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「大だるまの開眼」著者:宗像夏子

 だるまの朱色の背中が、日の光を浴びてきらりと輝く。調布市にある深大寺の境内は一年で最も活気づく、深大寺だるま市の真っ最中。法被姿の露天商達の間を縫うように、子供たちが駆けていく。
 調布市内に店舗を構える老舗だるま屋「三浦だるま店」の四代目当主、三浦秀一は漂ってくる屋台の香ばしい食べ物の匂いに気を取られつつ、息つく間もなく売り子に励んでいた。先代の父は去年すい臓がんで亡くなり、秀一は三十八才で若くして当主となった。幼いころから父の手伝いでこのだるま市に参加しているが、父が病魔に倒れてからは当主として参加している。
 各露天商はテントに思い思いに商品を並べる。三浦だるま店のシンボルは、お腹に金文字で「三浦だるま」と書いてある、1メートルを超える看板の大だるま。まだ目の入っていないこの大だるまは、初代が制作したものと伝えられており、修復を繰り返しながら大切にされてきた。分厚く塗り重ねられた朱色、凛々しく太い眉と髭、顔回りを彩る金粉。大木のような荘厳な風格を携える姿は、行きかう人々の視線を集める。
 午後三時を過ぎ、客足が少し落ち着いてきた頃、一人の女性がテントに近づいてきた。白いシャツを着たその女性は山のように並ぶだるま達の顔を一つ一つ丹念に眺め、しばし考えたのち、軽く頷いて一つを手に取った。
「この子をください」
「いらっしゃい、夏子さん。お待ちしておりました」秀一は彼女に微笑んだ。
 秀一が彼女の名前を知るきっかけとなった出会いは、三年前にさかのぼる。彼女はその年、三浦だるま店を訪れ、手のひらサイズのだるまを購入した。決めるまでに長時間店頭で悩む彼女に、秀一は「何か気になることがありますか」と声をかけたのだった。
「ここのだるまは生きてるみたい。みんな顔が違ってどの子も可愛いから、なかなか決められなくて」彼女は真剣な表情で答えた。若い女性がだるまで悩む様子に、珍しさと嬉しさを感じた秀一は、「うちのだるまは全ての行程を手作業で行っているので、思い入れが違うんですよ」と、自信いっぱいに語った。ニコニコと楽しそうに話す秀一に、彼女は好感を持ったようだった。
「私、広島の三原というところの出身なんです。三原にも神明市という大きなだるま市があって。だから、だるまは私にとってすごく身近な存在なんです」
「なるほど。目が肥えてらっしゃるわけだ」
「私、最近深大寺に引っ越してきて。ここにもだるま市があると知ってびっくりしたんです。縁を感じたなぁ。あ、これ見てください」と、彼女は携帯にピンク色の紐でつながれた、小指の先ほどのだるまを手のひらに乗せた。
「ああ、可愛いですね」秀一はその濃いピンク色のストラップに触れた。小さいながら精巧に描かれた、どことなく柔らかい顔立ちだった。
「この子は昔神明市で買ったお気に入りで、私のお守りなんです」
だるまの話で打ち解けた二人は、互いに自己紹介をした。彼女は小松夏子といい、三十四歳。ピアノ講師をしており独身。年齢が近いことがわかって、少し心の距離が縮まり、楽しいおしゃべりができた。夏子はまた来年も来ます、とはにかみ、買っただるまを大事そうに抱えて帰っていった。
 翌年のだるま市に、言葉通り夏子は現れた。
「三浦さんのテントを見つけられるか心配だったんですけど、この大だるまが目立つから迷わず来られました」と笑い、二人は再会を喜んだ。夏子がだるまを選びながら、「秀一さんの今年のおすすめはどの子ですか?」と聞いてきた時、秀一は一年ぶりにも関わらず名前を憶えてくれていることを嬉しく思った。
 そして去年。夏子との三度目の再会で、秀一は勇気を出して夏子の連絡先を聞き、夏子も二つ返事で教えてくれた。それから時々メールでやり取りを重ねる仲になった。丁度この頃、秀一の父が亡くなり、秀一は仕事にも生活にも追われていた。尊敬する父を失った悲しみの中で、いつも明るく接してくれる夏子は一筋の光だった。次のだるま市で夏子に会うことを密かな楽しみに、仕事に励むことができたのだった。
