「はじまりの昼下がり」著者:渡邊 梨花
気の置けない人との会話は、どうでもいい話と、ちょっと真剣に幸せになれるいい話が入り混じる。純度の高い愛情だけがそこにあって、穏やかな時間が流れていく。
「最近どうよ」何の脈絡もなく、古い友人から連絡が来た。ちょうどその日、夢の登場人物に彼がいたので、奇遇だわと驚いた。
ぽつりぽつりとした会話の中で、お互い翌日は仕事がないということが分かった。どうせなら、夜に少しお茶でもする?と聞いてみた。彼は車で出勤しているから、お酒を飲むなら車をどこかに置く必要がある。そんな手間をかけさせてまで会うほどの用事は、特になかった。残念ながら、彼は夜に予定があるという。代わりにこう言ってくれた。
「明日のランチでもいかが?」「それは名案ね、そうしましょ」
水曜日の遅い午後、迎えに来てくれた彼の車に乗り込む。
「何が食べたい?」「二日酔いだから、あっさりしたものがいい」
昼間に彼と会うのは、多分二年ぶりとかだった。彼が運転する車に乗るのも二年ぶりだった。何度か見せてくれた、新しい車に乗るのは、今日が初めてだった。
「じゃあ、お蕎麦か海鮮丼は?」「いいね。海鮮丼ならどこ?」「三茶の駅のそばにあるわよ」「ああ、三茶はよくないかな。彼女の友達に会う可能性がある」
遠い昔に大好きだった人。いつか私に恋をしてくれた人。今ではすっかり仲のいい、でもあっさりした友人として定着しているから、煙草をふかす彼の横顔を見ても、お互いの恋人の話をしても、ちっとも切なくならない。こんな穏やかな関係になれたことが、心から嬉しい。きっともう二度と彼に恋はしないけれど、大事な存在であり続けるのだと思う。
「じゃあ、深大寺でお蕎麦を食べよう」オーケーと彼は言い、ナビへ行先を入力し始めた。
仕事の話、将来の話、昨日の話。ドライブ中の他愛のない会話の中で、ふと彼が呟いた。
「そういや俺、深大寺って行ったことないかも」「いいところよ。夏なんかは都心より二度くらい気温が低くなるから、ちょっとした避暑地みたいだし、お散歩しても楽しいのよ」
へえ、といまいち興味のなさそうな相槌を打つ彼を気にせず、私は話す。
「小さい頃、家族で深大寺へ遊びに行ったのね。ゲゲゲの鬼太郎のお店があって、そこで弟とグッズなんかを見ていたら急に雷雨になって、お店の中にまで水が入ってきちゃったの。しばらくしたら雨は止んだけど、薄暗い深大寺はなんだか不思議な空気が漂っているように思えて……それこそ、妖怪が出てきそうで、ちょっと怖かったなあ」
深大寺でのあれこれを思い返しながら話しているうちに、夏の思い出しかないことに気付く。らく焼きの絵付け体験でお皿にひまわりの絵を描いたのも、蕎麦屋でところてんを食べたのも、全部夏だ。
「今日は、雨、降らなそうだね」彼の言葉に、私も窓の向こうの空へ目をやる。真夏とはまた違う青色をした空に、ぐんと高いところに浮かぶ薄い雲が少し。
「天気いいね」と返しながら、春は出会いと別れ、夏は恋、秋は哀愁の季節なら、冬は何の季節なんだろうとぼんやり思った。
蕎麦屋が多すぎて選べないという彼をぐいぐい引っ張り、「まだ行ったことがない気がする」という理由だけで青い暖簾のお店に入る。平日、しかも時間が遅いせいか、すんなりと座敷の席へ案内してもらえた。普段、蕎麦は冷たいに限る!と豪語している私だけれど、あんまりにも外が寒いので今日は暖かい鴨南蛮蕎麦を、彼は天ぷら蕎麦を注文する。
彼が、最近ゴルフを始めたと言った。私はこの頃、バッティングセンターへ行ったり、スキーをしに雪山へ行ったりしていると話した。運動ができるイメージがまるでないと彼は笑い、センスがないのは否めないわと私も笑う。じゃあ何ができるんだと聞かれた。言葉に詰まっていると、彼が呟いた。「前にも言ったかもしれないけど」彼の箸を持つ手が止まったのを感じて、私は顔を上げる。
「俺のことを一番わかっているのは、お前だと思う」
確かにいつだったか聞いたことがあったけれど、こんな昼間に真正面から言われたのは初めてだったので、やや面食らった。
