「雨が着くまで」 著者: orie
雨が、静かに降り続いている。
よく冷えたビールをかわいた喉に流し込み、蕎麦味噌を舐める。ぷちぷちとした食感。蕎麦の香りと味噌のコクが、口いっぱいに広がる。旨い。
空になったグラスにビールを注ぎながら、僕は脇の通りに目をやった。
境内に続く夕方の参道は、人もまばらだった。今年の梅雨はなかなかにしつこい。深緑からつたい落ちる雨のしずくをぼんやり眺めていると、うしろで声がした。
「蒸すでしょう、中に入られたらいかがですか」
振り向くと、年配のおかみさんがおしぼりを手に持って立っていた。
「ありがとう。どうぞ、おかまいなく」
そうですか、ではごゆっくり。彼女はにっこり微笑むと、おしぼりを置いて店内に戻っていく。そのちいさな背中に、お元気そうで何よりですと、心の中で会釈する。あの人はきっと、僕のことなど覚えてはいないだろうけど。
ネクタイを緩め、グラスを一息に空けた。雨の深大寺。少し酔ったかもしれない。雨音が心地良かった。そのリズムに合わせて、遠い記憶がゆっくりと浮かびあがってきた。
もう二十年以上前、僕がまだ大学生だったころ。
同じ文芸サークルのひとつ上の先輩に、トワコさんという女性がいた。それはまあ、変わった人だった。いわゆる電話魔である。
当時はまだ携帯電話が一般に普及しておらず、電話といえば家に備え付けられたものしかない時代。逃げも隠れもできないそんな状況下、彼女は早朝だろうが深夜だろうがおかまいなしに僕の部屋に電話をかけてきては、延々と自分の彼氏のことを話すのだった。その男性は幼馴染で、都内の別の大学に通っているという。恋愛の馴れ初め、付き合うまでの経緯、彼氏の容姿、服装、癖、喧嘩の内容、果ては好きなお酒の銘柄まで。会ったこともないその彼氏さんを、僕は四十を越えた今でもありありとイメージすることができる。
内心うんざりしながらも、先輩なので邪険に対応するわけにもいかず、懸命に話を合わせていた。一度聞いたことがある。トワコさん、どうして僕にばかり電話してくるんですか、と。だってあんた、聞き上手なんだもん。褒められているのか利用されているのかわからない返事が返ってきた。言葉を挟む余地がないだけですとは、もちろん言えなかった。
大学が夏季休暇に入ったその日、僕はクーラーもない蒸し暑い下宿で遅めの昼食を作っていた。地方から出てきた貧乏学生にとって、毎日の自炊は欠かせなかった。
電話が鳴った。無視してやろうかと思ったが、僕はコンロを切って素直に受話器を取る。
案の定、トワコさんだった。
「雨だね」
「雨ですか」
窓に目をやる。よく晴れていた。梅雨の晴れ間だ。雨が降りそうな気配はない。
「そっちは降ってるんですか」
「降ってるよ」
どういうことだろう。トワコさんもひとり暮らしで、アパートはここからふた駅先の高田馬場だったはずだ。不審に思う僕をよそに、つっけんどんな声が響く。
「あんた今何してんの?」
「メシ作ってました」
「何?」
「肉なしチャーハンですけど」
あんたねえ、というあきれ声。彼女はそこから、チャーハン作成における肉類ないし魚介類の味覚・栄養的観点からの重要性と、未発達な味覚を形成する環境要因についてひとしきり講釈を垂れた。まったくもって余計なお世話である。
いい加減お腹も空いてきた僕は、早めに切り上げようと自ら話を振ってみる。
「で、彼氏さんとはどうなんですか」
すべての話は前振りに過ぎない。トワコさんは、要はこれを話したいのだ。
「それよりさ」
…それより?拍子抜けする僕。いつもならここから機関銃のような彼氏語りが始まるはずなのに。
「それよりそっち、まだ降ってないの?」
僕はもう一度、律儀に窓の外を確認した。さっきより少し雲がある程度で、晴天に変わりはない。降ってはいないと答えると、トワコさんはこう言った。
「じゃあ、たまにはあんたが話してよ、何でもいいからさ。そっちに、雨が着くまで」
