*

「1969~2011」 著者: 廣瀬 大

 なるほど、生き物の左右対称性というのは、まさに片方を失ったときに、もう片方が一方を補うためにあるのですね。そう父さん言うのよ。
 脳梗塞を起こし、左半身に軽い麻痺が残った父は、医師から説明を受けながら、呂律のまわらない口でそう言ったという。まったくどういう神経をしているのだろう。それを母は娘である私に楽しそうに紅茶をすすりながら話すのである。
 父は油絵を専門とする画家であった。さまざまな機械、それはつくりかけのトランジスタラジオだったり、噛み合った歯車だったり、をモチーフとした作家であり、何度か海外でも個展を開き、「日本を代表する」とまでは言えないにしても、そこそこに名の知れた画家だった。でも、父の生活はどちらかというと芸術家というよりは、工員という方が近かったと思う。毎朝、五時に起き出して、朝の散歩に出かけ、古い木造平屋建ての我が家にあるアトリエに籠り、キャンバスの中で機械を組み立てる。夕方になると美術大学を目指す学生たちのための予備校に出かけ、デッサンを教える。私が物心ついたときから、父はずっとそんな暮らしを繰り返してきた。
 どちらかというと芸術家は母の方だったと思う。母には一日として同じ日がないように見えた。家計を支えるために、母は漢方薬のお店を経営した。一体どこでどうやって漢方薬の勉強をしたのかはいまだに謎だが、最初、一店舗だけだったお店は、私が中学に上がる年に二店舗、高校に上がる年に四店舗、大学を卒業する年に七店舗になっていた。いつも日本中を飛び回っていた母だが、泊まりがけの出張のとき以外はかならず朝食をつくった。白いご飯にみそ汁、焼き魚にネギがたっぷり入った納豆。そんな古典的な日本の朝食だった。そして母は朝食をつくり終えると、鏡台の前で化粧を始め、左から右、右から左と口紅をひいた。小さな頃、私はそんな母の化粧をする姿を眺めながら、お母さんの方がお父さんより、ずっと絵描きなのではないかと思ったものだ。今になって思えば、すべての女は画家である。
 不思議なことに父と母が話している姿を思い出すことができない。もちろん二人がひとことも言葉を交わさず夫婦を続けてきたわけはないので、思い出すことができないだけなのだが、しかし、やはりどう考えても極端に会話の少ない夫婦だった。というか、父の口数が極端に少なかった。
 「お父さんのどこが好きなの?」思春期に入るちょっと前の、微妙に胸が大きくなりはじめた頃に母に訊いたことがあった。体も心もなんとなく、初潮を迎えることに薄々気付きつつあるあの頃。
 「無口なところ」母ははっきりとそう答えた。「無口なひとっていいじゃない。エネルギーがうちに籠ってるかんじがして。お父さんの絵を見ると、あ、無口な分、言葉になっていない思いがこんな形や色になっているんだと思わない?」
 「えー!」とかなんとか、そのとき、私は言ったのだろうか。でも、無口な人が好きでなければ耐えられないぐらい、たしかに父は無口だった。
 ポーランドで個展を開くことになり、父が二ヶ月程、ヨーロッパに滞在していたことがある。個展の後、どこかの大学の研究室に一ヶ月ほどお世話になるとのことだった。その間、週に一回、我が家に父から絵はがきが届いた。自分で画用紙かなにかを切り取って、水彩絵の具でその土地の景色を描いたものだったが、その絵はがきには驚くことになんの言葉も添えられていなかった。ただ、絵が描かれた四角い紙だけが私たちに届くのである。絵はがきまで無口なのだ。それを嬉しそうに見る母を見て、確かに私も無口な人がいいかも、と思ってしまった。
 会話をしているのを覚えていないぐらいだから、もちろん父と母が手をつないでいる姿なんて見たことある訳がない。そのせいなのか、私は街で大人が手をつないで歩いている姿を見ると、ひどくどきりとしてしまう。なんだかえらく猥褻なものを見てしまった気になるのである。

 「父さん、絵を描くの、諦めてないんだって。右手で絵を描こうとしてるらしいわよ」
 姉は電話でそう言った。電話の向こうでテレビの音が聞こえる。父は左利きの画家だった。右手でいろんな色の絵の具が盛られた、1969年の美術大学入学から使っている木製のパレットを持ち、左手で絵筆を握った。でも、倒れて左手に軽い麻痺が残り、父は右手で絵筆を握ろうとしているらしい。
 「仕事辞めたのよ、母さん。父さんのリハビリのために」
 私は父が絵を諦めていないことよりも、あの母が仕事を辞めたことに言葉を失ってしまった。娘たちに何一つ相談せずに、父のリハビリに専念することにした母さん。
 左半身の自由を失ってから、父の描こうとする絵は左右対称性にこだわったものになっているらしい。機械ばかり描いていた画家が、人の顔、いびつに伸びた木、街の雑踏、そうしたものの中に左右対称と左右対称になりきれない形と色を見つけては、キャンバスに不慣れな右手で描いているという。
 
