<第7回公募・選外作品紹介>「初恋のひと」 著者:上野 澄美
6月のある晴れた日曜日。梅雨の時期には珍しく雲一つない青空が広がり、新緑が映える気持ちのよい天気に誘われた観光客で賑わう深大寺の境内に沙希はいた。
「縁結びとか、そういうの信じないタイプだと思ってた。」
同行していた俊文は、熱心に手を合わせる沙希が顔を上げたタイミングで呟いた。
「ちょっと。神様の前でそんな事言わないでよ。」
少し眉間にシワを寄せ、ふて腐れた表情で俊文を見上げ言い返した。
「ここはね、私にとって特別な場所なの。」
不機嫌な顔を取り払う様に言いつつ、踵を返し授与所へ向かう。「ここでお願いしたから、俊文に会えたのかも知れないでしょ。」
歩きながらそう付け加えて、お金を納め絵馬とお守りを受け取る。
沙希と俊文は、月末の大安に結婚式を控えている。俊文はここを訪れるのは初めてだが沙希は2回目で、過去に別の男性と深大寺を訪れていた。
その時も、今日の様な五月晴れの気持ちの良い天気の中、沙希は彼と2人で参拝に訪れていた。
『何をお願いしてるの?』
合わせた指先が額につくような格好でいつになく真剣な表情で祈願する彼に向かい、沙希は無邪気に尋ねる。祈願の途中で声を掛けられた彼はそのままの姿勢でちょっと苦笑いをしたあと、ゆっくり目を開き、どこか困った様に見える笑顔で答えた。
『沙希に、素敵な旦那さんが見つかって、幸せなお嫁さんになれますようにって。』
その答えに沙希は不機嫌になり彼の手をぎゅっ、と握り
『このままじゃいけないの?』
と再び尋ねた。すると彼は益々困ったような表情を浮かべ沙希の瞳を覗き込み
『そう言ってくれる気持ちだけで嬉しいよ』と、答えにならない返事をしたのだった。
沙希はこの日の事をよく覚えていた。初めて自分が好きになった男性、そして初めて自分を好きになってくれたこの男性と過ごした長い月日はどれも沙希にとって大事な思い出だが、この日初めて『ずっと一緒にはいられないのかもしれない』と感じた日だったからだ。
沙希は、絵馬を手に取り、備え付けの黒いマジックでその男性の名前と願い事を書きはじめた。
『藤田清さんに素敵なお嫁さんが見付かりますように』
真剣な表情で書き込む沙希の絵馬を後ろから覗きこみ
「普通、ここでフルネームを書くかな。」
「そっちの方が神様もわかりやすいでしょ。」
「いや、そうじゃなくてさぁ…。」
今度は俊文がムッと不機嫌な表情を浮かべ、自身も絵馬に願いを書き込む。
『沙希が清さんよりも俺の事を一番好きになってくれますように!』
半ば八つ当たりの様に絵馬へ書いた俊文を見て、沙希は思わず微笑みを浮かべる。
「なに言ってんの!ちゃんと一番好きだよ。でなきゃ俊文と結婚決める訳ないでしょ。」
と、遂に堪え切れずフフフ、と笑い声が漏れてしまう。そんな沙希の様子を見て更に不服そうな表情を浮かべ、俊文は2つの絵馬を持って一人黙って奉納にいってしまった。そんな俊文の背中を見つめながら 『一番好き』と即座に言い切れた自分の気持ちを静かに振り返りながら先程買ったお守りをそっと握りしめた。
沙希は初恋の男性と居る時はいつでも、『私は【彼女】の次なんだ』と感じていた。彼の中では【彼女】が1番で、いつも2人の思い出話を聞かされていた。『優しくて』『明るい』『どんな人からも好かれる』『とても魅力に溢れた』女性だと。その話を聞く度に、沙希の胸の奥はモヤモヤと変な感情に捕われた。『私とは全然違うタイプの人なんだね。』と言うと
『何言ってるんだ、とても良く似ているよ。』と嬉しそうに彼は答えたが、その笑顔を見る度に『その女性には敵わないのだ』と改めて思い知らされるようで憂鬱になった。が、それと同時に『2番目』のポジションは私のものだ、と強く感じるようになり、そのうちに、それが自然で1番幸せな形なのかも知れないと思うようになっていた 。
長い付き合いの中では、お互いの距離感が掴めず言い合う事が殆どの時期もあった。顔を合わせては些細な事から口喧嘩になる事も日常茶飯事となっていた頃、彼はある事を口にした。
『会社に結婚を考えたい人がいる。』
その一言は沙希にとっては青天の霹靂で、今までの【彼女】が1番で私が2番目という不動の幸せな形から、何もかも変わってしまうのではないか、私は何番目になるのだろう。と、どうしようもない不安に駆られ、なによりも新しく女性に好意を寄せる彼に対し、酷く不誠実な人だと感じ、気が付いたら
『そんなの嫌。身勝手すぎるよ。』
