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「三代詣で」著者: 春川緑風

「アタシね、好きな人がいるの」雛乃は、プリンのカップに差し込んだスプーンを握ったまま、小さな声でそう言って、あどけない顔を俯かせた。私の「えっ」という声と、私の母の「あら、まぁ」という声が重なった。冷気を吐き出すエアコンの鈍い音が部屋に響く。小学四年生の雛乃は、学校でも小柄な方で、椅子に浅く座り、上半身を、ちょこんとテーブルの上に見せている。今日は土曜日で、夫は接待ゴルフで一日外出なので、雛乃と一緒に隣町の私の実家に遊びに来た。おばあちゃんっ子の雛乃は、いつも、実家に行くと言えば他愛なく喜ぶのに、今日は浮かない様子で、母が用意していた大好きなプリンにも全然手をつけずにいて、私と母が、どうしたのと交互に聞くと、思わぬ答えが返ってきた。
 雛乃の初恋?初恋なんて、まだ早いんじゃない?でも、今どきの子は、そういうもの?
「好きな子って、誰?」色んなことを考えた挙げ句に、母親の私の口から出たのは、月並みな質問だった。雛乃は、沈んだ顔をして、横に並んで座る私を上目遣いで見るのと俯くのをしばらく繰り返してから、「同じクラスのね……翔太君」と答えて、また俯いた。
あぁ、あの子か。この間の授業参観で、先生の質問にハキハキと答えていて、明るく活発そうな様子と、子供らしい可愛い顔立ちが印象に残っている。その日の夜、私が聞きもしないのに、雛乃は、翔太君はサッカーが上手くて、運動会のリレーのアンカーだったなんて話をしていた。あの頃、雛乃の心には、もう恋の種が蒔かれていたのかもしれない。
雛乃の話を聞くと、どうも、昨日、翔太君と些細なことでケンカしたらしい。娘の初恋とどう向き合うべきかなどと考えているうちに、母が向かい合って座る雛乃に微笑みかけ、「深大寺にお参りしたら?」と言った。雛乃は、「深大寺?」と怪訝そうに聞き返した。
「深大寺はね、この近所の縁結びのお寺なのよ。深沙堂ってお堂があるの。おばあちゃんも、深大寺にお参りして、おじいちゃんと結婚したんだから……」  
私の父は、私が二歳のときに死に、私には父の記憶がない。母と父は深大寺の近所で生まれ、中学校の同級生だった。母は、父が初恋の人で、深大寺にお参りして、それから父と付き合うようになり、大人になって、二人は結婚した。私は母から、そんな馴れ初めを、小さな頃から、数え切れないくらい繰り返し聞かされながら、母一人子一人の家庭で育ったのだが、母は雛乃に、同じ話を初めて聞かせた。雛乃は、母の話に目を輝かせていた。
「ねぇ、ママは、パパと結婚する前に、深大寺にお参りしたの?」と、急に、雛乃が私の方に話題を振った。「えっ、それは、ほら」と、私は、上ずった声で曖昧に返した。
私の初恋は小学校六年生のときで、相手は同じクラスの男の子。クラス一の優等生で、休み時間に教室の隅で一人本を読んでいるような、翔太君とはタイプが違う子で、繊細で、大人びた雰囲気に惹かれた。だけど、私も、今の雛乃みたいに、その子のことを思って胸が苦しくなり、初めて味わうそんな感情を持て余し、思いつめた顔をしていた気がする。
今くらいの夏の日だった。母が私に、「好きな子がいるんじゃない?」と聞いた。きっと、私の全面から、恋する少女の気配が漂っていたのだろう。思春期の私は、顔を真っ赤にして「好きな子なんていないよ」と否定した。母は「好きな人ができたら、深大寺にお参りしなさいよ」と続け、私は「お参りなんか迷信だから」と言い放ち、その場を離れた。
 けれど、その後、私は、こっそり、深大寺にお参りに行った。母から、父との馴れ初めをずっと聞かされ続けて、深大寺のご利益が、心に深く刷り込まれていたのかもしれない。
ある日曜日。母には、友達の家に遊びに行くと言って、深大寺へ向かった。一人でお寺にお参りするのは初めてだった。お寺の辺りには、青葉が茂り、お参りに来た人々が行き交い、私は心細さを覚えながら、お参りの人の流れに身を任せて歩き、深沙堂に辿り着いた。思春期の私の自意識は過剰で、深沙堂の前に立つと、急に、縁結びのお寺でお参りすることが、今、私は恋していますと声高に宣言しているのと同じことのように思えて、周りの大人が私を好奇の目で見ている心地がした。私は、一人顔を熱くさせて賽銭箱に十円玉を投げ入れ、手短に恋の成就をお願いすると、深沙堂に背を向け、一目散に駆け出した。向かって歩いてくる大人達をよけながら、私は、息を弾ませ、参道の石畳を蹴り続けた。
小学校の卒業式の日に、私は、その男の子から好きだと告白され、感極まって泣きながら、私も好きだと答えた。その子は私立の中学へ、私は地元の中学へ進学が決まっていて、幼い二人は、今の気持を確認する以上の術を知らず、関係はそれっきりになった。
以来、私は、好きな人ができる度に深大寺にお参りし、その時々の相手と、フッたりフラレたりしながら、夫と出会い、やっぱり深大寺にお参りに行って、一緒になった。母は、年頃の私に、折に触れて、「好きな人ができたら、深大寺にお参りしなさいよ」と言い、私は、内心ドキリとしながら「そんなの迷信だから」と返し、そのくせ、こっそりと深大寺にお参りしていた。深大寺は、私にとって秘密の場所で、実は深大寺にお参りしているんだと母に言えないまま、今日に至っているのだが、雛乃の私に向ける視線は、私の答えに何かを期待するような熱を帯びていた。やっぱり、思い悩む我が子に嘘はつけない。
「そうよ、ママも、パパと結婚する前に深大寺にお参りしたのよ」私は、遂に長年の秘密を明かした。雛乃のわっと明るい声が響いた。母の顔が、きっとそうだと思っていたのと言っているように見えて、私は、慌てて目をそらし、母が淹れたコーヒーに口をつけた。
雛乃は、「お参りしたら、翔太君と両思いになれるかな」と弾んだ声で言って、それから急に浮かない顔をして、「でも」と続け、上目遣いに母を見た。暢気な顔でプリンを掬っていた母が、小首を傾げて、雛乃を見た。「おじいちゃんは、おばあちゃんと結婚して、すぐに死んじゃったんでしょ?」と言って、雛乃の顔が悲しげに歪んだ。母のことを思いやり、ひょっとしたら、自分と翔太君の将来を重ねてさえいるのかもしれない。母は、切実な顔をした孫のことを心から愛おしむように、優しく笑った。
「おばあちゃんはね、おじいちゃんと結婚できて、一番よかったのよ。神様が、そうしてくれたの」母が、部屋の片隅の小さな祭壇に置かれた父の遺影に顔を向け、目を細めた。私も、導かれるように遺影へ目を遣った。母が、父のことを、ずっと語り聞かせたからだろう。私は、記憶がないのに、父を、誰よりも身近な人として、ずっと親しみ続けている。
「世の中には、色んな人がいるでしょ。そのとき好きになった人が、その人が一番仲良くなれる人かもしれないし、他にもっと仲良くなれる人がいるかもしれない。神様は、お参りに来た人のことを、よぉく見ててね、その人に、一番いいように考えてくれているの」
年の功ということか。母は、雛乃の疑問に上手に答えた。雛乃には、まだ少し難しい気がしたが、恋する少女の目は、親の私がドキリとするほど、真剣そのものだった。
「ママ、深大寺にお参りに行きたい」と、雛乃が、恥じらいながらも、きっぱりと言い、私は「そうね、いいかもしれないね」と答えた。母は満足そうな笑顔を浮かべて、「近くだからね、これから二人で行っておいで」と言って、ゆっくりとプリンの残りを掬った。

