「アフルアフル・サラサラ」著者:匿名
「殺してやるわ……」彼女がふるえる両手で握りしめた箸の先を深刻そうにニラみつけた。「殺してやる。殺してやるのよ。そうしてわたしも死ぬの……」
相手は蕎麦をズルズルすするのに気をとられ、返事もよこさないから、殺してやる殺してやる、と連呼するうち、はや食い終わったか、ふう、と満足そうな赤ら顔を上げたところを、ねえ、聞こえたかしら、殺してやるのよ、ドンッとテーブルを打って念を押す。
「ええ、まあ、お気持ちはわかりますがね――」すっかりくつろいだようすの相手は、爪楊枝をつかいながら蕎麦湯を飲み飲み、「しかし、話を殺すだのとそんなふうにもっていっちゃいけません。とりあえずお食べなさいな。ほらそんなに表面が乾いちゃ、お蕎麦が気の毒だ」と、いよいよ激しく軒をたたく音に引かれるように窓の外をのぞいた。「おお、降る降る、こりゃしばらくやみそうもありませんな」
この場合、無邪気な天気の話題もうかつである。彼女の目が怖いくらいに据わっていた。「フルフル?それはわたしへのアテツケかしら。ええ振られましたとも。ちきしょうめ」
ところが相手も平然たるもの、彼女の剣幕に微塵もひるむところなし。鈍感なのか傑物なのか判然としない。「そう卑屈になっちゃいけません。そもそも恋が楽しいばかりと考えるのが心得違いです。そりゃあ燃え上がってるうちは楽しいでしょうよ。けれど冷めてしまえばじつにツマらない、破れてしまえば苦しくて憎らしくもなる、なにも恋ばかりじゃありませんでしょ。人生とはそういうものじゃありませんか」と分別顔でのたまうものだから、せっかく彼女が蕎麦へ箸をつけかけたのに、それが空中でピタと止まって、
「あなたにわたしの人生のなにがわかるのかしら」と恐ろしい形相でスゴみを利かす。
「なに、わたしにわかるわからないの話じゃありません。一般論ですよ。それにあなた、向こうには妻子があったというじゃありませんか。わたしは不倫についてとやかく批評はしませんがね、だれかしら不幸になるのはわかりきってた話でしょう。ま、お蕎麦をどうぞ」とあくまで気楽な調子に彼女もイラ立って、「それこそ一般論よ。そしてお説のとおり、わたしが不幸になったのよ」とやけくそにズルズル、ツユもろともにすすりあげた。
「しかし気を落とすことはありません。得てして人は恋に迷うものです。慰めじゃありませんが、わたしに言わせりゃ迷わぬ恋なんていささかの価値もありませんよ。古来、人はくるおしく迷うほどの恋をして艶なる歌が詠まれ、雅なる物語がつむがれてきた。恋愛はあらゆる創造の源泉じゃありませんか。そのうち新しい恋もはじまりましょうよ」
「もうまっぴら。わたしの恋はそんなふうに美しくなんてなかったの」と憎らしげに蕎麦を噛みちぎる彼女の口元を眺めながら、ウンウンと仔細らしくうなずいて、「だからといって殺すのどうのは穏やかでない。もっとも痴情のもつれからの殺人は、遠くギリシャ・ローマの時代はもちろん、はるかメソポタミア、エジプトの往古から繰り返されてきたのも事実でしょう。幾千万年と人間は恋をして、殺し殺されてもきたんです。わたしのみるところ、その数、戦争で死んだ人と同数ですな」とわけ知り顔でニヤリと笑う。
「なんて悲しい人間の宿業かしら……」彼女は身ぶるいするように肩をすぼめて、「はァ、愚かなわたし。遊ばれてもいい、かれと一緒にいられるなら、なんてお願いしたのがいけなかったのよ。だってこのお寺、深大寺といえば恋が叶うというのだから、お願いしてみればハイこのとおり。ほんとうに遊ばれるだけ遊ばれて捨てられちゃった。願ったり叶ったりとはこのことよ。これが恋の成就といえるのかしら」とため息をつく。
「そりゃ成就する恋もあれば、しない恋もあるんです。恋愛は共鳴力ですから、それが相互において合致すればめでたく成就するまでです。あまり他をアテにしちゃいけません」
「ずいぶんあたりまえなことをおっしゃるわね」
「世の中の真相なんてすべてそんなもんです。あたりまえの一般論とてあなどれません。だけども成就するしないは、恋をすることと本来的にまったく無関係です。そりゃ成就すりゃ結構ですが、しなくたって恋は恋ですから、その事実のみ信じるべきです。この人間の情緒は理屈じゃ説明できません。恋情を発するところの感激。そればかりが恋の恵みです。成就なんて考えるにおよびません」ともっともらしい訓戒をたれて蕎麦湯を飲み干す。
「けっきょく不倫がいけなかったのよ。人のモノを奪おうなんて気を起こしたのがそもそも間違いだったわ。自業自得ね。反省してます。ただ言わせて。あのときはああなるよりどうしようもなかったの。そう理屈じゃないの。でも、それでバチが当たったのね」
