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「絵馬よりも、うんといいもの」 著者:山本 洋介

「おれはよ、手の届きそうな星の海が好きなんだ」
 その人は、突然そんなことを言う人だった。
孤高の女戦士みたいな、女盗賊みたいなたくましさを持っていて、「星の海」なんて言葉は、ワイルドな見た目には似合わなかった。
「真由子さんって時々ロマンチストになりますよね、まあ、あたしはそういうとこ好きですけど」
 そう云ったら、隣のベットで寝ている真由子さんは「まあ、おれにもそういう時があんだ」と言って、白い歯を見せて笑った。
 あたしは今年30歳になる。真由子さんはあたしより20は上で、もちろん性別は女性だ。

 調布駅北口で深大寺行きのバスを待っていると、寒さで身体が凍えそうになる。冬ってこんなに寒かったっけ?と思いながら、到着したバスに乗り込む。車内の暖房がむわっと顔にかかって気持ち悪い。
 車内は空いていた。あたしは窓際に座り、冬の曇天を眺めながら、真由子さんと見た小さな窓枠の夜空を思い出していた。ロマンチストな真由子さんは自然といつもより饒舌だった。
「おれはよ、好きなやつがいたんだよ」
「へー、結婚されてたんですか?」
「結婚なんてしねーよ。でも、あたしは奴が好きで、奴はその二百倍くらいあたしを好きだった」
「うわー、それむっちゃノロケですね」
「いや、お前よぉ。そいつは、あっ、孝之って言うんだけどな。とにかく待ち合わせをすると何時間でも待ってんだよ。真夏の炎天下で二時間、冬の寒空の下で三時間。そんなのが当たり前」
「すごい」
「なっ? 今なら考えられないだろ? おれの若いときなんて携帯なかったからよお、待ち合わせなんかも今よりずいぶん不便だったんだけど、でもそれにしたってそんな何時間も待てねえよなあ」
 真由子さんはケラケラ笑っていた。過去のことは聞かないようにしていたし、あたしも自分の過去のことは話さないようにしていた。けど、真由子さんがジャズシンガーで、その孝之さんって人が、熱心なファンだったということだけは話してくれた。
 「昔、元旦に初詣行ったんだ、孝之と。あいつとにかく車が大好きでよ。呼び出せばいつでも迎えに来てくれたんだけど、大晦日のステージを終えたときに、あいつを呼び出したんだ」
 真由子さんはやっぱり白い歯を見せながら、無邪気な子供のように笑っていた。こういうときの真由子さんは時々、天使みたいだと思った。あたしは30年生きてきて、こんな天使みたいな人に、なかなか出会わなかったなと思った。出会っていれば、もっと別の人生があったかもしれない。
 真由子さんは優しすぎたんだ。優しすぎることは罪になることもある。「なぜ、真由子さんはここにいるんですか?」その質問を、何度も何度も呑み込んで、あたしは真由子さんを置いてあそこを出てきた。
 真由子さんの刑期が終わるまでは、あと三年と少しかかるからだ。

バスを降りたあたしは深大寺の本堂に向かった。真由子さんに頼まれた絵馬を探すために。
「絵馬なんてよお、なんかここに来た証明を残すみたいで恥ずかしいだろ? あんなもん書くだけでも恥ずかしいのに、孝之のやつがまたそれに変なこと書くんだ」
 あの日、真由子さんは楽しそうにそう云って、それからすぐ自嘲気味な調子になって、
「わかってんだ。絵馬なんて、何年も置いてないに決まっている。おれも期待してるわけじゃない。だけどよぉ、もしまだ深大寺にあったら、それをお前が拝むのも悪くねえ。見つかれば、きっとお前にいいことがある。ただの直感なんだけどな。だから、おれのためじゃなくて、お前のために、探してきてくれ。おれはお前に、ここを出た後、幸せになって欲しいんだ。お前はまだ若いしな…」
 あの夜、あたしが横を見ると真由子さんは静かに目を閉じて喋っていた。孝之さんとの記憶のピースを一つ一つ確かめるように。

