/女性)

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