「追憶の森」 著者: 相原 文生
迎えに行こうか、という俊介に、由里は意外にも拒否の言葉を返してきた。
「ひとりでそこへ行ってみたいの。まだ、全部が壊れているわけじゃないのを、知って貰いたいから・・」
「分かった。じゃ、待ってる」
言ったものの、正直心配だった。ホントに来られるのかな?と。既に約束の時間を一時間過ぎていた。それで、由里の携帯に連絡を取ったのだった。九時九分甲府発の「あずさ」に乗ったから、順調に行けば立川着一〇時一五分、そこから中央線で三鷹、そしてバス。二〇分ほどで深大寺バス停に着く筈だ。約束の時間はゆとりを持って十二時半とした。だが、一時半過ぎても由里は現れなかった。
「いま、どこにいるの?」と聞いたが、「分かんない」とだけ答えて電話は切られた。
甲府に住む由里から突然電話があったのは、五か月ほど前だった。
「あ、あ、ええと、あの・・、オジちゃん?」
まるで幼児のような、たどたどしい声が受話器から聞こえた。
「お、おばちゃんじゃなくて・・、よ、よかった。ポンポン言われるの・・、苦手だから」
随分長い時間をかけ、由里はそう言った。以前とは別人のように、呂律が回らない。
「どうしたの・・?」
俊介は戸惑いながらも優しく言った。
「あ、あたし、う、鬱になっちゃって・・」
投薬治療を続けている、と言った。
「ウツ・・?鬱病・・?そうだったのか・・」
「は、話すの、にが、苦手になっちゃって。お、オジちゃん、メル・・、メルアド教えて・・」
薬の副作用なのか、由里の言葉は著しく明瞭度に欠けていた。俊介が改めて自分の携帯のアドレスを告げると電話は一方的に切れた。
そう言えば、ここ二年ほど由里から年賀状が届いていなかった。母親似でマイペースなところがあるからしようがない、と思っていた。今は博多にいる由里の母(妻の妹)曜子に聞いても、「あの子気紛れだから」と素っ気ない返事だった。実の母娘ながら二人は上手く行っていない。大半の原因が曜子にあるのは間違いなかった。
曜子は奔放な性格で、三度夫を変えている。最初は高校の同級生。卒業してまもなく同棲、生れたのが由里だった。しかし長続きせず、由里を義父母に預け、俊介夫婦を頼り長崎から単身上京。近所のスーパーに勤めた。が、その出入り業者の男と忽ち懇ろになり、一緒に暮らし始め、次女香里が生まれた。これで収まるかと思いきや、スーパーの社員旅行先の割烹料理店の板長と意気投合。香里を連れ、三人で博多へ駆け落ち。俊介夫婦は、後始末に大変な苦労をした。一番の被害者は由里だった。この間、義父母の依頼で俊介夫婦が育てた。曜子は母の役割を放棄。見かねた俊介が曜子に連絡、由里を引き取らせた。だが、彼女は新しい父に懐かず、高校を出ると家を出、再び俊介の許に来た。短大に通わせ、都内の中堅の食品専門商社に就職させた。
由里のたっての希望もあり、彼女の結婚式の両親の役割は俊介夫妻が勤めた。曜子と香里も式には出たが、曜子の現夫は来なかった。その後の披露宴で、実母の曜子が親戚の席に座るという、不思議な光景が現出した。
嫁ぎ先は、勤め先の会社と取引のあった果樹園。後取り息子が由里を見染めたのである。
由里も新しい環境に慣れ、一所懸命頑張っていた。男の子も生まれ、その写真と共に小まめに近況報告を寄越した。が、三年ほど前から、途切れ始め、今日の電話である。
「おばちゃんには、絶対言わないで!」
由里は最後にそう言った。そのときだけ、かつての由里の声音に変わっていた。
《死にたい、死にたい、死にたい・・》
《くやしい、くやしい、くやしい・・》
《ゆるさん、ゆるさん、ゆるさん・・》
それからはメールの洪水だった。
外聞が悪いと舅に言われ、家からバスで一時間以上の別の町の病院に掛かっていること。食べると吐くので、モノが食べられない事。精神の病というので、近所の噂になり後ろ指さされていること。働かせるだけ働かせて、病になった途端、舅姑が冷たい目でみること。夫が頼りないこと。息子が唯一の味方であること。その合間に、俊介と二人東京ドームに野球を見に行った事、取引先へ出向いた帰りの俊介に、偶然、地下鉄の乗り場で遭遇、青山一丁目で降り、イタリア料理を食べて帰った事、初給料後の休日に花や樹木が好きな俊介に連れられ、神代植物公園を散策、桜の下で持参した由里の手作り弁当を分け合って食べた事など速射砲のように、メールに吐き出してきた。吐き出すことで自分の感情を宥めているようなところがあり、俊介は一つ一つ丁寧に返事を出した。励ますのは、鬱病の事態を悪くすると聞いたので、出来るだけ、ゆったりリラックスするような言葉を選んで送った。由里からのメールの結びには、必ず「最愛のオジちゃんへ」という、幼い頃から呼びなれた呼称が添えられていた。