 ぶらぶらと深大寺を歩いていると、大人が手をつないで歩いているのを見つけ、どきりとした。よく見るとそれが自分の父と母なので、なおさらどきりとして、つい知らない人たちの後ろに隠れて逃げてきてしまった。初めて二人が手をつないでいるのを見た。いや、本当は手をつないでいるというよりも、母が父の手をひいて歩いているだけなのだった。
 久しぶりに実家に戻ると誰もいなく、最近は、リハビリも兼ねて深大寺まで出かけて父が絵を描いていると聞いていたので散歩がてらに深大寺に来てみたのである。朝早く母に付き添ってもらい、画材道具を広げ、夕方になる前に母に迎えに来てもらい家まで帰る。それを毎日繰り返しているという。
 前日、「お父さんが引退します」母は電話でそうはっきりと宣言した。画家に引退なんてあるんだ。そう一瞬思ったけど、工員のような父の生活スタイルからすれば、なんだかそれも当然のような気がした。母が仕事を辞めてもう二年が経とうとしていた。父は少しずつ左半身が動くようになる、というより左半身の麻痺にようやく慣れてきているというかんじだった。
 最後にある有名な画廊で個展をやるのだという。父の名前が大々的に冠についた最後の個展である。そこで最新作を発表して、職業画家としての人生を締めくくるという。
 
 「ちょっと無謀だと思わない?」おちょこの日本酒を旨そうにすすりながら姉は言った。美味しい日本酒が手に入ったと、姉は私のワンルームマンションに来ていた。夫は出張で帰ってこないから、今日はいいのだ、と誰にも訊かれていないのに、姉は言い訳をしてから晩酌を始めた。
 「父さんの絵、見たことある?さすがにあれじゃ、個展は無理よ?」
 「姉さん、塩辛いる?」
 「あくまでリハビリの絵」
 「塩辛どう?北海道から送られてきたやつ。でも最後の挑戦とか言って、美術誌に特集されてたよ」
 「父さん、内心すごい焦っていると思うわ。塩辛いる」
 
 父は慣れない手つきでそれでも絵を描いていた。毎日のように深大寺に出かけ、家に帰るとアトリエに籠る。私が遊びに行っても顔を見せない。母はキッチンで鼻歌まじりに紅茶をいれてくれる。
 「お父さん、大丈夫なの?」
 「何が?」
 「何って、お父さん、個展までに仕事を仕上げられるの?」
 「どうかしらねえ。でも、いいじゃない。あの人、こないだはじめて深大寺に行くのさぼったのよ」
 「それがなんだって言うのよ」
「昔の父さんからは想像もつかないでしょ。機械みたいに規則正しい人だったんだから」
 「なによ、それ」
 「あなたは自分の心配をなさい」
 
 父の最後の個展のオープニングパーティーで父は母と手をつなぎ現れた。いや、手をひかれて。こじんまりとしたあたたかなパーティーだった。父は挨拶もほとんどせずに、最後の作品にかぶせてあった布をひいた。
 タイトル「1969~2011」。真っ白いキャンバスの上にあるのは、1枚の汚い木の板だった。不格好で汚れた木製のパレット。美術大学入学の時から使い始め、今日まで使い続けた木製のパレットには今まで父が見ようとしてきた色、描こうとしてきた色の欠片がちらばっている。父は何度もパレットの上にこびりついた油絵の具を削りながら、この木片のパレットを使い続けてきたのだった。
 これこそ父の最後の作品であった。私は父と母を見つめた。母はにやりと意地悪な笑みを私に向けてきた。
 父の右手で描かれた下手な絵たちはアトリエに置かれたままになっている。父が最後に描いた絵は深大寺で手をつないでいる父と母の姿である。キャンバスの中で父と母が立っている。その姿はまったく見事な左右対称に見えもするが、まったくの非左右対称にも見えるのであった。それは、父の画家としての人生の中で最も下手で美しい絵であることに間違いない。

廣瀬 大(東京都豊島区/32歳/男性/会社員)

   - 第7回応募作品