と声を荒げて反論をしていた。しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと俯いて
『そうだよな。ごめんな。』
と、消え入りそうな小さな声で呟いた。初めて見る、その頼りなく寂しげな横顔を見て、思わず『ごめんね』と言いそうになったけれど、その一言は未だに飲み込んだまま、結局そのままその話はなくなり、再び話題にあがる事はなかった。
俊文との結婚式を翌日に控えた土曜日。沙希は彼を訪ねる準備をしていた。バックには先日深大寺で頂いたあのお守りが入っている。
「俺も行っちゃダメなの?」
俊文は、浮き足立って身支度を整えている沙希に向かい声を掛ける。
「独身最後の日位、一人で自由にさせてよ」
からかうように答えると、ハイハイ。と、呆れ果てたような答えが返ってくる。
「ちゃんと俺の所へ帰ってこいよ!」
今度は俊文がからかうように投げかける。ハイハーイ、とわざと軽い返事をして沙希は笑顔で結婚の為に構えた新居を出発した。
最寄駅から彼の住む家までの通い慣れた道を、いつもより少し遅い足取りで歩く。駅前の賑やかな大通にある商店街から一本外れると、それまでの喧騒と打って変わり閑静な住宅街が迷路の様に続く。何本目かの小道の突き当たり、庭木が茂るごくありふれた一軒家が彼の家だ。門の横で例年通り咲き誇る淡いピンク色の紫陽花が沙希を出迎えた。少しザワつく胸を手の平で軽く押さえ、平静を装いながら少し錆の付いた門を開けると、キィッと小さな高い音が辺りに拡がる。鍵は持っているが、インターフォンに指をかけた。その時ふと、玄関横に拡がる庭の奥に目をやると、庭木の手入れをする彼の姿が見えた。その背中は心なしか以前見た時よりも少し小さくなった感じがした。と同時に一瞬で胸がきゅうっ、と締め付けられ、明日の結婚式を辞めてしまおうか、という考えが頭をよぎる。インターフォンに掛けた指を降ろし、お守りの入ったハンドバックを握り直す。深呼吸をするように大きく息を吸い込み、先ほどの気持ちを振り切るように大きな声で、彼を呼んだ。
「お父さん!」
彼がゆっくりと振り返り、そしていつもの様に困った様にみえる笑顔で笑い掛ける。
「明日嫁入りの娘がこんな所来てどうした。」
ハンドバックからお守りが入った白い小さな紙袋を取りだし、顔の横に掲げた。
「渡したいものがあったの。」
続けて父の好きな和菓子店の紙袋を差し出し
「とりあえず、お茶にしよ。」
父をリビングの椅子に座らせ、沙希は勝手知ったる実家の台所でテキパキとお茶の準備を始めるが、沙希の荷物が無くなり、父1人が住むこの家は以前と比べガランとしていてどこか違う家の様な感じがする。これからも父がこのガランとした家で一人、暮らしていくのかと考えると、沙希が高校生の頃に父が話した『結婚を考えたい』との一言に『身勝手だ』と言ってしまった自分の方が身勝手だったんじゃないか、と思うようになっていた。
「あの時はごめんね。」
当時、飲み込んでしまったその一言をやっと声に出して伝えた。
「…なんの事だ?」 父は訝しげな顔をして聞き返すが
「…さあ。」
沙希は茶葉を準備する振りをして、下を向きやり過ごす。 そんな沙希を見て父は腑に落ちない様子で、持ってきた白い小さな紙袋を開けた。中から出てきた「縁結び」と書かれた小さなお守りをみて、父は少し笑った。
「お許しが出たから、今からでも新しい恋を見つけられるように頑張るかな。」
と呟いた後、リビングの向かいにある和室の奥に飾られた写真へ目をやると
「でもやっぱり…母さん以上の良い女性が見つかるかな」
と写真に語りかけるように続けた。父は、沙希が物心つく前に病気で亡くなった母の話を、相変わらず照れ臭そうに話す。その姿に幼い沙希は嫉妬をしたものだった。
「見つけてよ。それでもっと幸せになって。深大寺でお願いしてきたから効果絶大だよ。」
沙希はお茶を入れる手を休め、父の方へ向き直り胸を張って言った。
「お父さんが、前にお願いしてくれたから、今私は俊文と出会えて幸せな花嫁さんになれるんだよ。」
「…覚えてたのか。」
沙希が小学生の頃の深大寺での出来事に、父は驚きで一瞬目を見開いた後、すぐに困ったように見える顔で微笑んだ。
お父さんは気付いてるかな。その笑顔と似ていることがキッカケで俊文を好きになった事。
ヤカンがシュンシュンと音を立てお湯が沸いた合図を告げる中、小さな声で呟いた沙希のささやかな告白は初恋のひとの耳に届いただろうか。
上野 澄美(東京都杉並区 /27歳/女性)