約束より二時間遅れ。久しぶりに会う由里。特徴のクルっとした眼は昔のままだったが、拒食の所為か窶れが目立っていた。
「オジちゃんに会いたい。そうすれば病気が良くなる気がする。街中は駄目だけど、花や樹のある植物園なら大丈夫」と言ったので、そうしたのだが、バスの中で気持ち悪くなり、何度も下車し、乗り直したので遅くなったのだ、と由里は言い訳した。
武蔵野の面影を残す植物園の雑木林。フィトンチッドに囲まれ、二人は歩いた。
「眩しかったなあ」
俊介は、どう話しかけていいか分からずそう言った。
「な・・、何が・・?」
「由里が・・、だよ。あのときの・・」
スポーツ万能、すっかり女らしくなった由里のすらっとした姿形。眩しかった。就職して、初給料の月末の休日。満開の桜を見に、弁当持参でここに足を運んだ。共働きだった妻は、所用で来られなかった。
「あ、あ、あんときは二十歳よ。い、今、三十九。もう、オバアチャン、だもの」
二十歳と五十歳だったのが、今は不惑と古希間近になっていた。
「あ、あんとき、みたく、せ、背中、押しながら、あ、歩いてくれる?オジちゃん・・」
そう言えば、新社会人になった由里の背中に、おずおずと触れながら、励ますように歩いた。今日もそうして欲しいというのか。
そっと由里の背中に触れてみた。大分骨ばっているように感じ、ハッとした。二十年近くの歳月は由里の身体を確実に変えていた。
「少し・・、痩せた?」
「うん・・。で、でも、オジちゃん、が、がっかりさせないよう、い、一所懸命食べてる」
「そ、そうか・・。食べられるか?」
「い、一所懸命・・。あの、オジちゃん、す、すぐ、し、心配するし・・」
「まあね・・、でも嬉しいな」
「母さんのこと言われ、それ、それで落ち込んで、こ、こんなになっちゃって」
由里は、姑に母の所業を足ざまに言われたのが、病になった原因だ、と言った。
「お母さんはお母さん、由里は由里だよ。関係ない。由里は変わらずいい女だ」
「お、お世辞じゃなく、そう思う?」
「思ってるさ。由里が嫁に行ったとき、ホント落ち込んだ。まるで恋人、誰かに取られたときみたいにね・・」
「ほ、ほんと・・?し、信じていい?」
並んで歩く、青白かった由里の横顔に、少しだけ赤みがさしたように思えた。
「ホントさ。こんな可愛い娘、取ってく男なんて、泥棒って・・」
「あたし、ホントはオジちゃんのお嫁さんになりたかったのよ。と、歳関係なく。でも、おばちゃんがいるから・・。無理だし・・」
「・・・・」
虚を突かれたというより、自分の本心を見透かされたような動揺があった。
「お、怒った・・?変なこと言って・・」
「い、いや、そう言って貰えると、こんな歳でも嬉しいものだけど・・」
「これ、ホント。で、でも、おばちゃんがいなけりゃ、あたし、オジちゃんの家に、来れなかったんだし・・、ふ、複雑だよね」
「まあ、そうだね・・。ただ、ここんとこ、由里の事心配してたのは、事実だ・・」
「オジちゃん・・、そ、それって、ホントに信じていいのよね?」
「当たり前じゃないか・・。由里は生きる希望。ウチには子供いなかっただろ、由里は娘と同時に、恋人みたいなものだった・・」
「じ、実を言えば、オジちゃんに会った後、し、死のうと思ってたの。それで、でも、い、今の言葉聞いたら、し、死ねなくなりそう・・」
由里の眼から、大粒の涙が滴り落ちた。その涙をハンケチで拭いながら、他人ばかりの中で、辛い思いしてるんだな、と胸が痛んだ。
「由里が死んだら、何を頼りに生きて行ったらいいのか、分からなくなってしまう」
「そ、そんな・・」
「自分で自分の始末、つける積りだったかもしれないけど、大きな間違い。(息子の)俊太郎君だって、僕だって、由里を心から思っている事に変わりはないんだから・・」
「オジちゃん、ハ、ハグしてくれる?」
「いいよ。こんな爺さんでよければ」
「そ、そんな・・。あ、あたしにとっては、え、永遠の、ボーイフレンドだもの」
二人は、柔らかく抱擁を交わした。俊介は由里の額に軽く唇をふれた。瞬間、由里の鼓動を感じた。『生きる』と言う意思の鼓動を。ホッとした。俊介はあのときと同じように、由里の背に手を添え、おずおずと歩き続けた。
相原 文生(神奈川県相模原市/72歳/男性/無職)