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「五月の雪」 著者: 樋熊広美

   なんじゃもんじゃの木に、
   あの白い花が、
   見ごろの季節となりました。

 差出人のないこんな葉書に誘われて、美緒が深大寺に訪れたのは五月半ばの土曜の昼下がりのことだった。心がほっと寛ぐような佇まい。休日にわざわざ一時間以上もかけて来た甲斐があるというものだ。まあ、わざわざといっても、他に休日を過ごす当てが見当たらなかったことも事実である。
 もうすぐ四十五歳を迎えようという美緒は気ままな一人暮らし。休日を約束するような相手は、今はいない。勿論これまで付き合った男性は数人いたし、結婚を約束し合ったこともあった。しかし話しが進まなかったのは結婚に縁がなかったのだろうか。三十代終盤の頃には、あやうく結婚サギにも引っ掛かりそうになった。決して焦っていたわけではない。ただ、その男に出会ってしまっただけのことだ。女の意地に賭けても、男運が悪いとは認めたくないのだ。

 今日だって、何も期待などしていない。

 深大寺の門前には蕎麦屋が二十数軒も軒を連ねている。まずは腹ごしらえだ。美緒は、緋毛氈の敷かれた茶店風のこじゃれた店で盛りをすすりながら、あの頃の会話を思い出すともなく思い出していた。
「わたしは大阪の出身やから、やっぱりうどんの方がええわ」
「いや、それは蕎麦の本当の旨さをしらないからだよ」
「違うわ。鰹と昆布のきいた関西風のおダシがおいしいねん」
「いやいや、手打ち蕎麦を盛りで食べる粋さを知れば、蕎麦派になるよ」
 関西生まれの美緒と関東男の恵一は、うどん×蕎麦合戦をいつも繰り広げていたものだ。
その頃、三十九歳の美緒と四十歳の恵一。行き付けのカジュアルなバーで顔を合わせるようになってから、いい歳をした大人が、他愛もなく、そんな話しでバトルを繰り返していた。
 ある日、恵一は真剣な顔で、
「どうしてもキミに蕎麦の旨さを認めさせるために、オレは蕎麦打ちを習い始めたよ」
 と子供のような眼差しで言ったのだ。
「アホやな」
 美緒は笑いながらも、心の底が熱くなるのを感じていた。
「手打ちするには、蕎麦の粉が自然にまとまるまで水を加えるんだ。その分量はその日の湿度によっても違ってくる。繊細な感覚が必要なんだ」
「へ~え、繊細ね。恵一さんからそんな言葉を聞くとは思わんかったわ」
 美緒が茶化しても、恵一は尚も真剣だ。
「捏ね・延しの時に、いい具合に空気が混じりふっくらとした仕上がりとなる。こうして口当たりの柔らかな、しなやかな茹で上がりになるんだよ」
「へえ~」
「機械打ちだとね、捏ね・延しの過程で強力な圧力をかけてまとめるものだから、水分が少ない出来になり、そば本来の旨さが損なわれてしまうんだよ」
「ホンマに、真剣やね」
「そうさ。関西人のキミにはこう説明すればわかるかな。つまり・・・、お好み焼きを焼く時みたいなものだよ」
「何それ?今度はお好み焼き?(笑)」
「ハハハ。お好み焼を鉄板で焼く時に、ギューギューとテコで押しすぎると硬くなるばかりで、ふっくらと仕上がらないだろう。お好みの中にいい具合に空気が入っている方が旨いだろう」
「なるほど。それやったら、ようわかるわ」
「わかりまっか?」
「ヘタな大阪弁やなあ。それに、テコやなくてコテや。」
「そうでっか」
 こうして恵一がヘタな大阪弁を使うようになり、二人の会話はますます親密になった。
会話以上に、美緒の心を開かせたのは、恵一が蕎麦打ちを始めた動機だ。美緒に旨さを認めさせるためにとまで言われたら、女心にズキッとくる。
「それで、いつ、そのおいしい手打ち蕎麦を食べさせてくれるの?」
「まだ、ちょっとかかるな」
「なんや、ウンチクだけやん」
「よし、じゃ今度の休日に深大寺に行こう」
「え?深大寺」
「ああ、うまい手打ち蕎麦の店がある」
 約束通り、次の休日、深大寺の山門の前で落ち合って、連れて来られたのがこの店であった。確かにおいしくて、うれしくて、美緒は蕎麦派に転向しても良いと思えるようになった。ますます会話は弾む、心も弾む。
「休日に、こうして時間を作ってもらってうれしかった。わたしはシングルだからええけれど、恵一さんの家族には迷惑をかけてしもうたね」
「大丈夫さ。僕もシングルみたいなもの。今、離婚の調停中なんだ」
「嘘ちゃうの?」
と探りを入れると、
「嘘ちゃう。こんな門前の敬虔な場所でウソはつけません」
と恵一はあくまで真面目な面持ちだ。
二人の間で、好意が愛情に変わるのに時間はかからなかった。毎週デートをするたびに、軒を連ねる蕎麦屋を一軒ずつまわることが、二人の楽しいイベントになっていた。夜が更けても別れづらい日は泊まって行くことも増え、美緒の部屋には男物のパジャマも歯ブラシも用意され、ペアのカップやお皿も揃い始めていた。
自然で穏やかな心ときめく日々であった。出会うべくして出会った男だと、美緒は確信していたのだ。
しかし・・・。二十数軒並ぶ蕎麦屋をほぼまわり終えた頃、真っ白に咲き誇る花の下で、
恵一に頭を下げられた。
「ごめん。本当にごめん。離婚できなかった」

