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「緑のモミジ」 著者: 星野 有加里

 八王子で開催された学会に出席した後、調布行き、京王相模原線の電車に乗ったのは、七月の真夏日、無性に冷たくてうまい深大寺の蕎麦が食べたくなったからだ。それはもう、どうしても蕎麦でなくてはダメで、蕎麦以外は絶対に考えられないという強烈な衝動(ビックウエーブ)だった。この病的な衝動の誘因は、失敗に終わった学会発表のストレスだ。…間違いない。 
 昔から、ストレスが溜まるとそんな風に『今、どうしてもこれが食べたい!これ以外は絶対無理!』という自己制御不能なほどの我が儘な衝動が襲ってくる。そういう時は、我慢して他の物を食べても、結局は満足感も満腹感も得られず、返って空虚な空腹感だけが纏わり付き、一日中苛立ちを引きずるだけだ。だから、この衝動が襲ってきた時は、もうさっさと観念して、時間や労力やお金を遣っても、それを食べるために予定変更して進んでいく。
 そもそも食欲は原始的な第一欲求だ。それに抗う術(すべ)などない。素直に従った方が賢明だ。
 …と、まあそういう訳で、今日の食欲魔神様が生け贄として求めているのは蕎麦だ。僕自身は、都内で一番うまい蕎麦は深大寺だと確信している。だから、わざわざ自宅とは逆方向の深大寺まで足を伸ばしたのだ。
 電車に揺られながら読書をしているうちに、程なく深大寺に着いた。平日のせいか、深大寺通りに面した有名な蕎麦屋の前にも客は並んでおらず、人気もまばらで落ち着いた佇まいだった。悠々と涼しげに回る水車を横目で見遣りながら、真夏の太陽の下、汗ばみながら目当ての蕎麦屋を目指して足早に歩く。
 せっかく深大寺に来たのだから、じっくりと情緒ある街並みを眺めたいと思いつつも、この暑さではとてもそんな余裕はない。…というよりも、食欲魔神様が早く蕎麦を食わせろとうるさく急き立てるので仕方がない。
 目的の蕎麦屋の前に辿り着いた時、店の脇の街路樹にカメラを向けて、一心不乱にシャッターを切り続ける若い女性が視界に飛び込んできた。華奢な腕で持つには不釣り合いな重そうな本格的な一眼レフ。
 一瞬で、目が釘付けになった。猛暑を吹き飛ばす凛とした涼やかな目元に強い意志を漲らせながらファインダーを覗き、リズミカルな連射音を放ち続ける。どこか神々しささえも感じられるその端整な横顔に、目が離せない。蕎麦屋を目前にしつつも、長年飼い慣らせずにいるこの凶暴な食欲魔神さえ瞬殺で封印できるほど劇的なインパクトだった。
 なんてキレイなんだろう…。まっすぐな一筋の強い芯が通ったブレない軸を持った美しさというか…。きっと同様に、ターゲットを定めたら、ブレない写真を撮る人なのだろう。
 我を忘れ、見惚れていると、彼女の瞳がレンズから離れ、ふっとこちらに向けられた。ドキっと鼓動が一際高く跳ね上がる。くっきりとした二重瞼の黒目がちな瞳に、理論も物理を越えた引力で惹き付けられた。『何ですか?』そう言いたげな彼女の不審な視線に、
「あの…そんなに夢中で、何を撮っているんですか?」
 咄嗟に尋ねていた。すると、彼女は警戒心を解いたようにふっと表情を緩ませた。
「モミジを撮っているんです」
 彼女は片手をカメラから離すと、蕎麦屋の脇に植えられた青々と生い茂る木々を指し示した。その指先の向こうに生えるモミジよりも、スカイブルーの半袖のニットから伸びる小麦色に焼けた細い腕に、自ずと視線が吸い寄せられてしまうのは仕方がない、男の性(さが)だ。
「この時季にモミジ…ですか?」
 僕は違和感を覚えながら問い返した。今は7月下旬、真夏だ。秋でもないのに、赤や黄色に紅葉もしていない真夏のモミジを撮るなんて…。変わった人だ、率直にそう思った。
「夏の、緑のモミジが好きなの」
 彼女は重たげなカメラを細い首にかけたまま、気さくにサラリと言った。
「緑のモミジ?」
 異国の言葉を聞いたような耳慣れない響きに、思わず訝しげに鸚鵡返ししてしまった。
「そう。私はね、秋に色づく赤や黄色のモミジよりも夏の緑のモミジの方が好き。青々と生い茂った緑のモミジって瑞々しくて、躍動感があって、葉から今にも滲み出そうな強い生命力を感じるから。眺めていて、元気になれるの。パワーが充填できる気がする」
 彼女は片手をかざし、眩しげに眼を細めながらモミジを見上げた。真夏の傲慢な陽差しを余すことなく存分に享受し、葉の上で光を気ままに奔放に乱反射させ、碧(みどり)の輝きを辺りに放射するモミジ。…まばゆいほどに、なんて衝撃的な自己顕示欲なんだろう。生きるってことに、貪欲なまでの渇望を感じ、思わず呟きが零れ墜ちる。
「確かに、綺麗だな。僕は、秋の紅葉狩りすら殆どしたことなかったから、ましてや夏のモミジなんて、まともに見たのも初めてだけど、でも、なんかいいね。うまく言えないけど、こう…精一杯生きてるって感じがする」