「雨が…着く?どういう意味です?ていうかトワコさん、どこにいるんですか今」
「深大寺」
行ったことはなかったが、なぜか知っていた。何度となく聞かされた、トワコさんと彼氏さんの最初のデートの場所だったからだ。
「…確か調布ですよね。なんでまた…」
「いいから。ほれ、何か喋りなって」
「いや、いきなり話せって言われても…。それにどう見ても降らないですよ、この空」
「降るわよ。この雨雲はそっちに行く。つきあってよ、雨宿りに」
「傘、ないんですか」
「うん」
この電話賃で、傘を買えばいいのに。そう言おうとしたが、止した。トワコさんの性格だ。言い出したら聞かないのは明白だった。
僕は静かにあきらめて、終わりの知れないひとり語りを始めた。好きな本のこと。最近見た映画のこと。音楽。行きたい国。気に留めなければ流れていってしまいそうな、とりとめもない話ばかりだった。僕が一方的に話をしたのは、後にも先にもその間だけだったように思う。そのときのトワコさんは、ほんとうにほんとうに、無いこと聞き上手だった。半時間後、トワコさんの予言通りに雨がこちらに着いたのを、ちょっと残念に思うくらいに。
張り出したねずみ色の雲から落ちてきたその雨のことを告げると、彼女は「そっか。長々ありがとね」とつぶやいた。
電話が切れたあと、僕はすっかり冷めてしまった肉なしのチャーハンを食べた。
外で、雨脚が強くなっていた。食器を片づけ、少し迷ってから、僕は部屋を飛び出した。
バスを降りると、滝の中だった。深大寺の参道が雨に白く煙っている。
傘がまったく意味を成さない豪雨。小脇にもう一本のビニル傘を抱え、僕は駆けだした。
さすがに誰ひとりすれ違わなかった。電話ボックス、軒を連ねる土産物屋、蕎麦屋。トワコさんの影を探すが、見当たらない。やっぱり、もう帰ってしまったのか。水を吸ったTシャツが体にへばりつく。何をやってるんだろう、僕は。ものすごい勢いで水が流れる石畳を蹴り、境内にさしかかった。見上げるばかりの大きさの、本堂の伽藍。その前に、傘もささずに女が立っていた。靴がじゃぶじゃぶと音をたてる。近づいて、呼びかけた。
「トワコさんっ」
どしゃ降りの中、彼女がゆっくり振り向いた。
「なんだ。来たんだ」
「…何やってるんですか。いったい」
僕が傘をさしかけると、トワコさんは、泣き笑いの表情を浮かべた。
「文句を言ってたの。縁結びの嘘つきって」
そして、こう続けた。
「お蕎麦、食べてこうか」
ずぶ濡れのまま、僕たちはいちばん近くにある蕎麦屋に入った。七月だというのに、体が冷え切っていた。店のおかみさんが貸してくれたタオルがありがたかった。互いに言葉を交わさず、出てきた蕎麦を黙々とすすった。帰りのバスの中でも、会話はなかった。
夏休みに入って、電話はぱたりと鳴らなくなった。それから少し経ち、涼しい風が吹き始めたころ、トワコさんが彼氏さんと別れたとサークルの友人から聞いた。
携帯電話が鳴った。電話の着信音はいつだって強引だ。無視してやろうかと思ったが、僕は素直に通話ボタンを押す。
「ごめんごめん、もしかしてかなり待たせてる?」
「いや、全然大丈夫」
「いつもの店でいいんだよね?」
「うん、そうだよ」
「了解。急ぎまっす」
一方的に電話が切れた。すでにビールが二本空いたことは言わなかった。
見れば、雨はもうあがっていた。うっすらと夕陽がさしはじめている。
あの日、トワコさんはどんな思いで僕に電話をかけてきたのだろうか。
幸せないつもどおりの日常を、雨が着くまでの間、少しでもとどめたかったのだろうか。
けれどそれは、もう知らなくていいことのようにも思えた。少なくとも、今の僕には。
もうすぐ、妻がこの店に駆け込んでくるだろう。そしてその姉さん女房はきっと、今日あったことを機関銃のように僕に話すのだ。
雨あがりの風が、頬を撫でていく。軒先の風鈴が、ちりんと鳴った。もう、夏が来るんだな。
僕は大きな声で、ビールをもう一本と頼んだ。
orie(大阪府大阪市)