 もり蕎麦を食べ終えた美緒は、久々のおいしさに満足しながらも、複雑な思いを抱えて山門に向かった。
 あの別れから五年─。
 辛くて辛くて、あれ以来深大寺を訪れることは一度もなかった。結婚詐欺師の男にうまくあしらわれただけのことだと、ずっと自分を納得させてきた。純愛だったと思うと、辛すぎた。
 こぼれ落ちそうになる涙を拭った時、美緒の目の前には、それはそれは見事な風景が広がっていた。なんじゃもんじゃの木が白い花を一面に咲かせていたのだ。この木はモクセイ科で、英名はスノーフラワー。風薫る五月の、悲しいまでに白い雪。
 と、突然に、
「ありがとう。来てくれて」
美緒の背後から懐かしい声がした。しかし、振り返らなくても声の主はわかっていた。
「わたしは花を見に来ただけや」
 美緒は振り返らずそっけなく答えた。
「突然にあんな葉書を送ってごめん。まだ住所も名前も変わっていなかったんだね」
「悪かったね。別に意味なんかないわ」
「いや、良かったんだ。また、この木の下でこうして会えたんだから」
「勝手にそんな感激せんといて」
「どうしても会いたかったんだ。あの時、キミに嘘をついたような形で終わってしまったからね」
「離婚調停中なんて嘘をついたやないの」
「いや、本当に調停中だったんだ。しかし離婚に反対していた一人娘がリストカットまでして・・・。あの時、そんな娘を、それ以上悲しませることはできなかった」
 美緒はゆっくり振り返りながら、
「そうやったん、恵一さん。一言もそんなこと言わへんかったから」と久しぶりの男の名を呼びかけた。
「何を言っても、弁解になると思ってた」
 白髪は増えたが、瞳にはあの頃の光を宿したままの恵一がそこにいた。そして今日こそはと、伝えたかった言葉を口にした。
「この春、その娘もやっと大学生になって自立した。われわれ夫婦の離婚を認めてくれた。だから、キミとの縁を結びに来た」
 一気に想いがこみ上げて、美緒は涙声で、
「ホンマに?」
とだけ一言。洒落た言葉など出ない。
「ホンマにホンマでんがな」
と恵一が照れたような笑顔で答える。
「相変わらず、ヘタな大阪弁や」
「大阪弁はヘタだけど、手打ち蕎麦は上手にできるようになったよ」
「まだ、習ってたん?」
「ああ、いつかきっとキミに旨い蕎麦を食べさせると、約束したからな」
「アホやな。アホな男やな」
 美緒の頬を涙がぽろぽろこぼれ落ちた。
 五月の雪は、美緒の心のわだかまりも長かった月日も、全て真っ白に塗り替えたのだった。

樋熊広美 (大阪府羽曳野市/55歳/女性/パート)

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