 そのまっすぐな健全さは、正直、今の僕には正視するには眩しすぎた。教授(ボス)とも折り合いが悪くなり、准教授への昇格の話も流れてしまい、研究もはかどらず失敗の連続の日々。そんな状況だから、今日の学会でもたいした発表もできずに惨敗。すっかり研究への情熱も意欲も失いかけていた。最近では仕事へのやり甲斐も生き甲斐も見出せず、適当に生きているというより、むしろ中途半端に生かされているという感覚を否めない。そんな退廃的な僕には、生命力の強さを鮮烈に訴えるモミジのこの青すぎる青は余りにも遠く映った。
「そう、これが生きているってことなのよね」
 彼女は手を伸ばして、1枚のモミジの葉にそっと触れた。人差し指と親指を使い、葉の感触を楽しむようにゆっくりと丁寧になぞる。
「新緑のモミジの葉ってね、見た目のイメージよりもずっと柔らかいの。都内の色んな場所でモミジを触ったけど、この深大寺のモミジは特にスベスベして柔らかい感じがする」
 その言葉に釣られ、思わずモミジに手を伸ばした。人差し指と親指で葉を掴み、指を滑らせる。確かに想像以上に柔らかくて、肌触りも良く、食べられそうなくらいだった。
「深大寺は湧水の名所だし、きっとこのモミジも澄んだ水をいっぱい吸って育ってるから、こんなに優しく滑らかなんじゃないかな?」
 僕はモミジの質感をこの手のひらに刷り込ませるように撫で続けながら言った。これが『自然』の質感か。植物に触れたのって、一体どれくらいぶりだろう?日頃から、自然とは最も対極にある実験装置だとか電子機械ばかりに囲まれた研究室で過ごしていると、こんな身近で些細な自然の営みにも気づけない。いつの間にか鈍化していた自分の感
性に歯痒さを覚える同時に、でも一方で、ささやかな何気ない幸せに出逢えたことが嬉しくて、無意識のうちに顔が綻んでいくのを感じた。
パシャっ!…と、その時、突然響いたシャッター音に、反射的にハッと弾かれるように振り返った。彼女はカメラを僕に向けていた。
「な、なんで僕なんかを…」
 羞恥の余り咄嗟にカメラから目線を外す。
「今、すごくイイ顔してたから。まるで緑のモミジみたいにとっても新鮮な笑顔。今日のベストショットだね」
 彼女はおどけたように笑って言った。今まで言われたこともないような照れ臭い言葉を面と向かって言われて動揺していると、彼女は僕の顔の前に自分の手のひらを差し出した。
「ねえ、よく、モミジの手って、赤ちゃんの手にたとえられるでしょ?あれって私は、赤や黄色に紅葉したモミジじゃなくて、緑のモミジの方だって思うんだ。柔らかくて、しなやかで、ピチピチと弾けるような赤ちゃんの手のひらが、緑のモミジのイメージそのものだから。真っ青な空をバックにして、緑の葉っぱが陽に透けてキラキラ輝いて、そのどこまでも透明な純度が、生まれたての赤ちゃんの純真さと同じだなって思うんだよね」
 そんな風にキラキラと語る彼女の瞳こそ、生まれたての赤ちゃんのように、どんな色にも染まっていない透明な濃度を湛えていた。 
僕は手にしていたモミジを1枚ちぎると、電車の中で読んでいた本を鞄から取り出し、読みかけのページに挟んだ。
「しおりがなかったから、ちょうどいい。今日の記念にもらっていこう」
「いいんじゃない?昔から、花泥棒は罪にならないっていうし、モミジも同類ってことで」
 彼女は悪戯めいた微笑を浮かべてカメラを構えると、本に挿したモミジに焦点を合わせ、パシャっと軽やかにシャッターを切った。
 季節が巡り、モミジの緑が色褪せてしまっても、きっと今日の想い出は色褪せない。
 僕は意を決すると大きく深呼吸をし、Yシャツの胸ポケットからケータイを取り出した。
「あの…せっかくだから、君が撮ってくれた僕の写真、これに送ってもらえないかな…?」
 草食系代表みたいな僕が今世紀最初で最後の勇気を振り絞り、背水の陣の覚悟で伝えた。
「じゃあ、赤外線でアドレス交換しましょう」
 にこやかに彼女がジーンズのポケットからケータイを取り出した瞬間、僕は思いっきり飛び跳ねたい衝動に駆られた。それは蕎麦を食べたい衝動よりもはるかに凌駕していた。     
 …ああ、なるほど。深大寺には恋の神様がいるって本当なんだ。しかも、あの狂暴な食欲魔神さえもねじ伏せ、退散させてしまう深大寺の恋の神様の威力って、まさに無敵だ。
 …動き始めたばかりのまだ形なきこの淡い想いが、いつかちゃんとした輪郭を持った『恋』という美しい流線型へと変貌を遂げていったら、失いかけていた研究への情熱も再燃し始め、活路を見出せるような気がした。
 だから…だから、深大寺の恋の神様。願わくば、緑のモミジのようにエネジーが漲るその手のひらで、この恋に進みゆく僕の背中を、どうか力強く後押しして下さい。

星野 有加里(静岡県島田市/女性/教員)

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