「今日、過去のあなたに会いました」 著者: 三木 千明
昨日まで雛祭りの飾り付けで賑わっていたであろう街中をバスですり抜け、涼子は深大寺前で下車した。ほんの数日前まで寒さで指が凍っていたのに、今朝は春を迎えた陽光だ。この周辺に不慣れな涼子は、辺りを見渡し、通行人の後へついて行った。
涼子が深大寺へ来るのは7回目だ。ただ、存在を知ったのは3年前である。海や緑が豊富な和歌山で育った涼子にとって、東京は無機質で巨大なコンクリートが並ぶ街という印象だった。希望の大学に合格したのをきっかけに上京し、卒業後は関西で就職する予定だったが、当時は就職超氷河期で仕事が見つからず、涼子は仕方なく東京に留まった。2時間程電車に揺られれば、青梅や秩父に行けるのだから、まあ良しとしようと納得させた。
派遣社員として働き、数年後に大学のプチ同窓会に誘われ参加した。俊介と初めてしゃべったのもこの日だった。お互い共通の友人を交えて挨拶を交わし、ぎこちなく会話をすすめていたが、涼子の出身地を聞いてから、俊介の心は少しずつ開いていった。
都会に疲れきっていた涼子を見抜いていたのか深大寺を教えてくれたのは俊介である。
ボンヤリしながら歩いていたら、目の前に幾つも並ぶ蕎麦屋が並び多くの人で賑わっていた。普段の光景と違うのは、達磨を抱えている人が多い点だ。涼子はまず蕎麦を食べるか、達磨を観に行くか迷ったが、この行列が引くのを待ちたいので、参道へ向った。
縁日の様に、達磨は道の脇で華やかに飾られていた。こうして達磨を眺めるのも2年ぶりだ。その時は俊介の青い車に乗せてもらって来ていた。広大な駐車場には朝からたくさんの車で埋まり、驚いてしまたのを思い出す。俊介は毎年、ダルマ市に参加するのが恒例になっていた。そこへ一緒にどう?と誘われた事に、涼子は心が弾んだ。
更に5ヶ月前に、俊介と一緒に初めて深大寺へ訪れていた。「ここが東京?」と思わず呟いた涼子に、俊介は優しく頷いてくれた。こんな近くにオアシスがある。俊介の横顔を覗くと、普段の無表情とは違い、未来を語る少年の顔をしていた。もしかしたら、感性が似てるかもしれない。その時からすでに恋は深い奥で始まっていたのかもしれない。涼子は俊介と一緒に、銀杏や花が舞い降りた道を歩くのも好きになっていった。
いけない、また想い出を探ってしまった。涼子は人の波をゆっくり歩き、圧倒される数の達磨達を見やった。涼子は一つの達磨に気づいた。手のひらに乗るサイズで、赤ではなく黄色であった。2年前であったら、俊介を呼び止めて二人ではしゃいだのに。
愛想がいい店主に声をかけられ、涼子も笑顔を返しその達磨を手にした。値段も手ごろで、涼子の狭いマンションの部屋に馴染むだろうと思い、バックから財布を出した。
椅子に座って筆を握っていた男性から、文字を入れますよと言われ、涼子は困ってしまった。この子の背中にどんな言葉が合うのだろう。四字熟語がしっくりいくのだろうが、あせっているとなかなか浮かび上がらない。頑張るでは曖昧すぎるし。時間を取らせるのも悪いので、涼子は咄嗟に思いついた言葉を口にし、金粉で書いてもらった。
開眼所に向かって方目を入れてもらい、この達磨が愛おしく思え、涼子はバックに忍ばせた若草色の風呂敷にそれを包み、両端を結んで即席のサブバックを作った。達磨も居心地の良さに喜んでくれるだろう。
食欲に動かされ、涼子は一軒の蕎麦屋に入った。店の造りは木のぬくもりを感じ、お婆ちゃんの家に遊びに来たようで懐かしさがある。冬にはストーブを焚いてくれる。このお店を教えてくれたのも俊介だ。蕎麦揚げを一心不乱でポリポリ食し、私が唖然としていると俊介は照れ笑いをしていた。
いつも、俊介の頭は仕事でグルグルしていた。集中力がすごく、思考をしてる時は誰の言葉も入らない。だからか電話やメールの回数も極端に少なかった。付き合おうと誘ったのも私。2年近く付き合うと、不安で胸が押し潰されそうになった。私の存在って何なの。
またやってしまった。涼子は過去を悔やんだり懐かしむクセを止めたかった。以前の涼子なら、失恋しても3日で立ち直り、未練の意味が分らなかった。だが、俊介と別れてから、涼子の心に後悔の波が浸水していた。
この思いを断ち切るには、俊介が他の女性と一緒にいる現場を目撃するしかない。今日、ここへ来ている可能性は高かったが、人の多さで見つける自信がなく、昨日に来ている可能性も高い。駐車場に行って俊介の車を探し出せば手っ取り早いのかもしれないが、そこまでしたくなかった。今日会えなかったら、またずっと苦しむのかな。でもどこかで俊介に逢わずに安堵している自分もいる。困ったねと、涼子は風呂敷の中の達磨に呟いた。
