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「師走の織姫」著者:加納鮎

 ただ、ひたすら長く続けたい関係もある。それを恋というのかどうかはわからない。
 十二月最初の金曜日の午後、私は吉祥寺駅で中央線を降り、南口の雑踏を抜けて大通りのバス停の列に並んだ。例年よりも風が冷たく、今日は日中もマフラーが手放せそうにない。お目当てのバスはすぐに来た。窓際の席で揺られること三十分、バスは住宅街を抜け、「深大寺入口」で停車した。西参道の石碑前で携帯を見たが、新たな着信履歴はなかった。私は人気のない深大寺通りをひとり歩いた。
 水車小屋の前を過ぎ、大黒様と恵比寿様が仲良く並ぶ先の深い木立の中に、深沙大王堂の三角屋根が見えてきた。境内には誰もおらず、お堂の前で私は合掌し、来る一年間も文子さんとの間で何事もなく時が過ぎゆくことをただ祈った。
 曇天のせいか客足も疎らな土産物店を左手に水路沿いをなおも進むと、「浮岳山深大寺」と刻まれた石碑の脇の石段が茅葺の風雅な山門まで続いていた。門をくぐると、正面奥の本堂の唐破風の下の左右に、大きな「木」の文字が見えた。階から振り返ると、山門の屋根に生えた苔が緑色を残していた。本堂での参拝の後、いったん元三大師堂に上り、幽玄な五大尊池の脇に降り釈迦堂に回った。昨年、一昨年と文子さんと一緒に通った路である。
日が陰ってきたので白鳳仏の拝観は簡単に済ませ、山門近くのいつもの蕎麦屋に入った。
「へい、いらっしゃい。どうぞお好きな席へ。」
渋いがよく徹る亭主の声が店内に響く。先客は地元の馴染みと思しき男性が二人だけ。ちょうどよい具合に、池に面した角のテーブル席が空いていた。私はコートを脱いで席に掛座り、携帯を取り出して文子さんにメールを送った。
「参拝終了。いつもの店にいます。ゆっくり来てください。和也」
お絞りを運んできた亭主に、瓶ビールと板わさを注文した。ほどなくして、ずんぐりした茶色い小瓶とコップがテーブルに並べられた。よく冷えて汗をかいているガラス面に貼られた小豆色のラベルには、深緑の文字で「深大寺」と書かれていた。手酌でコップに注ぎ、ぐいっと一息で空けた。お通しは出汁が染みたゼンマイと厚揚げの煮物だった。
 灰色の低い空に少しだけ赤味が差し、池の水面が徐々にほの暗くなってきた頃、文子さんからようやく返信が届いた。二本目のビールがそろそろ空きそうだった。
「バス停に着きました。ごめんなさい。文子」
五分後、入口の引き戸が開き、白い息を吐きながら頬を紅潮させた文子さんが、冷たい空気と一緒に店内に飛び込んできた。角の席から手を振ると、すぐに気づいて軽く微笑んだ。
 文子さんは同じ会社に勤務する二つ先輩の独身女性である。すらりと背が高く切れ長の瞳の清楚な美貌の持ち主で、見た目とは裏腹にバリバリと仕事をこなす姿に憧れを抱く後輩が男女を問わず多かった。一緒に仕事をしたのは約十五年前に一度きり、しかも僅か半年間だったが、お互い大きな案件が一段落し時間的にも余裕がある時期が重なったからかもしれない。会社の何かの会で隣となり話が弾んだことをきっかけに、彼女からちょくちょく飲みに誘ってくれるようになった。私はすぐに他部署に異動したが、その後も季節の変わり目になると文子さんから電話が掛かってきて、二人だけの時間を楽しんだ。
普段の口数の少なさからクールな女性と思われがちだが、文子さんは実は姉御肌のかなりの酒豪で、お酒が入ると途端に饒舌になり、コロコロとよく笑った。話題が尽きず、時間を忘れることもしばしばだった。だが、二人だけの会が五年程続いた頃だったか、いつになく神妙な顔つきで彼女がぽつりと漏らした。
「和也くん、・・・独身だとね、無性に寂しくて胸が締め付けられそうになる夜があるの。そんな時にいつも強引に飲みに付き合わせてごめんね。」
「とんでもない。私で良ければいつでも遠慮なく。」
「でもね、こんなに甘えてばかりいたらご家族に申し訳ないって最近は思うの・・・。」
「平日は残業ばかりで遅いから、誰かと飲んで帰っても誰も何も言いませんよ。」
