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「人魚の涙」 著者: 野口 貴裕

 8月の夜遅く、僕の携帯に電話が掛って来た。
「…はい、もしもし?」
「夜遅くにごめんなさい。私だけど…起こしちゃったかな?」
 病院に入院している君からだった。受付前の公衆電話からだろうか。声が少しかすれているようだ。
「いや、まだ起きてたよ。」
「よかったぁ。」嬉しそうに言う。
「あのね、お願いがあるんだけど、その…今から会えないかな?」
「えっ今から?明日じゃ駄目なの?」
「今日じゃないとだめなの。お願いっ!」
両手を合わせて頼み込む姿が目に浮かぶようだった。僕は諦めて言った。
「…わかった。いいよ。どうせ何もする事ないし。でも、明日は手術の予定じゃなかった?寝なくていいの?」
 君の喉にできたポリープという腫れ物を除去する手術が明日あるはずだ。それで前日の今日から入院していた。
「ありがとう。手術は夕方からだから大丈夫だよ。じゃあ待ってるねっ。」
 どこか切羽詰まった物言いだったが、さほど気にせず寝巻から着替え、父親の車のカギを拝借して、君の待つ病院まで車を走らせた。
 車の中で君と初めて出合った時のことをふと思い出していた。10年ほど前の春、深大寺小学校の5年生の時に同じクラスに君が転校してきた時だ。少しウェーブ掛ったロングヘアーで比較的小柄な子だった。とりわけ可愛く、目立つ容姿ではなかったけど、自己紹介の時の声を、涼しげで澱み無く、人を惹き付けるようなその声を今でも覚えている。桜の季節の筈なのにどこか夏を感じさせた。性格も夏の風のように爽やかだった。歌が好きでいつも歌っていて、将来はプロの声楽家になるといつも話していた。
そんな君もいつの頃からか背が伸び、体つきも女らしくなり美しく成長していった。友人の一人だと思っていたのに、いつから僕は、君の事を「女の子」として見るようになったのだろうか。
 そんな事を考えながら、病院の前に到着し、路上駐車した。すると、1分も経たない内に君は車の前に現われた。助手席のドアを開けてやると、
「部屋の窓から抜け出して来ちゃった。」
少し照れてそう言い、助手席に乗り込んでシートベルトを締める。僕はこれからどこに行くか訊いてみた。
「もう行き先は決めてるんだ。深大寺小学校に行こう。」
小学校に行ってどうするつもりなのかは訊かずに、君の望むままに車を発進させた。
 深夜近くで他の車は少なかった。さほど時間も掛らず深大寺小学校の正門付近に着き、適当な所で駐車した。卒業して以来の小学校である。車から降りると、冷房の「作った」涼しさとは違った、爽やかさを含んだ風が通り抜け、君の長い髪を悪戯になびかせた。
「プールの方に行こうよ。」髪を直しながら君が言った。プールは正門の裏の方にあった。
 交番の前の深大寺へと続く坂道を下った。街路樹の桜の木々が、葉を鬱蒼と茂らせていて真夏の太陽を物ともせずに生き抜いていると思わせた。
 石畳の坂を下り、小学校裏へのわき道に入って、石造りの階段を上った。階段を途中まで上がったところに電燈があり、そこから二重のフェンスに囲まれているプールが見えた。プールには水が張られていた。
 君はそこに着くとすぐに、フェンスの扉のノブに足を掛け乗り越えようとした。
「ちょっと!不法侵入だよ?」あわてて止めようとしたが、君は無視して一つ目を乗り越え、二つ目まで軽く乗り越えてしまった。
 君は、自分のしたい物事に集中しすぎて周りが見えなくなることが時々あって、それが玉にキズだった。こうなると誰にも手が付けられないので、小さくため息をつき、僕も仕方無くフェンスを乗り越えてプールサイドに入った。
 プール内の水は静かにそこに佇み、月の光を映す鏡だった。今日は丁度満月だったようだ。
 水面を眺めていると不意に波が立ったので辺りを見回した。すると、君が素足を水に浸しプールサイドに腰掛けていた。その背後には、履いていたミュールが乱れて脱ぎ捨ててあった。君はプールサイドに手をつき、腰の後ろ辺りで体を支え、静かに両脚で水を波立たせながら月を眺めていた。
 僕はその光景に息を飲んだ。思いもよらない行動だったためではなく、ただ美しかったからだ。月光に照らされて淡く輝く水面、それに浸かる髪の長い若い女。人魚を思わせた。君にそんな妖艶な魅力を今まで感じて来なかったが、その時の君は妖しく美しかった。
 僕は君をもっと近くで眺めようと思い、ゆっくりと歩み寄った。すると微かに何か聞こえた。囁くような声で、君が歌っているようだった。どこかで聞いたことがある気がする歌だ。その歌声を聴いて、初めて君がいつもの君じゃないと気付いた。
「ねぇ、どうしたの?」僕は訝しんで訊いた。
「何か…あった?」
突然歌が途切れ、驚いた顔ですぐそばまで来ていた僕を見上げる。
「……どうして、わかるの?」
「君はいつも、そんな悲しげな声で歌わないから。」確信を持って言った。
「…そう、……そっか。」納得したような嘘を見破られたような曖昧な顔をして君が呟いた。一瞬、俯いたと思ったらすぐに夜空を仰いで言った。
「あーあ。やっぱり、あなたに隠し事はできないなぁ。」
 隠し事がいったい何なのか気になったが、それよりも、君がそれ自体を受け入れているのかを訊きたかった。
「私が明日、手術を受けるのは知っているよね?」普段と変わらない口調で話しているようだが声が震えていた。
「知ってるよ。歌の練習のしすぎでできた、声帯のポリープを除去する簡単な手術だって聞いた。」
「そう。簡単な手術で命の危険はまずない。…だけどね、…声がね…変わっちゃうかもしれないんだって。」最後の方はもう涙声で聞き取れなかった。
 僕は、その時初めて君の涙を見た。いつも明るくて爽やかだった君が初めて見せた弱さだったのかもしれない。僕は膝を折り君と同じ目線になってなだめるように言った。
「でも、それは可能性があるというだけで必ずではないんでしょ?それに声が変わっても君は君だよ。」
「…でも…声が…変わっちゃったら…もうプロになれないっ。…この声が…『私』自身なのっ」俯いて涙をこぼしながら言う。
 僕はそれ以上声を掛けられず、ただ無意識の内に君を抱きしめていた。君は一瞬驚いた声を上げたが、拒む様子は無かった。そして、君の涙で濡れた頬に口付けた。そこにあったのは君への穢れない想いだけだった。
 涙の味がした。それは、昔聞いた話を思い出させた。人魚の涙は一粒一粒、それぞれ眩く輝く真珠になる。だけど真珠になれない小さな雫は、塩の結晶になる。だから海はしょっぱいのだという話だ。どれだけたくさんの人魚が現実の運命に嘆き悲しんだのだろうか。
 しばらくして君の細い肩が小刻みに震えだした。僕は君を腕からほどいて顔を覗き込むと、唇が青ざめ体が冷えているとわかった。
「もう、もどろう。」そう提案し、君を両腕に抱えプールサイドに降ろした。濡れた脚を僕の着ていたシャツで拭いてやりミュールを履かせた。
「…うん。…戻ろう。」そういうと少しよろけながらも一人で立ち上がりゆっくりとフェンスまで向かった。
 僕たちは車まで戻り、シートベルトを締めた。冷房は消したままで辺りは音も無い。夜の静けさを全身で感じていた。きっと君もそうだろう。僕たちはどちらからでもなく、さも当たり前のように静かに唇を重ねた。

