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「後ろ髪」 著者: 川島 淑彦

 寝間着の襟が汗で冷たくねばりついていて、時刻は午前十時をまわったところだった。傍らの妻はまだ寝息を立てていた。寝顔は見えない。妻には右を向いて眠る癖がある。そのようにしないと寝いることができないらしく、寝返りもほとんど打たない。タオルケットは脇腹の上でしなびて、穏やかに膨らんだりしぼんだりした。鼻から長い息を吹いてみた。
 昨晩の帰宅は十一時近くで、家の照明の一切が点いていなかった。妻からのメールもなく、ソファにわざと音を立てるよう倒れかかって、その反発に身体を委せた。弾んだあとの静けさが頭に鈍く響いた。十分ほどしてからようやく洗面所に立ってネクタイを外し、顔を洗った。一応、念のため確かめてみようと、拭いながら炊飯器に目をやると電源コードはつながれておらず釜はやはり空だった。冷蔵庫の中にはとにかくレタスが丸々と鎮座していた。何かの醤油だれらしき小袋が卵の下敷きになっているのを見つけた。湿ったタオルを首にかけ、またソファに戻った。背もたれに頼りきってテレビを点けることもなくぼんやりと天井を眺めた。病的な白さに見えた。このマンションに越してきて一年ほどだが、改めて天井の模様を見ると影の数々が細毛のようだった。三和土に投げやりで重たそうな足音が入ってきたのはそのときだった。
「もう無理」
「わかってるよ」
「どうしようか」
「レストラン行こう」

 薄明るい天井で前日のやりとりを思いかえして描いた。振動に気を払いながら起床し、ゆっくりと戸を引いた。居間のテーブルでは妻の鞄がひしゃげてそのたわみが小籠包を想起させた。無造作に置かれたまま具に手をつけられていないのは明白だった。
 ほんの悪戯心も手伝って、水を口にすることだにせず外へ出かけた。もともとは都心の百貨店に行くつもりだったが、止した。

 日射しはまぶしく、仲夏の湿気は微かな向かい風によって尚更体に染みこむようだった。動かない家々の連なりに休日を感じた。誰かの家の庭から道にせりだした枇杷の木の下で果実が黒く死んでいた。遠くの空に甲高い歓声が聞こえた気がした。土曜の午前――自発的に道路に湧きだすにはまだ早く、自動車の走る音が空気を織って耳をならした。
 南から調布駅を昇ると、乗客が改札を競うように出てきた。彼らは今日どうするつもりなのだろうかなどと自分を棚に上げて空想したものだ。疾行する個々の形相が雑誌やテレビで目にするそれの典型の一つ一つに思えた。今日はしかしながら平日でない。そんな余所見をして歩いていたせいで老婆の背に気づかず足先でこむらの辺りを小突いてしまい、驚いて右肩をつかんだ。
「すいません。申し訳ありません」
「いゃいゃ、こちらこそごめんなさいねえ、全く」
 追いこしながらもう一度会釈をした。くしゃくしゃな両目だった。大股で歩いて紅潮の気恥ずかしさを紛らわせながら、いつかは脚の長さを失うことを強いて自認させようとした。老婆へのざんげも入りまじったそれは、母性へのそれにも近いものだった。

 甲州街道に出て、大正寺の角を左折したところで携帯電話が鳴った。
「どこに行くの」
 字面から妻の不機嫌が窺われた。それを促すためにあえて書き置きをしなかったのだから、解釈させたというと公平でない。ただそのように読みたかっただけで。
 然るに「深大寺」という三文字の返信は初志の理想に違いなかった。送信完了の表示を待つことなく畳んで尻ポケットにしまった。ぬくい風が髪を乱して目に刺さりそうだった。
 自分の足音の一拍一拍で砂利の装飾音が鳴るのに浸りながらゆっくりと住宅街を進んだ。時折大きな自動二輪が図々しい姿勢で追いこしたりするのを見るにつけ、ベルトも締めない身の細さがより不定になった。腋の汗が着ふるした紺のポロシャツににじんだ。電話は鳴らなかった。
 無人野菜直売所の左手に背丈ほど伸びた紫陽花のしなびた様に若干の到達感を覚えた。派手な色彩の看板や庇を通りすごして、日陰の野川を渡った。

