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「すすき野原の化猫」 著者: 松井 美樹

「お豆腐買ってきてって言ったら絹豆腐買ってきたのよ。」
紗奈恵が言った。「麻婆豆腐作るって言ったのに、絹買ってくるなんて。」
頭を撫でられながら、又吉は大きく欠伸をした。紗奈恵の膝でまどろみながら、例のごとく〝たかしくん〟の話を聞かされている。
猫は五十年生きると尾が二股に分かれ、化け猫となる。これを猫又という。何年生きたか定かではないが、御多分に洩れず又吉は猫又である。特定の名を持つ訳ではないが、深大寺周辺の猫たちから畏敬の念を込めて、又吉と呼ばれていた。紗奈恵だけは又吉のことをねこまと呼んだ。猫又といっても、見た目はそこらの猫となんら変わりない。二つに分かれた尾は、ある姫君に憑りついた際佐々木の何某とかいうお侍に切って落とされた。それ以来又吉には尾っぽがない。雉色の引き締まった顔に同じく淡褐色の胴体、臀部についた尾の名残。これが又吉の特徴である。
紗奈恵と又吉が出会ったのは、花もすっかり落ちた長雨の季節である。又吉は住処としている元三大師堂の縁の下の蒸すような暑さに耐えかね、堂の縁側に寝そべって降り続く雨を眺めていた。時折大きな雨粒が新緑に跳ね返り、又吉の雉色の毛を湿らせた。
長雨は人々の信心をも洗い流してしまうらしい。この時期参拝客はめっきりとその数を減らす。可愛らしい紺色の傘をさした紗奈恵が本堂の方から歩いてきた時、又吉は坊主以外の人間は久しぶりだな、と思った。傘ではっきりとは見えなかったが、すらりとした細目の美人である。紗奈恵は堂の前で暫くうろうろしてから傘をたたみ、縁側へと上る階段の脇に寄り掛かった。雨の日に物好きな。そう考えながら又吉は大欠伸をした。
しばし二人は無言で雨を眺めていた。紗奈恵は何やら物憂げに見えたが、又吉にとってそんなことはどうでも良かった。
「おい。ねこ。」ふいに紗奈恵が言った。けれど、又吉はいきなり絡まれるのには慣れっこである。煩くなる前に縁の下に退散してしまおうと、さっさと腰を上げた。ひょ、と地面に飛び降り縁側の下に潜り込む。
この時どうして自分が振り返ってしまったのか、未だに又吉には分からない。しかし、首を後ろに捻って見遣ると、女は本当に悲しそうで、そんなものは散々見てきたはずの又吉も、話くらい聞いてやってもいいかな、と思ってしまった。
トット、と階段を上がり、再び縁側に寝そべると、紗奈恵は嬉しそうな顔をした。
「ねこまって呼んでいいかな。」
 猫はどうでもいいよ、というふうに目を細めた。紗奈恵は勝手に納得して、おもむろに〝たかしくん〟の話を始めた。その日は紗奈恵の二十六歳の誕生日であるらしかった。
〝たかしくん〟は、一昨年国分寺にある美術大学の油絵科を卒業したが、卒業後しばらくしても職が見付からなかった。その年の暮れにとうとう家賃が払えなくなり、アパートを追い出された。その時から、紗奈恵のマンションで居候をしている。 最近では絵を描くのに集中すると言って、職を捜すのをやめてしまった。だからと云って本当に絵を描くわけでもなく、一日中家でぼんやりとしている。
  紗奈恵は日中働いているから、せめて家事だけでもとたかしくんにお願いした事もあったが、洗濯機一つまともに使えない。もちろん収入がないわけだから、生活費は全て紗奈恵もちである。これだけでも、黙って話を聞いていた又吉にとっては十分問題があるように思われた。しかし、どうやら紗奈恵はたかしくんの生活ぶりについてはなんの不満も抱いていないようだった。「たかしくんはね、すっごく才能があるんだよ。」途中途中で紗奈恵は何度も嬉しそうに語った。「たかしくんは、家事なんて出来ない方がいいんだ」「お金もらえてもたかしくんの才能が発揮できないなら意味ないよ」
  紗奈恵が怒っているのはそんな事に対してではなかった。問題はたかしくんが紗奈恵の誕生日をきれいさっぱり忘れていたことだった。いつものたかしくんは、何かの役に立つわけではないにしろ、紗奈恵にとってはよく気のつく優しい彼氏であった。けれど、その日は唯一の取り柄たる気遣いを忘れてしまったらしい。忘れたふりをしているのだろうと、何か言ってくれるのを朝から楽しみに待っていた紗奈恵に対し、たかしくんは事もあろうか「今日は十九日だっけ」と尋ねた。六月二十三日だよ、と紗奈恵は小さく答えた。たかしくんはしまったという顔をしたが、よっぽど慌てたらしく、あたふたするばかりで何も言えなかった。紗奈恵はそんなたかしくんと食べかけの冷やし中華を置いて、無言で散歩に出た。