 翌朝、君は病院のベットの中で息絶えていた。自殺だった。隠し持っていたカミソリで手首を切ったらしい。
 僕はその知らせを聞いてもさほど悲しいとは思わなかった。もしかしたら、こうなる事をどこかで感じていたのかもしれない。君が、自分自身が「変わる」前に、自ら「壊す」事を。
 君の葬儀に参列し、君との最後の別れを交わした。それでも、君がこの世を去った悲壮感にも、自殺を止められなかった罪悪感にも苛まれることはなかった。僕を苛むのは唯一、君の声を二度と聴くことができないことだ。それを死よりも辛く感じる。
 どうやら、僕は君に魅せられていたのかもしれない。プールサイドでの君の歌声が、ずっと頭から離れずにいる。
あの夜、僕は君を人魚のようだと思ったが本当にそうなのかもしれない。海に住み、その美しい歌声で船乗りを魅了し、船を沈めてしまうと言う人魚の魔物、セイレーン。君はその血を引いていたのだろうか。その妖しげで流麗な調べで僕を虜にしたのだろうか。
 もう一度あの歌声が聴きたい。そう願っても君はいない。もう二度と戻らない。
 夏の終わりの風が優しく吹き抜けた。

野口 貴裕(東京都調布市/21歳/男性/学生)

   - 第7回応募作品