 …でな。おれが寝ぼけた目をこすりながら、深大寺を歩いていると、孝之はおれの手を取って、ぐんぐん先に歩いて行く。なんだよ、なんでそんなに元気なんだよって言ったら、元旦にここに来ると妙にソワソワして、でも楽しいんだ、なんて、子どもみたいなことを言いやがる。孝之は昔からずっと調布市民で、幼い時から、元旦は家族で深大寺に来ていたらしい。
 立ち並ぶ屋台であんす飴と甘酒を買い、無理やりそれを持たされたおれは、こんなに甘いもんばっか買いやがってと悪態つきながら、孝之の後についていった。
孝之は、何も云わずに突然絵馬を買って、おれに見せず何かを書き込んでやがる。
「お前さあ、なんなの?」
「なんなのって?」
「だから、そんなの書いてどうすんだ?」
「真由子ちゃんと結ばれるようにって」
「いや、結ばれないよ、一生」
「ええっ! 一生?」
「うん。だって、おれ結婚する気ねえし」
「うそっ! ウエディングドレスとか着たくないの?」
「ないね。あんなヒラヒラしたもん、絶対着たくもないね」
 孝之は相当ショックだったんだな。あいつ眉毛をゴシゴシ擦ってた。あいつの癖でな、困ったことがあると、いつも眉毛を擦るんだよ。毛が抜けるなら止めろって、おれが笑って注意したら、何を思いついたか後ろを向いて、また急に絵馬を書き始めるんだよ。
 おれが孝之の絵馬を後ろから覗き込むと絵馬にはこう書いてあったんだ……
 って、おいお前、起きてる? おれの話、聞いてる?

 あたしはしっかり聞いていた。
(真由子ちゃんがいつまでも俺を忘れないように)
 だからこそ、そう書いてある絵馬を探した。何度も、何度も探した。手袋を持っていないことを後悔する暇もなく、一つ一つの絵馬を上から下に、下から上に三往復した。無駄だとわかっていながら神主さんにも聞いてみたが、首を振るだけだった。
―あるはずがない。同じ絵馬が何年も置いてあるはずがない。そう自分に言い聞かせても、あたしは自分が思っていたより何倍も落胆していた。
肩を落として調布行きのバスを待ちながら、真由子さんのことを思い出していた。
「…ねえ、真由子さん」
「ん?」
「その孝之さんって人、今頃何してるかな?」
「そうだな、あんときはリーマンだっけど、今はタクシーの運ちゃんでもやってんじゃねえかな。ほんとに、車好きだったからな」
「そのあと、星の海を見に行ったんでしょ?」
「ああ。三時間くらいかかってな、長野の山奥まで連れてかれた」
「きれいだった?」
「…ここよりは、うんとな」
 赤い車体のバスがあたしの前に停まる。
(…ここよりは、うんとな)
 バスに乗ろうとしたら真由子さんの声を思い出して、あたしは泣いてしまった。
生きる、生きていく目標が欲しかった。
希望といっても大げさじゃない。三年間も刑務所にいた三十路の女が、この先、社会で生きて行ってもくじけない希望が。もし絵馬があったなら…絵馬があったなら、あたしは。
バスの車掌さんが不思議そうな顔をしてあたしを見ている。あたしはそれに気がついて、あわてて涙をぬぐった。でも財布を取り出して乗車賃を払おうとしたのに、一万円札しか出てこない。
「大きいのしかないのかい?」
あたしは首を縦に振る。車掌さんは車内を振り返ったが乗客は誰もいなかった。
「こういうとき、他のお客さんがいると助かるんだけどねえ。ちょうど、こっちも札が切れててね」
車掌さんは、困った顔をして眉毛をゴシゴシと擦る。…その瞬間、あたしの目に飛び込んできたのは、車掌さんのネームプレートだった。
「田中孝之」と書いてあるそれを見て、あたしは声を上げそうになる。あたしの知っている「たかゆき」は「孝之」なのだろうか。
車掌さんの顔を正面から見据える。帽子の脇から白髪が見えたが、優しそうな、それでいて温かそうな顔だった。
直感が自信に、自信が確信に変わっていく。
「あっ、…あ、あ、あの!」
 あたしの声は思いっきり裏返る。
「はい?」
「ま、待つの! 待つの得意ですよね!?」
「えっ? それはどういう…」
「あたし、近くのお店でお金崩してきますから、それまで待っててください! 絶対、出発しないでください!」
 あたしはバスを飛び出した。走りながら、思わずスキップをしそうになる。
 真由子さん。絵馬はなかったけど、あたしはここで、絵馬よりもうんと、いいものを見つけたよ。
 だからあの人とあたしで、迎えに行くまではそこで元気に待っててね。

山本 洋介 (東京都調布市/29歳/男性/非常勤講師)

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