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「彼と猫」 著者: T-99

 人生を振り返り、雪子は幸せだったのだろうか、ふと和男は考えた。
 彼は頑固な男だった。しかし、地方銀行の支店長になるほどの仕事熱心な男でもあった。
 春に銀行を退職した彼に残された財産は、平屋建ての古びた自宅と、車検前に廃車を考えている銀色のセダンが一台あるだけだった。  
 妻の雪子は半年前に他界した。息子の達也も独立して今は一緒に住んではいない。特別な趣味もない彼には毎日をどう過ごせばいいかわからず、考えごとをする機会が多くなっていった。

 彼は雪子が亡くなってから、世話をする者がいなくなった庭を、全てコンクリで覆ってしまった。灰色で覆われた場所には物置が置かれている。物置には十センチあまり通風用の隙間が設けられ、そこから物音が聞こえてくることにある日彼は気が付いた。
 つっかけを履き、音のする方に腰を落とし覗いてみると、そこには真っ白な子猫がいた。生後二週間ぐらいの子猫は、小さい声で鳴き、彼が手に取り抱き上げてみると、子猫の鳴き声がいっそう大きくなった。親猫がそばにいるかもしれないと彼は物置の下や、あたりを見渡してみたが親猫の姿はどこにもなかった。動物好きではなかったが、ほっとくわけにもいかず、彼はミルクを与えて様子を見ることにした。梅雨も明けない六月の出来事だった。

 物置の下で見つけた白い子猫は、彼に何度も甘い声ですり寄ってきた。初めのうち彼は、子猫が親猫に見捨てられ可哀想だと思っていた。前足と背中を伸ばし、あくびをする姿を日に何度となく見ていくうちに、彼もしだいに子猫に愛情を感じるようになり、子猫は天からの贈物と考えるようになった。
 彼は子猫の名を「ユキ」に決めた。真白な色と妻雪子の名前にちなんで彼はそう呼ぶことにした。ユキはとてもやんちゃで、家の中をとびまわっては、彼の愛用してきた木製の机や栗色のソファーを何度も噛んだり、ひっかいたりしてすぐにボロボロにした。増えていく傷を見ると、彼は逆に日常に変化や発見をもたらしてくれるユキの行動に楽しみを感じるようになった。

 彼がユキを飼いはじめてから数週間が過ぎた。いつものようにユキは、お気に入りのタンスの上で丸く小さくなっていた。彼は買い物袋を下げて帰ってきた。
「ただいま」
 ユキは嬉しそうに声をあげ彼のもとに飛びついてきた。ユキがタンスから離れた時、一枚の写真が彼の前に落ちてきた。畳の上に落ちた色あせた写真を拾って見ると、それは昔彼が撮ったものだった。彼の妻雪子と息子の達也が並んで立っている。達也は合格祈願の絵馬を指さしいていた。深大寺に達也の高校合格を祈願して、家族ででかけた時のものだった。懐かしく彼が写真を見ているとユキが小さく鳴いた。
「ごめん、お前を忘れたわけではないよ」
 彼が話かけてもユキは怒っているように繰り返し鳴くばかりだった。
「なんだ、写真を撮ってほしいのか? それなら今から深大寺に撮りにいくか?」
 ユキはようやく彼が理解してくれたといわんばかりに彼の左足にすり寄った。
 彼は押入れの中から使っていなかった一眼レフカメラを取だし、地図を広げ深大寺までの道筋を確認すると、買物袋もそのままにポケットに例の写真を大事に入れ、ユキに声を掛けた。
「ユキ、日が沈まないうちにでかけるよ」
 愛車のセダンの助手席にユキをのせると彼はユキに優しく話しかけた。
「シートベルトはしなくていいからね」
 
 深大寺に向かう間、彼は雪子のことを考えていた。雪子は亡くなるまで、彼に文句一つ言ったことのない女だった。風呂に何時に入るといえばその通り沸かしていた。急に会社の同僚がくればもてなす。いろいろわがままを言ってきたが、すべて彼の言う通りにしてき女だった。旅行に連れて行ったこともなければ、物をほしいとねだったこともない。趣味といえば庭の土いじりだけ、その庭も今は冷たいコンクリに覆われている。
 雪子が生きていれば、退職後に熟年離婚も彼にはあったかもしれない。雪子はしたいことをどれだけ我慢して彼につくしてきたのだろうか、彼は考えてはみたものの、もう知る由もなかった。ただすまないという思いだけが何度も彼の心を支配するだけだった。
「妻は私のことを愛していたのだろうか?」