 ――満開の染井吉野を楽しみにこの春は野川公園を訪れた。妻は、久々のスニーカーを歓んだ。
「おむすびはこれで足りるかな」
「一応、虫除け」
 仕事のせわしさや気遣いをそのまま流用するように一層張りきった。濃密な仕事には濃密な遊びが釣りあうのだと大きな瞳が得意気だった。
「手を抜いてもいいのは、冷蔵庫の整理」といった詞の節々が女性だった。
 職場環境での妻の人格を見たことはない。年に数度かワインを持って遊びに来る同僚の緑さんによると、
「たぶん旦那さんが目にしてるのと大差ないと思いますよ」
 緑さんは、「男女兼用」という妻の評どおりの容姿であるのに未婚のままでずっと恋人がないらしい。
 ダイニングテーブルで熱中して会話しているときに、ソファでテレビを観ているふりをして彼女の深層のほんの一掻だけでも掬おうと耳をそばだてていたのだが、開けっぴろげとなっているところに遠近感がなく、現実的であること以外に何も感じとらせなかったことが稀薄なそれに思われて、一度だけ妻にどうしてだろうかと訊いてみたところ、
「バラだからね」と視線を合わさなかった。

 満開の公園に到着し、頃合の場所は占められ賑わっていたので、気楽なところを見つけて紅白の格子柄のレジャーシートを拡げた。
「玉子焼は」と急かすと、目尻でほほえみかえした。
 頭上の花弁をよそに燥ぐ児童らが水鉄砲で撃ちあっていた。腕の肉に凝縮された幼さが水しぶきをあげて弾んでいるようだった。口を開いて駆ける女児がつたなく結ばれた髪の根元に操られていた。陽光の下、危うく幸福な情景が今にも揮発しそうな突発的な怖れから空を仰いで瞼を閉じると、青いほむらが闇に平たくうっすらと灯った――。

 それが憑いたかのような白い肌が、日射しの行きとどかない深大寺山門前の仄暗い葉々の陰に浮かんだ。広い首許には現世を避けるような手入れがされているようだった。それが開放された、かぼそい鎖骨の交わりは女性の錠門だった。手前に被さった半袖は何を恥じらい、まとうためのものだったろうか。飲料を氷水で冷やす売り娘。後頭で結ばれた髪は鮮やかに黒く、俊敏に動いた。成熟しきらない面長の丸みを描く頬が女児とは異なる色に染まった。
「お茶をください」
「はい。ありがとうございます」
 槽の中から取りだすのに屈んだ際、襟がたるんで峡の羽二重肌まで露になって、水面に浮かぶわずかな光の反射が開いた錠門をゆらゆら出入りした。反発的に首のみ振って辺りを見た。私の後ろに客はないようだった。俄に空気がひんやりとした。凝った顔から悟られるのではないかと殊更になった。小銭を支払ってその場を立ちさると、声が耳の中に残って響いた。聞きのがした一言があるような、続けて何かを付けくわえられるような、そんな錯覚の陶酔にひたったおかげでかえることをついにしなかった。期待の妄想に耽るだけ――声と引き換えに意識のかたまりを置き去りにした。それは売り娘を一方的に見つめつづけた。開かれたものが儚く口惜しいあまりに私を追ってこない。青白い光の中で私たちはそれぞれ取りのこされて一筋の煙だに立てずに燻った。
「来なよ」と妻に送信した。すぐに返信が来た。
「もうすぐお寺を曲がるところ。中を通っていこうかな」

 蓋を回して冷茶を飲んだ。風に枝々が揺れ、断片的な肉体が葉とともにちらちらはためいた。午を目前にしてだんだん人の声が満ちつつあるらしかった。
「そば、そば」と訴える男児が傍らを走りさった。坊ちゃん刈の髪をなびかせながら右へ左へ懸命だった。親の許へ急いでいるのか、それとも親が追わされることになるのか、そもそも孤独に蕎麦屋へ向かっているのか、とにかく誰も彼を呼びとめない。後姿には男児なりの邪念の烙印があった。齢を追うにつれてそれが剥がれて味薄となっていくことを思えば――すっかり中年になって黒じみのようなものしか持ちあわせない私がその彗星の尾を浴びるのもまた一つの慰撫にもなるだろうかと、遠ざかる後ろ髪を眺めるばかりだった。
 水曜に誕生日を迎える妻の不足が表参道を往きつ戻りつさせ、福満橋に足をかけた折、蜜の香が漂ってきたはずなのだが再度嗅ぐことはなかった。

川島 淑彦(東京都板橋区/33歳/男性/自営業)

   - 第7回応募作品