  そこまで話して、紗奈恵は又吉に「ねこまはどう思う」と尋ねた。又吉は取り敢えず、にゃあと応えた。紗奈恵は又吉の「にゃあ」について何やら考えを巡らしていたが、ねこまの言う通りだね、と残して去っていった。
  妙な人間だったな。又吉はそう思ったが、それ以上何も考える事なく丸くなり眠った。
  長雨の季節はとうに終わり又吉が雨を恋しく思い始めた頃、紗奈恵は再び現れた。煮豆の入ったタッパーをトートバッグから取り出し、常香楼の横でうとうとしていた又吉に向かって、「この前のお礼です」と言って差し出した。又吉はタッパーから煮豆を食べた。夏も盛りだというのに、参拝客がひっきりなしにやって来ては、二人の頭上でもくもくとやっていた。
  「ねこまが早く帰らないと冷やし中華がのびちゃうよ、って言ってくれたお陰で、たかしくんと仲直りできたんだよ。」
  紗奈恵はことことと笑ったが、でもねと続けた。たかしくんの見事なまでのひもっぷりを許容しつつも、こぼしたくなる愚痴は多々あるらしい。又吉はその日もたかしくんが煮豆を残した話やら、黙ってバルサンを焚いた挙げ句消防車を出動させた話やらを聞かされた。
  二人の関係はすぐ切れてしまいそうでありながら一向に切れることなく、秋が来て、冬が来た。又吉は大抵二つ有る堂のどちらかでまどろんでいたから、紗奈恵にとっては見付けるのが容易だったのかもしれない。地面が冷たくなってくると、又吉は自然と紗奈恵の膝で話を聞くようになった。
  聞くにつけ、たかしくんは紗奈恵に釣り合わないように又吉には思われた。紗奈恵は多少間の抜けた女ではあるが、たかしくんへの献身は本物で、自分の面倒すらみられない相手とずうっといるなんざ、人間てのは可笑しなものだなと又吉は思った。
  そうして一年弱の年月が過ぎたころ、又吉は紗奈恵のためにたかしくんを遠ざけようという気持ちを起こした。もとより猫であるが故の気紛れかもしれないが、煮豆やふろふき大根の恩もある。それに当方些かひまである。本堂の裏で紗奈恵の姿に化けると、臭いをたどって紗奈恵の家へと向かった。
  たかしくんを部屋から追い出し、二度と近付かぬようきつく言っておこう。幸いその日は月曜日で、紗奈恵は会社へ行く前に又吉のところへ煮干しを届けていた。服装も含めて変化は完璧である。
紗奈恵のマンションまでは、又吉の住む深大寺から十五分程かかった。ドアノブを回して扉を押す。紗奈恵が言っていた通り、今日もたかしくんは鍵をかけていないようだった。いきなり扉が開いて驚いたたかしくんが、奥の部屋から飛び出してきた。絵の具にまみれ伸びきった服を着て現れたたかしくんを見て、予想通りにへらとした優男だな、又吉は思った。あごで外に出てくるよう促すと、たかしくんは戸惑いながらもスニーカーを突っ掛けて又吉の後を追ってきた。階段を一階まで降りたところで、又吉は今すぐ家から出ていって欲しいと伝えた。たかしくんは数回目をぱちくりさせたが、ふいに
「もしかして紗奈恵さんのお姉さんですか。」
と尋ねた。驚いたのは又吉である。たかしくんの言葉の意味も分からず、どうして、とつぶやいた。それを聞いて、たかしくんはどうしての後ろに「気付いたの」を補ったらしい。
「いやあ、だって御姉さん紗奈恵にそっくりですもん。最初は知らない人が入ってきてびっくりしましたけど。」と言って、ぱあっと嬉しそうな顔になった。
  変化に自信のあった又吉は言葉も出ない。「本当にそっくりですね」とか「双子ですか」とか「紗奈恵さんにどっきりを頼まれたんですか」とかいうたかしくんに、ああとかすんとか適当な相づちを打って、早々と逃げ帰ってきた。神代公園の池に自分の姿を映してみたがどう見ても紗奈恵そのものである。それに永らく人に化けていなかったとはいえ、又吉の変化を見破ったものは未だ嘗ていない。それをあんな直ぐに見破られるとは。
  次の日の夕刻、紗奈恵が境内にやって来た。元三大師堂の階段に腰掛け、ふわふわと笑いながら又吉の方を眺めている。
  「昨日たかしくんが私のお姉さんに会ったんだって。私にそっくりだったんだって。私に御姉さんなんていないのにね、ねこま。」
  そう言って、またことことと、それはそれは愉しそうに笑った。それを見て、又吉はあの日自分が何故振り返ったのかが、少し解ったような気がした。
  もう一年がたって、たかしくんは小さな絵の賞をとった。にやにやが抑えきれない紗奈恵が写真を見せてくれた。写真越しに見るたかしくんの絵には、背の高い一面のすすき野原でことことと笑う紗奈恵が描かれていた。紗奈恵には最初から分かっていたのかもしれないな。そう考えてから、又吉は自分も焼きが回ったものだと考え直した。それから伸びをして、大きな欠伸をした。

松井 美樹(東京都世田谷区/22歳/男性/学生)

   - 第7回応募作品