「それは、自分で思っていたことを私に指摘されたから?それとも、思ってもいなかったけれど、私に言われて納得することがあったから?」
「どっちもだな。その時は本当に驚いた。お前すごいなって。さすがだなって」
普段は八割くらい冗談みたいな会話をしているから、珍しく真面目に照れずに、私を評価してくれて、嬉しくなった。少しも切なくなく、ときめきもなく、意地っ張りもせずに、ただただ純粋に嬉しいと思えるこの関係を、私は心の底から愛しているわと思った。
「お待たせしましたあ」と運ばれてきた蕎麦を前に、空腹に耐えきれない二人はいただきまーすと声を揃える。うまい、やるなお前、と言いながらズルっと蕎麦をすする彼を、湯気越しに眺める。今はこんな風に気軽に会って、平日の昼から蕎麦を食べに深大寺まで来ることができるけれど、そういつまでも続くものではないのだろうという感覚がある。美味しそうに食べる彼を目の前にすることだって、人生であと何回あるかわからないほど、終わりはもうすぐそこにある気がしている。
「結婚する前に、教えてね」
限りあるのなら、いつ終わるのか知っておきたくて、ずっと言おうと思っていたことだった。彼は案の定わかっていないようで、どうしてと尋ねてくる。「誰にも咎められないうちに、ご飯くらい行きたいでしょう」という私に、少し笑って彼は「誰も咎めないでしょう」と言った。こんなことを言いつつ、彼は今日だって、恋人に私と会うことを話していない。伝えておけばいいものを、と毎回言っているのに。
「お祝儀、たくさん包んでくれるんでしょう」彼がそんなことを言い出したものだから、私は食べていた蕎麦を喉に詰まらせそうなほど、本気で驚いてしまった。何しろ、彼の恋人と私は長いこと知り合いだけれど、ここ数年はてんで関係が良くない。
「結婚式呼んでくれるの」「え、呼ばないの」「呼ばれないと思っていた」「なんでさ、祝ってもらわないとね」
ある時期、ある瞬間ではお互い、なんだかんだ一緒になるんだろうなと思っていた人と、こんな風に幸せな約束ができるんだから、人生はいつまでたっても飽きないし、楽しい。
お店を出てから、少しだけ散歩をする。相変わらず雨が降る気配はなく、幼い私が感じた妖気な雰囲気はちっともない。夏には嬉しいひんやりした日陰の風が、今日は首の横を通るたびに顔をしかめたくなるくらいに痛い。いつも通り彼は私の三歩前をのっしりのっしりと歩き、振り返らない。すっかり見慣れた後ろ姿を眺め、二人で並んで歩いたのはいつが最後だったかしらと考える。もう振り向いてほしいなんて思わないことが感慨深かった。歩道の横をちょろちょろと流れる川に光る水面が、やけに綺麗に見えた。
「それでは、家までお送りします」とわざとらしく丁寧に、ふざけて言う彼の車に乗り込む。帰りは静かだった。私は、散歩中に買った小さな達磨を手の中でコロコロさせていた。
信号待ちで、彼は窓の外に手を出し、煙草を吸い出した。
午後の光に照らされて、いい感じに生まれては消えていく煙草の煙は、懐かしいような気がしたけれど、決して切なくはなかった。趣深く、ただ「いい感じ」だった。
流れる雲、揺れる木の陰、光る水面や、漂う煙。
風で動くものは、常に変わっていくのに、なぜだかいつまでも変わらないという印象を私たちに与える。退屈で、でもちっとも見飽きない。慌ただしく過ごす日常の中でふいに目に留まり、いつものそれにほっとする。同じ形になることがない、常に消えていくということが、逆に私を安心させる。だって、それでもいつも、そこにあるんだもの。私と彼は、ものすごく長い年月をかけて、ようやくそういう関係になれたのだと思う。
「何をお願いするの」と彼が達磨を指さす。この先の人生もあなたと交わっていけますように、と思いついた瞬間、まだ目は入れていない赤くて丸いこの子にじいっと見つめられたような気がした。心がスンと空っぽになった。慌てて「決めてなーい」と返事をする。
一瞬、穏やかな昼下がりよりも通り雨が恋しくなった自分に、気のせいよ、と言い聞かせ、遠い雲をひたすら見つめた。
渡邊 梨花(東京都/24歳)