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「好き、だったひと」著者:松峰みり

夏の盛り。何をしていなくても、毛穴から汗が吹き出してくるほどに暑い。
野川周辺の住宅街は騒音が少なく、澄んだ水の流れる音が耳に届く。住んでいる地域の川はもっと汚く濁った色をしているから、おなじ東京でもずいぶんな違いだなと思った。
けれど水音も遊歩道の草木の揺れも、この酷暑では少しばかりの気休めにしかならない。
「深大寺、久々だなあ。毎年みんなで行ったよねー」
「……俺も、卒業してから来るのは初めてっす」
 俺を灼熱の下に連れ出した本人は、涼しげにスカートを揺らして隣を歩く。俺はそれについていけるように、袖で何度も垂れてくる汗を拭いながら足を動かした。
「はじめてなんだよね! 深大寺でそば食べるの」
「ああ……そうっすね。部で行った時は、どこの店にも入れなかったからなあ」
 深大寺を訪れるのは久しぶりだ。俺が所属していた吹奏楽部では、年二回部員みんなで深大寺にお参りに来るのが恒例だった。しかし、その時は店に入ることは許されなかったから、こうして自由に参拝できるのは今回が初めてだった。
「藤枝に会うのも久々だよね。高枝の卒業以来かも」
「……鳴海先輩も元気そうでよかったっす」
 隣を歩く鳴海先輩は、「なんだそりゃ」と俺のおかしな返答にケラケラと笑った。
「どう? はじめて外から後輩たちを見る感覚は」
「いやぁ、みんな輝いて見えますよ。自分が去年まであの中にいたなんて思えないくらい」
 八月。吹奏楽部はコンクール予選に向けて大詰めの時期だ。遊びも宿題も忘れて、朝から晩まで練習漬けの毎日。そんな日々を、去年まで自分も送っていたはずだった。
「まさか鳴海先輩も高校に遊びに来てるなんて知らなかった」
俺が今日、高校を訪れたのは気まぐれだった。ちょうど予定がなかったから、後輩の面倒を見にいってやるかと久しぶりに母校に足を踏み入れた。適当な差し入れを手に教室を訪れると、鳴海先輩がトランペットパートの後輩たちと談笑しているところだった。お互いびっくりして見合ったが、後輩たちは俺たちふたりが来たことに喜んだ。
後輩と話すのは楽しかったが、午後からの合奏が始まってしまえば俺たちのやることはない。放り出された俺たちは、近くの深大寺にそばでも食べに行こうという話になった。
「藤枝がもう少し来るのが早ければ、ふたりで練習見てあげられたのに」
 鳴海先輩はすこし意地悪げに俺の顔を見た。人工的な茶髪に太陽の光が反射してまぶしい。俺は思わず目を細めて、鳴海先輩から目をそらした。
「いやいや。先輩がいるのに俺の出番なんてないっすよ」
 その言葉は皮肉でも謙遜でもない。俺がかつて唯一敵わなかったのが鳴海先輩だ。ソロを吹くのも、主旋律のファーストセクションも、いつもふたりで争っていつも俺が負けた。
「俺は最後まで先輩に勝てなかったですから」
「何言ってんの。今はもう藤枝の方が上手いでしょ」
 鳴海先輩はそう言って笑ったが、先輩の奏でるトランペットは聴くたびに魅了された。まっすぐ力強く華がありながら、やわらかさもある音色。緊張に包まれた空気の中に鳴海先輩のソロが響くのを、俺は隣で聴くのが好きだった。
 がんばる後輩たちの姿を見たせいか、自分が現役だった頃の記憶が蘇る。
「……俺、あいつら見ててちょっと寂しいって思っちゃったんですよね」
「寂しい?」
「数ヶ月前まで、俺もあの中にいたはずなのに、なんかもうあそこは俺の居場所じゃないんだな〜みたいな……」
 川沿いから離れて大通りを渡ると、周りの雰囲気が少し変わる。昔ながらの建物が増えてきて、小山のような緑が見えてきた。コンクリートの照り返しの分、暑さは増す。
「週七で練習してた時はもっと自由に遊べる時間がほしいって思ってたのに、こうして自由になってみると、あそこに戻りたいなって思うっていうか」
 俺はそう言いながら、悟られないように彼女の横顔を見た。ゆるく巻かれた茶色の髪も、淡くオレンジに染まった目元も、耳に下がるピアスも、あの頃からの変化を物語る。
