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「スケッチブック」 著者: 花村 かおり

 夏目良介は毎週日曜日になると、とある大きな公園に似顔絵を描きに出かけるのが習慣となっていた。その日はまだ5月だというのに初夏の暑さ。夏目は太陽の日差しを避けるようにして、樹木の木陰に折りたたみ椅子を置いて陣取った。夏目が持参しているのは小さなスケッチブックとデッサン用の3Bの鉛筆と色鉛筆のセット。そして最後に「似顔絵、書きます」と立て札を立て、その隣に似顔絵のサンプルを並べる。通常は午前中の客足は少ないが、その日は立て札を立てると直ぐに「書いてもらえますか」と髪の長い女性が声をかけてきた。年の頃は三十前半と言ったところだろうか。瞳が綺麗な美しい女性だった。首元にはクロスのネックレスが控えめに光っていた。
 「どうぞ、こちらにお座りください」と夏目は目の前の折りたたみ椅子に座るよう女性に促した。
 「何かご希望はありますか。実際よりも美しく書くことも出来ますよ。でもお客様はお綺麗だから、ありのままで問題ないですね」と夏目は笑って言った。女性もつられて笑った。
 夏目はこうして似顔絵を書くようになってから三年になる。人間の顔は不思議なものだ。生まれ持った顔だけでなく、その人の心の動きを表情に表れてくるのだ。彼女は笑ってはいるが、表情に憂いがある。
 「お客様はご結婚されているんですか」
 「ええ、結婚して5年になります」
 「お客様はお綺麗だから、旦那さんが羨ましいですね。私も昔、結婚していたのですが、別れてしまいましてね。だから今は週末になると、一人は寂しくて似顔絵を描きに来るんですけどね」と夏目は笑って言った。
 「絵はどちらで勉強されたんですか」と女性が尋ねてきた。夏目はデッサンを続けながら答える。
 「私は昔、中学校で美術の教師をしていたのですが、いろいろありまして。今は辞めて、絵画教室をやっているんです」
 「そうなんですか」
女性は夏目の言葉を聞くと、何かを思い出したような表情をしたが、何も答えなかった。
 雑談をしているうちに、似顔絵は出来上がった。女性は「ありがとうございます」と言い、足早に去っていった。
 夏目は三年前に教師を辞めた。その頃、夏目は学級の担任を持っていたが、生徒の中でいじめがあった。夏目がどんなに手を尽くしてみてもいじめはなくならなかった。とうとういじめられていた生徒は不登校になり、自殺未遂をしたのだ。夏目は教師失格だと思った。それから夜も眠れず、慢性的な疲れの中、何をするにも意欲もわかず、授業でも進路指導でも、失敗をすることが多くなった。保護者からもクレームも来るようになった。病院に行くとうつ病と診断され、休職を奨められた。もう教師は続けられないと、学校を去ったのだった。同じ時期に妻も去っていった。あまり考えたくないが、屍のような目をした自分に失望して、去って行ったのかもしれない。
 次の週も夏目は公園の同じ場所に陣取った。すると立て札を出す前に先週やってきた女性が、目の前に現れた。先週と同様に「書いて貰えますか」と尋ねるので「勿論」と夏目は答えた。夏目が彼女を書き始めると彼女は「あの夏目先生ですよね」と尋ねてきた。もしや、この女性は自分の生徒だったのかもしれない。夏目は頭の中の記憶をたどった。今、彼女が三十歳前半としたら、自分が新任教師の頃の生徒であるはず。ふと頭の中に美術室の映像を思い出した。二年生の夏休み明けに転校してきて、次の冬休みに入る前に両親の転勤で転校をしていった美術部員。おとなしくて、髪の毛を二つに束ねていた。思い出したのは中学生の幼い顔であるが、印象的な瞳は、目の前の彼女と一緒だった。
 「もしかして野口裕子さん?」
 「ええ、夏目先生もお元気そうで」
 「女の子は変わるものだね。あどけない表情をしたお嬢さんが今や、こんな美しい女性になっているとはね、びっくりしたよ」
 「私、そんなに変わりましたか」
 「変わったよ、いい女になった、あはは」
夏目は照れくさそうに笑った。裕子も笑った。
「夏目先生はさほど変わっていませんよ」
「そんなことないさ、もう四十を過ぎたんだ、もう立派なおじさんだよ」
そう言うと裕子も頬に笑みを浮かべた。スケッチブックには、はにかんだ笑顔をした裕子が現れた。夏目は裕子に作品を渡した。
「なんか、先週書いてもらったのより、元気そうに見える」と裕子は呟いた。
「うん、今日の君の笑顔は最高だったからね、それを書いたんだよ」
「ありがとうございます、大切にしますね」と裕子は言ってから、暫く絵を眺めていた。