 古い蕎麦屋の並ぶ道をぬけ、バスが止められる広い駐車場の先に古刹深大寺はあった。
平日にもかかわらず多くの人が訪れていた。彼はユキをあらかじめ車に積んでおいたバスケットの中にいれ、緑色のハンカチをそっとユキの体にかけた。
 彼は過去の記憶を思い出しながら、石畳の続く本堂までの道を歩き始めた。歩く間、バスケットの中から、ちょこんと首を出すユキの姿にすれ違う人たちは皆うれしそうに微笑んだ。実際ユキは、彼がびっくりするほどおとなしく、鳴き声ひとつたてなかった。この所の雨で外にでなかったユキにとって、久しぶりの外出だったが、よほどバスケットの中が気持いいのか、本堂に着く頃にはユキは眠りについていた。
 彼は写真の場所をすぐに見つけることができた。本堂の横に沢山の絵馬が並べられている場所が写真に写された場所だった。だるまの絵がかかれた絵馬に、たくさんの人達が願いごとを書いていた。彼は写真を撮りにきたはずだったが、肝心の被写体が眠ったままで、起こすこともかわいそうになりバスケットを抱えたまま本堂に向かった。
 本堂の古い柱や壁に彼は歴史を感じた。軒の先端から光が差し込むのを見て、彼は本堂の屋根を見上げた。夕日に照らしだされて輝く本堂は美しく、彼は心を奪われた。
 やっと目が覚めたユキと一緒にしばらく本堂を眺めることにした。
 彼はカメラを撮るのをやめてしまっていた。この風景は心に留めておくべきものだと彼は感じていた。
「ユキ、写真は今度撮ろうな」
 彼がユキに話しかけるとユキは体を起こし、バスケットから出ようと前足をカゴの端にかけた。彼はユキをバスケットからだしてやると、ユキは夕日の差し込む方向にまっすぐ走り出した。
「ユキだめだ、もどっておいで」
 彼の言葉も届かないのか、ユキは絵馬のある場所に走っていった。彼は慌ててバスケットを地面に置きユキを追いかけた。
 ユキは絵馬の並べられている場所に座っていた。昔、彼が妻と息子を撮った思い出の場所に座って彼を待っていた
「なにしている、写真を撮ってほしいのか?」
 彼は少し呆れ気味にカメラを取り出すと、ファインダー越しにユキを見た。彼は被写体が子猫ということを忘れて、あの写真と同じアングルで写真を撮ろうとしていた。
「ユキは小さいから屈まないといけないな}
 カメラから目線を外すと彼は呟いた。今度は腰を屈めて彼はもう一度カメラを覗き込む。ファインダーの真ん中にユキがいて、たくさんの絵馬がユキの後ろにまるで幾何学模様のように並んでいる。絵馬の言葉が写真に写りこまないように焦点をユキに合わせようとした瞬間、ユキが大きく鳴いて、彼の視線の中から突然いなくなった。オートフォーカスは、ユキから絵馬に機械的に焦点を変えた。消えたユキの替りに絵馬の文字がはっきりと彼の目に飛び込んできた。
『定年後も和男さんと一緒に楽しく暮らせますように 雪子』
 絵馬の文字は四十年間見てきた妻雪子のものだった。彼は絵馬に近づき手に取った。文字の一文字一文字から暖かさが伝わってきた。雪子がどうしてここに来て、この絵馬を残したのかは彼にとってどうでもいいことだった。退職してから今日まで、常に頭の中にあり悩み続けたその答えが絵馬に書かれていた。
「雪子、お前は本当にできた妻だった。ありがとう……。何もしてやれなかった私を許しておくれ」
 こみあげる涙を抑えることができず、人前も気にせず、彼は絵馬を握りしめたままむせび泣いた。
 やわらかいぬくもりが座り込んでいた彼の膝を優しくなでた。彼がかすんだ目で見るとユキが心配そうに彼を見つめていた。
「ユキ、ありがとう」
 彼はユキに感謝の言葉を伝え、ユキを抱きかかえゆっくりと立ち上がった。ユキは体をよせ彼の心臓の鼓動を聞いているかのように目を閉じた。
「ユキ、庭に木を植えてみようか」
 彼はユキに話かけると、これからの人生をどう楽しんでいくかを考え始めた。

T-99 (東京都多摩市)

   - 第7回応募作品