校則に従ってひとつに髪を結び、背筋を伸ばしてトランペットを構える鳴海先輩の姿は、もう過去のものだ。
「……先輩はもう楽器続けてないんでしたっけ」
「うん」
「もったいねー。絶対続けたほうがいいのに」
 その言葉は本心からだった。眩しいほどの光を浴びてホールの中心で音を奏でる鳴海先輩をもう一度見たい。……できることなら自分の隣で、と願う気持ちがずっとあるのだ。
 しかしそれは先輩に届かなかったらしく、「うーん」と首を傾げた。
「わたし、やりきって満足しちゃったんだよね。わたしが高三の時のコンクールも成績良かったし。だから、綺麗な思い出として残しておいた方がいいのかなぁなんて思ってさ」
 鳴海先輩は遠くの方を見ながら、「それに」とさらに言葉を続けた。
「今は今で、楽しいこともあるから」
 鳴海先輩は耳のピアスを指で弄りながら、嬉しそうな、はたまた愛おしそうな表情を浮かべた。それを見た瞬間、興奮していた頭の中がビタリと止まった。
頭が冷えてしまい返事が滞ってしまう。不自然な間がふたりの間に流れた。
「……藤枝は続けてるんだっけ?」
「……まあ、大学のオーケストラ部で。俺たちの代は先輩たちの時の成績を超せなかったから、不完全燃焼だったって言うか。それで未練がましくやってるって感じっすね……」
 本当は、鳴海先輩が楽器をやめたことが悔しかった。俺はトランペットを吹く鳴海先輩の横顔が好きだった。俺が憧れた、好きだった先輩の姿は、先輩自身によって奪われた。
先輩はひとり勝手に満足したせいで、俺の好きな先輩の姿はもう見ることができない。
先輩が大学で何をしているのかは知らない。先輩の手が優しく触れるピアス。もしかしたら、誰か付き合っている人がいるのかもしれない。その人から贈られたのかもしれない。
──でも、俺にそれを訊く勇気はなかった。傷つくくらいなら何も知らない方がマシだ。
 先輩が部活生活を綺麗な思い出として箱にしまうなら、俺のこの気持ちも同じように綺麗なまましまった方が良いと思うのだ。
「──わたしは、逆に藤枝がうらやましいかな」
 しばらく沈黙が続いたが、鳴海先輩が一言そう呟いた。
「わたしは満足して燃え尽きたまま、熱意を取り戻せないんだと思う。藤枝たちがわたしたちの成績を超えられなかったとか、藤枝自身が自分に納得がいってなかったとか……。そういう少しの不満がある方が、きっと続けていくモチベーションになるんだろうな」
 先輩は歯を見せて笑った。お互いの目が合って、俺が先輩を盗み見していたことがバレてしまう。慌てて目をそらそうとした俺を、先輩のまっすぐな視線は逃さなかった。
「だから藤枝はもっと上手くなると思う。わたし、藤枝の演奏好きだからさ。応援してる」
 鳴海先輩の顔がかつての先輩の姿にリンクして、目の奥が痛んだような気がした。
 音楽が繋いでいた鳴海先輩と俺の縁は、今後少しずつ薄れていってしまうのだろう。それでも「先輩と後輩」として、この繋がりをできるだけ長く持ち続けたいと、そう思った。
「……先輩、オケの定期演奏会呼んだら来てくれます?」
「いいよいいよ。全然行く。あ、でもあんまり長い曲は寝ちゃうかも」
 先輩は嬉しそうに声を上げた。俺は誘いを受けてもらったことに満足して、やっぱり自分の気持ちは胸の奥にしまっておくことに決めた。
 門を潜ると、この暑さだというのに多くの人が歩いているのが見えた。参拝客の中には若いカップルの姿もちらほらとある。俺たちも周りからそう見えるのだろうか。その程度の妄想をするくらいは許されるだろうか。なんて考えながら、奥へ進んでいく。
 風鈴の音を聴きながら俺たちは立ち並ぶそば屋を見て回り、大きな池の側の店に入った。
「あーどうしよう。結構お腹空いたんだよね。何にする?」
 券売機の前で鳴海先輩がはしゃいだ声を上げる。俺も深大寺での初めての体験を鳴海先輩とできることに、静かに興奮していた。
「……やっぱ、暑いからざるそばがいいです」
「じゃあ、わたしも」
 先輩がボタンを押し、ピッという音とともに二枚の同じ券が受け取り口に落ちてきた。

松峰 みり(東京都)