「翔太君とのこと、ちゃんとお願いした?」と聞くと、深沙堂へのお参りを済ませた雛乃は、上目遣いで私を見て、恥ずかしげに頷いた。雛乃の表情は柔らかだった。お参りに来てよかった。私は、雛乃と並んで、久しぶりの参道を歩いた。ふと横を見ると、雛乃の姿がなかった。慌てて振り返ると、雛乃は立ち止まり、顔を強張らせて、目の前の一点を見つめていた。雛乃の視線の先に目を遣った。私と同じくらいの年回りの女性と、その横で、顔を真赤にさせ、雛乃みたいに、一点を見つめながら立っている男の子がいた。見覚えのある顔。そう、翔太君だ。また雛乃の方に視線を戻すと、雛乃は、今にも泣きそうな顔をして、くるりと背中を向けて、駆け出した。石畳を叩く雛乃の小さな靴音が響いた。
「雛乃っ。待ちなさい」私が雛乃を追いかけようとしたそのとき、小さいが、力強く石畳を蹴り上げる靴音が後ろから聞こえ、さっと私の横を通り過ぎて行った。翔太君が雛乃を追いかけながら、呼びかけると、雛乃は立ち止まって、翔太君と向かい合った。
「あの、雛乃ちゃんのお母さんですか?」後ろからの声に、はっと振り返り、「翔太君のお母さんですか?」とオウム返しに聞き返した。女性は、微笑みながら頷き、「ウチの子がご迷惑を」と言いかけた私の言葉を遮るように、「子供はいつの間にか大きくなって。何だか不思議ですね」と言って朗らかに笑った。私と翔太君のママは、楽しげな秘密を共有するように笑って、ほとんど同時に、二人の方へ目を移した。雛乃と翔太君は、困ったような顔で、ずっと黙っている。心配で、切なくもあるが、何だか微笑ましい姿でもある。
神様が雛乃の初恋をどう取り計らってくれているのか、私には分からない。母のように、初恋の人と結ばれることだってあるし、私みたいに、初恋は、ささやかで甘酸っぱい思い出に変わるのかもしれない。それでも、雛乃の小さな恋には、どんな形であれ、雛乃のまだまだ長い人生にとって一番いい結末が待っている気がして、私は、深沙堂の方へちらりと視線を送り、小さく頭を下げながら微笑んだ。

春川緑風(東京都中央区/44歳/男性)