「秀一さん?」
そんな日々を思い出しながら、ぼーっと夏子を眺めていた秀一は、はっと現実に戻った。夏子は代金を支払い、だるまを胸に抱いて、「今日はここで開眼もしてもらおうと思っているんです」と、俯きがちに呟いた。
深大寺では、買っただるまに僧侶の手で目入れしてもらえる。祈願するときは左目に、願いが叶った時には右目に梵字を入れるのだ。
「いつもは自分で目を入れてるんですけど、今年は力が欲しくて」
「じゃあ特別な願いなんですね」と秀一。
「はい。私、今度、手術するんです」
「えっ、そうなんですか?」てっきり明るい願い事だと思っていた秀一は、夏子の突然の告白にびっくりして、しばし言葉を失った。
「メールではそんなこと全然言ってなかったじゃないですか」
「はい、心配させたくなかったんです。そしたらどんどん言い出せなくなって」
 病名は教えてくれなかったが、一か月ほどの入院になること、手術しても完全に病巣を取り切れる保証はない病気であることを夏子は説明した。
秀一は「大丈夫、きっと良くなるよ」と、励ます気持ちを身振り手振りを交えて懸命に伝えたが、薄っぺらな言葉しか捻り出せない自分がもどかしかった。帰っていく夏子の後姿は、泣き出しそうな灰色に見えた。
 祭りの後の誰も居なくなった境内で、秀一は一人座り込んだ。
「俺って頼りないのかなぁ」秀一はしんとたたずむ大だるまに話しかけた。大だるまは秀一が幼い頃から悩み事があるたびに話しかけていた相談相手だ。父の闘病生活を通じて人の苦しみを分かった気になっていた自分が、夏子の不安に気づいてやれなかったことや、頼ってもらえなかったことがショックだった。
「俺が落ち込んでもしょうがないよな。夏子さんを応援してあげなきゃ」
秀一は大だるまの頬をぽんと叩いた。
 それから数週間後、秀一は夏子の入院する病院の中庭にいた。だるま市のあと、夏子に連絡し、手術前にどうしてもお見舞いに行かせてくれ、と頼んでいたのだ。面会時間の少し前に「中庭に来てください」と、夏子にメールしてからしばらくして、携帯を片手にロビーから出てきた夏子は秀一に気づき、笑った。
「なんで病室に来ないのかと思ったら、こういうことですか」
秀一の隣には、看板の大だるまがいた。
「こいつはうちの守り神なんです。ずっとうちの店を守ってきてくれたんです。でも、今日は、夏子さんへ力を送るために連れてきました」
 秀一は持ってきたマジックをポケットから取り出し、左目に目を入れ始めた。夏子はその様子をじっと見つめる。
「これできっと願いは叶います。安心して手術を受けてきてください」
周りで日光浴していた入院患者や、見舞客がちらちらこちらを見ている中、夏子は少し照れくさそうに言った。
「ありがとうございます。とても嬉しい。もう力がみなぎってきた気がする」
夏子は記念に、と携帯のカメラで片目が入った大だるまの写真を何枚も撮って喜んでいた。動くたびにピンク色のストラップのだるまが左右に揺れ、青空の下で踊っているように見えた。
 大だるまは今日も、三浦だるま店の入り口に凛と立っている。今年の深大寺だるま市開催まであと数日。店の奥、糊と塗料の匂いがふんわり立ち込める工房の中で、秀一は夜遅くまでだるまを作る日々を続けている。
「今年も晴れてくれよ」そう呟きながら、携帯で天気予報を確認した。携帯の待ち受け画面は、退院後の夏子と、大だるまのツーショットだ。今年は売り子として夏子が手伝いに来てくれることになっており、夏子もだるま市に参加するのを楽しみにしている。
「今年もみんなで祭りを盛り上げような」
そう言って大だるまの頬を優しく撫でた。大だるまは、秀一を、両目でしっかり見守っている。

宗像 夏子(東京都調布市/34歳/女性/自営業)