「でも、奥様だって気づいていて、見て見ぬふりをなさっているかもしれないし。」
「気にしすぎですよ。二人きりだといっても、ただ飲んで話すだけなんだから。」
「でも気になるの。・・・ねえ、和也くん、年に一度だけ、同じ日に、必ず会って貰えないかな?その日が来ると思えば、どんなに寂しくても一年間我慢できる気がする・・・」
こうして、毎年十二月第一金曜日の午後が指定席となった。最初の頃はグルメサイトを参考に都内の有名店で年に一度のディナーを楽しんでいたが、いつしか深大寺の池の畔の飾り気のない蕎麦屋が定番となった。平日はお互い仕事の都合で約束の時刻に遅れることもある。先に参拝を済ませた方が店で相手を待つのがいつしか二人のルールとなった。
 バス停から小走りで駆け付けたのだろう。文子さんが濃紺で揃えたマフラーと手袋を取り黒革のロングコートを脱ぐと、かすかに甘い体臭が漂ってきた。
「ご無沙汰です。走ってこなくても良かったのに。」
「今年はお待たせしちゃってごめんね。結局、参拝にも間に合わなかった。」
「深沙大王堂には代参しておきましたよ。最初はビール、ですよね。」
「お願い、もう喉がカラカラ。」
追加した三本目のビールをグラスに注ぐと、待ちかねたように文子さんはその細くて白い喉を上下させながら一気に飲み干した。
「ああ、美味しい・・・。」
程なくして、だし巻き卵と天婦羅の盛り合わせが運ばれてきた。
「わあ、海老。今年は二本とも貰っちゃおうっと。」
悪戯っ子のように文子さんがはしゃいで、車海老の天婦羅を箸で攫った。私は小柱の入ったかき揚げを半分に割り、塩とレモンで口に運んだ。
「今年はいろいろありましたね。・・・もう大丈夫ですか?」
「うん。やっと手続きも片付いて落ち着いた。・・・あの時はごめんなさい」
五月の連休最終日の夜、珍しく文子さんが携帯に電話を掛けてきた。
「母が・・・」
言葉が続かず、電話越しに押し殺したような嗚咽が聞こえた。一人っ子の文子さんは早くに父親を亡くし、病気がちの年老いた母親と長く二人で暮らしていた。私は声を失い、ただ文子さんが次の言葉を発するのを待ち続けた。やがて、
「・・・・・ありがとう、和也くん。ちょっと落ち着いてきた・・・」
「本当?」
「うん、何とか。・・・じゃあ、切るね。」
いったい何が起きたのか、妻と娘が心配そうにこちらを見ていた。
「昔の同僚のお母様が亡くなったって連絡が回って来たよ。礼服を出しておいて。」
通夜に駆け付けると、喪主席に座る文子さんはやつれ果て、瞳は悲しみに沈んでいた。
立て続けに好物の海老を二本平らげた文子さんは、いつものように冷酒を注文した。
「和也くんの娘さんも来春で大学を卒業するのね。お疲れ様。」
「これでやっと肩の荷が降ります。」
文子さんは手酌で冷酒を注ぎながら、お猪口をじっと見つめ、吐き出すようにつぶやいた。
「本当にひとりになっちゃったわ、私・・・。」
文子さんの肩が少し震えていた。文子さんの冷たい手にそっと自分の手を重ねた。
「そろそろお蕎麦、貰いましょうか?」
「そうしてもらえる?」
亭主がざる蕎麦を二枚、運んできた。文子さんはその一本を摘まみ上げ、唇をすぼめた。その仕草をじっと見つめていると、文子さんはちょっとはにかんだように睨み返した。
「来年も、再来年も、ずっと文子さんと一緒に食べますよ、この店のお蕎麦」
「ずっとね、本当にずっと、ね。」
蕎麦湯を飲んで体が温まったところで店を出ると、足元から一気に冷気が上ってきた。
「・・・お願い。いつもの・・・。」
文子さんが甘えた声でねだった。いつの頃からか、別れ際に人目をはばからずハグすることが二人の決まりとなった。私が引き寄せると、文子さんは背中に回した手に力を入れた。
「今年も有難う、和也くん。」
「こちらこそ。・・・来年は一緒に参拝できるといいですね。」
文子さんが、コートの中の私の手を握ってきたので力を込めて握り返した。タクシーが拾えるバス通りに出るまで五分の道のり。今年も永遠に続けばよいと思った。

加納 鮎(埼玉県入間市/58歳/男性/会社員)