店員が涼子のテーブルにかけ蕎麦と蕎麦揚げが置いたので、涼子の沈思は途切れた。俊介の真似をして綺麗に蕎麦をすすってみたがなかなか難しい。涼子の地元では蕎麦を食べる頻度が少なかったからだ。
ピークを過ぎたお陰で、店内はゆったりした時間が流れていた。慌しい職場とは丸っきり違う。涼子もゆっくり蕎麦を堪能した。
その時、奥のテーブルで白いシャツを着た細身の青年が目に入った。いつのまに座ったんだろう。顔を伏せ、本を読みながら蕎麦を食べていた。それも綺麗に。涼子と対角線上の位置で、前髪が長いせいか顔がはっきり見えなかった。青年が蕎麦湯が入った器を持ち上げようと少し顔を上げた時、涼子の首から背筋にかけて戦慄が起こった。
(俊介!)まさかこんな近くにいたなんて。また顔を伏せたが、顎のライン、鼻、何より食べ方がそっくりだった。涼子がじっと見ていたにも関わらず、青年は気づかなかった。何か、おかしい。俊介は2年で若返っている。別れの最後には、俊介の肌がくすみ、目の下にクマを作っていた。髪形も短かかった。それなのに、奥にいる青年は肌や髪に艶があり、全体的に若さがにじみ出ている。
俊介じゃなかった。しかしあまりにも似すぎている。そう、大学時代の俊介だ。涼子は大学の食堂で、仲間とランチを食べているのに、一人だけ情報処理の雑誌を読んでいる俊介を見かけた事がある。涼子の友達は俊介を知ってるので、「全く、食欲より勉強だね」と苦笑していた。そうあの頃の俊介。
まさかね。涼子はとうとう自分の思考が妄想に変わったのかと思ったが、店員は何事も無くその青年にお茶を湯飲みに注いでいた。これは現実だ。世の中、瓜二つの人間がいるもんだな。お茶を飲み終えた青年は立ち上がり、レジに向った。最後まで涼子には気づかなかった。不思議なのはジャケットを着ておらず、シャツのまま店を出ていった。それだけではまだ凍える気温だ。青年が出て行ってからも、涼子は呆然としていた。
消したかった想い出が沸き起こった。二人が別れた原因。俊介が仕事に燃えていたから、涼子とのデートの時間が削られていった。話す時間も減ってきて、最後には二人でいても、お互い黙って別の事をしていた。もっと私にかまって欲しい。涼子は俊介を責めた。俊介のヒョロッとした背中は小さく見え、今まで見たこともない悲しい表情だった。私は普通を望んでいるだけなのに、恋人を追い込んでしまった。涼子は自分も責め、俊介から離れようと決めた。
俊介の電話番号、住所はもとより、手紙や保存したメールも削除した。未練なんて残すはずなかったのに。あの頃の私はおばかさんだったなと、今の涼子は笑って言えた。正社員の仕事に転職し、自由な時間はわずかしかなく、デートする時間は皆無になり、俊介の気持ちや立場が痛いほど分ってきたからだ。俊介は先ほどの青年のように夢中になって取り組んでいる時が一番素敵だったな。昔の私も、もうすこし思いやりがあれば、今も俊介と歩いていたかもしれない。
涼子は俊介にあやまりたい気持ちでいっぱいだった。ただお詫びしたい。どうやって?どうにかしてでも。涼子は唇を噛み締め、幾つももらしていた溜息を飲んだ。涼子はもう一度、境内を回ろうと決めた。じっとしている時間に耐えられなかった。
臨時駐車場には、すでに帰る車が多く、一台の青い車はすんなりと停車できた。背が高く、色の白い男は大きな達磨を抱き上げ、本堂の方へ向った。いつもここは変わらないな。今と昔が混合してるようだ。男は赤い達磨にご苦労様と小声で話しかけた。もうすぐ、空の稜線に橙色が染まるだろう。男はふと後ろを振り向いた。かつて、並んでお参りした彼女が笑って手を振ってくれている気がした。男は照れ笑いし、指輪のはまっていない両手で達磨を強く抱いた。僕がもっと器用だったら、今頃彼女も一緒だったかもな。供養してもらったら、蕎麦屋へ行こうと男は決めた。
甘味処で休憩してた涼子は時計を見ていた。バスの時間は何時だっけ。あれから涼子は深大寺を探索したが、俊介を見つけることができなかった。青年にも。涼子は風呂敷を解き、達磨の背中を見た。「幸福」そう、私は幸福を自分で得よう。いつまでも悩んでいる場合じゃない。俊介に逢えなくても、これから前進していける。達磨が「大丈夫?」と訊ねてきたので、涼子も「もう大丈夫だよ」と笑った。きっと、うまくやっていける。
涼子はお店を出て、道沿いのバス停へ向った。バスが来る迄時間が余るようなら、最後にお店を見て回ろうと思った。空には、青と橙色が交じり合っていた。
三木 千明(東京都練馬区/30歳/女性/派遣社員)