「シソの天ぷら」著者:木村恵
恋人の第一印象は「シソの天ぷらをおいしそうに食べる人」だった。
恋人とは街コンで出会った。初めて会う人ばかりで緊張しているわたしとは対照的に、恋人は貸切られた居酒屋の隅で黙々とシソの天ぷらを食べていた。シソも天ぷらにできることを知らなかった私は、「草を揚げて食べている人がいる」と衝撃を受けた。
その後何回か連絡を取り、何度目かのデートの帰り道に告白された時でさえ、私はひっそり心の中で恋人を「シソの天ぷらの人」と呼んでいた。
私たちはよく恋人の家で過ごした。恋人はこだわりの多い人間だ。朝はコーヒー豆を煎る所から始まる。部屋は観葉植物に彩られ、台所には見たこともない調味料が並ぶ。毎晩手の込んだ料理を作ってくれた。もちろんシソの天ぷらだって作る。
狭いアパートの狭いキッチンで天ぷらを揚げるその後姿が大好きだった。華奢な背中をさらに小さくして台所に収まる、その姿。隣に設置している洗濯機の蓋は、揚げた具材の置き場にするため閉じられていた。冷蔵庫は具材が詰まっていて、勢いよく閉じなければドアが閉まらなかった。コツが必要なんだよ、と恋人はなぜか誇らしげに冷蔵庫の閉め方をよく実演してくれた。
いつもおなかいっぱい食べた。よく寝た。
時間があれば近くの公園でバトミントンをした。風が強く吹く中でどこまであきらめずにシャトルを追えるかが勝敗の分かれ目だった。
幸せだった。
とても幸せだった。
残業をして自分の全力をかけて仕上げた成果物をこき下ろされたときも。
人前で怒鳴られた時も。憧れていた上司が自分を全く評価していないと知った時も。
手塩にかけて育てた後輩に軽んじられていると気づいた時も。
他人にとって自分がどれだけとるに足らない人間かを毎日思い知らされていた。そんな日々の中で、恋人だけはいつだって全力で愛してくれた。
しかし、道はもう交わらないと気づいてしまった。
恋人には学生からの夢があった。その夢には海外に行って勉強をする必要があった。
恋人の夢は知っていたが、何故かずっと恋人と暮らしていくものだと思っていた。ここで。生まれ育った国で。友達とすぐ会える環境で、勝手知ったる言葉を使って、馴染んだ慣習に則って。
恋人から近々海外へ行くと告げられた後も、私の選択肢に「一緒に海外へ行く」は存在しなかった。そうして知った。大人になって好きな人といるためには恋愛感情の有無の他にも他に沢山クリアしなければいけない条件が存在するのだと。
私と恋人はその条件をクリアできなかった。
だから話し合って決めた。来世で幸せになろうと。
揉めはしなかった。お互い、自分自身が一番大事であることを知っていたから。私も恋人も、相手を無理やり己の夢に参加させることを望まなかった。
寝転がりながらアイスを食べ、手をつなぎながら「残念だねえ」、「悲しいね」と静かに涙を流した。
話し合った日はいつも通りよく寝ておなかいっぱい食べた。体内から出て行った涙を補うかのように。
たくさん笑った。たくさん笑って、すこし泣いた。
恋人は、最後に行きたいところがあるんだと告げた。私は場所を聞かずに行こう、と言った。
いつも家で過ごした私たちにしては珍しく、少し時間をかけてお洒落をしてでかけた。連れられた場所は緑豊かな寺だった。
「深大寺?」
「そう。ここのシソの天ぷらがすごくおいしいんだよ」
まさかここで第一印象であるシソの天ぷらが出てくるとは思わなかった。恋人は数件ある蕎麦屋のうち、縁側のある店に入った。縁側のテーブル席に座ると、目の前に池が広がる。青々と茂った緑と池のコントラストが目に優しい。
「風情があるね」
「良い所でしょ。しかもここはね、おいしい天ぷらを出す店があるだけじゃないの」
恋人は目を細めて私を見た。
「何年か前、なんか無性に寂しくなる時期があってさ。縁結びに由来があるっていうからここに来てお願いしたの。『恋人ができますように』って。そしたら翌日の街コンで、独りで黙々とおでんを食べるあなたに出会ったわけ」
そのせいでしばらく心の中で「おでんの人」って呼んいでたよ。恋人は既視感のある白状をした。
「嘘」
「怒った?」。
「実はなんと驚くことに、私もあなたのことしばらく『シソの天ぷらの人』って呼んでた」
ささいな偶然にひとしきり二人で笑い、私たちは天ぷらと蕎麦を食べた。さらにおでんも食べた。最後まで食べてばかりだね私たち、と笑いあう。
腹ごなしに門前街を散歩する。私たちが訪れた店の他にも飲食店が軒を連ねていて、通りは人でにぎわっていた。
「でもなんでシソ?草じゃん。他においしい天ぷら沢山あるのに」
「シソのおいしさが分からないなんて、まだまだ子供だね」
「そこの野草揚げて食べても違いが分からなかったりして」
「ばかにしてるな?」
ふと楽焼の絵付けができる店を見つけた。
恋人は家具一つ一つにこだわりを持つ人だ。ならば自分で柄を描くことのできる体験も好きだろうと恋人の注意を誘う。
予想通り恋人は絵付けに対して興味を示した。「本当だすごい」じっと店の奥をうかがう。しかしややあって「……でもまた今度にしようかな」と目線をそらした。
物を残さないようにしているのか、と気づく。
努めて明るく返事をした。
「そうだね、また来世」
「また来世」
おまじないを繰り返す。今度生まれ変わるときはずっと一緒に居られる環境で出会うのだ。その時はきっと、二人で絵付けをするかもしれない。お揃いのデザインをした皿に思い思いの柄を残すだろう。
だから、たいしたことない。それまでのしばしの別れだ。どうってことない。
口数が少なくなりながらも、境内へと向かった。
人がたくさんいるにも関わらず空気は静かで冷たく漂っている。
二人で手をつないで歩く。汗でしっとりとしたお互いの手。自然と遅くなる歩み。
賽銭箱の前に立ってお金を投げ入れ、願う。
恋人は何を願うだろう。海外渡航が成功しますように、かな。せっかく縁結びに由来がある寺に来たのだから、海外での人間関係についてかもしれない。
また来世でね。おまじないのように心の中で繰り返す。来世を本当に信じているかは自分でもわからない。大事なのは自分自身と恋人がなるべく傷つかないように前へ進めること。そしてこの決断を後悔しないこと。
だから私は願った。
どうか、どうかあの人が特別な誰かと出会えますように。私以外の誰かとバトミントンを楽しんで、私以外の誰かに手の込んだコーヒーを淹れて幸せな時間を過ごせますように。
そして海外でも美味しいシソの天ぷらに出会えますように。
木村恵(神奈川県横浜市/27歳/女性/会社員)