「ところで旦那さんはどんな人なんだい?」と夏目は美しい女性に成長した裕子の相手が気になった。もし裕子が独身であったなら、不覚にも交際を申し込みたいと、ふと頭によぎったからだ。でも裕子は幸せな結婚をしていて、こんなおじさんには用はないだろう。
「言いにくいんですけど、今、離婚調停中なんです」
「ごめん、変なことを聞いてしまったね」
「いいんです、本当のことなんですから」と裕子は言ってから、俯いて唇を噛みしめていた。
「あの、私、また美術部みたいに写生したいんです。ほら課外活動で神代植物公園に行ったじゃないですか。来週末も晴れそうですから、お花でも写生してみたいんです。でも一人じゃなくて、先生も一緒に」
突然の裕子の誘いに夏目は面食らったが、「神代植物公園か。いいね」と答えた。昔の教え子と昔話をするのも、たまには良いではないか。そう自分に言い聞かせて。
「じゃあ来週の十時に神代植物公園の正門で待ち合わせしましょう」と裕子は言い、絶対来てくださいね、と念押しをして、また来週に、と告げるとまた足早に去っていった。
約束の日までの一週間、夏目は裕子のことを思い出していた。裕子はすごく絵が上手い訳ではないけれども、大胆で味のある作品を描く生徒だった。夏目が書き方のアドバイスをすると、はにかんだ顔をして、目をそらしたりした。その瞳はあの頃から綺麗だったように思える。
夏目は約束の時間の十分前に正門に着くと、既に裕子はたたずんでいた。「待たせたかな」と夏目は謝ると「私、少し早く来すぎちゃいましたね」と裕子は笑った。
5月はバラの花が盛りで、多くのお客さんで混雑していた。二人はお客さんの邪魔をしないような場所に陣取って、バラの写生を始めた。二人は色とりどりのバラに圧倒されながら、小さなスケッチブックに、この壮大な視界を収めようと、無心でデッサンを始めた。
少し時間が経過したあと、夏目は裕子のスケッチブックを気づかれないよう覗いてみた。おおらかに書かれたバラがカラフルな色鉛筆で色づけられ、スケッチブックから溢れそうになっている。とても良い作品に思えた。少し視線を上げてみると裕子の美しい横顔が見えた。夏目は、自分のスケッチブックのバラに裕子の横顔を添えて書き始めた。
「先生、描けましたか」
裕子はもう描き終えたようだった。夏目が時計を見ると、もう14時近くになっていた。
「もう少し。もうちょっと待ってね」と夏目は裕子の瞳をもう少しで書き終えるところだった。「終わった」と夏目が言うと、裕子は自分のスケッチブックの絵を夏目に見せた。さっき盗み見した通り、大胆でカラフルなバラ畑がスケッチブックに広がっていた。
「先生のも見せてくださいよ」と裕子が言うが、夏目は「後でな」と言ってから「それよりお腹が空いただろ。深大寺そばを食べに行こう」と続けた。
神代植物公園の隣には深大寺という由緒正しいお寺がある。二人は深大寺に向かった。樹木の緑が鮮やかで、用水路には美しい水が流れている。何処かしらから聞こえてくる小鳥のさえずりも気分を爽やかにしてくれる。
また、ちょっとした観光地のようになっており、お土産屋さんや露天の団子屋や饅頭屋もあり、多くのお客さんで賑わっている。ゲゲゲの鬼太郎を書いた水木しげるが調布在住ということで「鬼太郎茶屋」もある。
それらの店が立ち並ぶその中でも有名なのは深大寺そばだ。確か美術部の課外活動の後も、そばを食べた記憶がある。夏目はその頃の記憶を頼りにして、ある一軒のそば屋に入った。「お腹が空いただろ」「ええ、もうペコペコです」と二人は店内に入るなり、ざるそばを注文した。「おいしい!」と二人は目を見合わせながら、運ばれてきたそばをすすった。
「ところで先程の先生の絵見せてくださいよ」と裕子が催促をしたので夏目はスケッチブックを裕子に渡した。裕子がスケッチブックを開くとバラに囲まれた裕子の横顔があった。夏目は自分の顔が赤くなるのを感じた。
「あの…」裕子の目に涙が浮かんでいるように見えた。「私、昨日、正式に離婚できたんです。それで、とりあえず広島の実家に帰ろうかと思うのですが」
「そうなんだ」と夏目は寂しくなった。裕子に会えるのは、これが最後なんだろうか。
「でも、先生。私、先生のことが好きでした。また戻ってきます。だから、またこうやって一緒におそばを食べてください」
裕子の美しい瞳から涙が零れ落ちていた。
「勿論。いつまでも君を待っているから」と夏目は裕子をしっかり見つめて答えていた。

花村 かおり(東京都日野市/36歳/女性/会社員)

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