「そんなのは知りません。倫理〝感〟なんてのは時代の皮相でどうにも解釈されますから、懲罰も断罪も代償も教訓もありえようがない。不倫でも純愛でも片想いでも、キズつく恋もキズつける恋も、わたしにはどうだっていいのです。恋をしたという事実しか信じません。人あるところに恋あり、です。あなたの恋だってどこにも失われてなんかいません」
「でも、もう恋はしたくない。バカみたいにのぼせあがってキズつくだけだもの……怖いのよ……」と胸をおさえてしんみりとなる。すると、相手が照れくさそうに「お話の途中、たいへん恐縮ですが、まだ雨もやみそうにありませんし、いえ、その、なんですか、咽喉のあたりがちょっとアレで、よろしいですかな、いや、ほんのすこし……」と、モジモジ要領を得ないことを口にするから、彼女も眉をひそめて「なんのことですか」と訊き返す。
「ま、そんなわけですから、このタイミングでは、いささかアレですが、しかし……」
「はっきりおっしゃってください」彼女が焦れ出すのも無理はない。
「…………ビールを注文したい、のです……オホン」とわざとらしく咳ばらい。彼女はあきれかえるように目を見開いて鼻の穴をふくらませる。「ええ、どうぞ、ご自由に。わざわざわたしに断らずともよろしいじゃありませんか」
いえ、どうも咽喉が渇いて、おかしいな、なんだろう……へへッ、とこのうえない白々しさ。奥に向かってうれしげに、瓶ビールを一本、ええ、コップは二つね、とにんまり。
「ずいぶんと言い訳じみてるじゃありませんか。飲むなら堂々とお飲みなさいよ」
「まったくです。きっと後ろめたいのでしょう。恋でしおれてる方をまえに気持ちよく酔っぱらおうとする魂胆が。さ、あなたも景気づけにいただきなさい。どうもわたしひとりじゃ気がひけて――なに、いらない。そうですか、では失礼して、ひとつ遠慮なく、ン、ンッンッンッ……アアァ……ッ、ふう、いやあ、生き返りますなァ」
「おやおや、やけに美味しそうに飲むじゃありませんか。ひとの気も知らず。それにおかしなことを言いますね、生き返るだなんて。だいたいあなたは生きているんですか」
「な、バカ言っちゃいけません。むろん生きていますとも。なにを言い出すんです」顔を真ッ赤にしてあやうくビールをひっくり返さんばかりの興奮ぶり。
「あら失礼。てっきり生きてるとか死んでるとか、そんな観念がないのかと。ささ、遠慮せずぐいぐいお飲みなさい」と彼女はビールをタプタプついでやる。
「や、こりゃどうも。しかし、わたしもここに住まわって久しいですが、あなたのような方は多いのですよ。多いというよりもあなたのような方ばかりです。老いも若きも男も女もいろいろたくさん訪れます。つまりよくある話なんです」
「それじゃあまるでわたしがツマらないみたいじゃありませんか。わかりました。今後は恋をすっきり忘れて、めそめそせず、ひとつ奮発して天下国家の行く末でも憂います」
「すこしもわかっちゃいない。恋は皆に平等で公平なんです。愛は育てなきゃなりませんが、恋はだれだってできますし、するんです。しないなんてありえない。だから、またお参りにいらっしゃい。どうせすぐ恋をするんですから。だれだってそうなんですから」
「それも一般論かしら」と彼女が言ったとき、にわかに相手の顔がけわしくなって、あやしい手つきをしながら「オン・アフルアフル・サラサラ・ソワカ!」と甲高い声で叫びをあげた。あまりの驚愕に彼女はしばし沈黙……。やがてあたりを見まわして、「なんですか大きな声で。お店の人に叱られますよ」と声をひそめてたしなめる。
「ひどいじゃありませんか、知らないなんて。こりゃわたしの《真言》ですよ。こうして深沙大王とお呼びかけになれば、手が空いてりゃまたすぐさま参上します。わたしだってあちこちで世話を焼いてそれなりに忙しい身ですから、いつもこうして昼間からビールを飲んでるわけじゃありません」と弁解を口にすれば、彼女もあらたまって「ほんとうにお忙しいなかすみません。苦情ばかり持ち込んで」とやっとしおらしく神妙な顔をする。
「いえ、こちらも役目なものですから。ご意見たまわるのも任務向上には大切です。なのでどうか、あなたの人生のためにも、わたしの名誉にかけても、よろしき恋の意義をご発見ください。……ふうむ、しかし、どうも、まだ雨がやみませんな……ふうむ」と腕組みをして空になったビール瓶をしげしげ見つめてる。彼女はせつなそうに微笑して、「じゃ、もう一本とまいりましょう。わたしもいただきますから」と心得顔にうなずいた。
かくして、新たなる恋路の門出は祝されたのかどうか、それはよく知れない。
匿名(東京都杉並区/46歳/男性/自営業)