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「いつか、イマジナリー・ゴールド・ラインを」著者:梨本灯狸

僕と犬との間には、深刻な障害がある。
それは寿命の差だ。だから僕は、大好きな犬を一度も飼った事がない。犬に先立たれるなんて、僕には耐えられないと思うのだ。そういう訳で、心の中だけで犬を飼っている。
名前はユキ。雌の白いポメラニアン。永遠の三歳。毎日ドッグフードをあげて、朝晩散歩へも連れて行く。温かい休日には、車で少し遠出をして、神代植物公園へ向かう。広々とした自由広場がお目当てだ。ペット立ち入り禁止の場所もあるが、ユキなら咎められない。季節の花が咲き乱れているのを背景に、白い尾と息を弾ませて軽やかに歩く。蕎麦屋だって、お土産屋だって、日帰り温泉の湯船の中だって、僕とユキはいつでも一緒だ。しかし唯一、僕達が入れない場所がある。
それは、皮肉な事にドッグランだ。駐車場のすぐそばにあるので、ついつい覗いてはため息を吐く。
『なにか』を連れた人間が、一人キャッキャッと走り回ったら他の飼い主も犬たちも、さぞ迷惑だろう。僕にはそれくらいの常識があった。
 ドッグランでは、犬たちが飼い主と、生き生き楽しそうに駆け回っていたりじゃれ合っている。僕は、その光景をいつも不思議な気分で見る。どうしてあの飼い主たちは、犬が自分よりも先にいなくなるというのに、あんなにも無邪気に笑っていられるのだろう。僕には無理だ。もしもユキが死んでしまう犬だったら……そう考えるだけで胸が張り裂けそうだ。ドッグランから目を逸らすため顔を上げると、僕と同じ様に、ドッグランを眺めている若い女性の姿が目に入った。彼女も一人の様子だ。囲いの外で連れを待っている様子でもない。僕はその女性の愛らしさに「あっ」と声を上げそうになった。髪型や顔の印象が、キャバリア犬に似ていたのだ。かわいい。と、思わず見入ると、彼女が大きな瞳を潤ませている事が分かった。
 そうと分かった途端、僕の胸がズキンと痛む。胸の痛みに戸惑う僕などに気づかず、彼女は立ち去って行く。僕は手で胸を押さえて、彼女の後ろ姿を目で追った。彼女が見えなくなると、ようやく我に返って、自分の足下を見る。ユキがピンク色の舌を垂らし、ニコニコと僕を見上げていた。そして、ニコニコ顔のまま、彼女の行ってしまった方向へ軽やかに歩き出した。リードを付けていないユキは、僕に捕まらないように、ちゃっちゃか早足になって、僕の方を振り返りつつ歩いて行く。こんな事は初めてだった。すぐに彼女に追いついてしまい、僕は慌てて距離を取って歩いた。ユキは僕の気も知らないで、彼女のスニーカーの周りをクルクルと跳ね回っている。そして彼女が、しっとりと年期を含んだ木造つくりの店に辿り着くと、店内にまでついて行ってしまった。建物の側に生えた木の枝に、『陶磁器・焼鈴・らくやき 深大寺窯』と書かれた木札がぶら下がっている。店先には、赤い布を敷いた台の上に、焼き物の狸や艶やかな器がところ狭しと並んでいた。店の軒下には夏を迎えて風鈴が幾つもぶら下げられており、涼やかに鳴っている。店の中程に、ユキの真っ白な尻尾がフリフリと揺れていた。
 店内は、棚いっぱいに白い素焼きが並び、作業台と思われる長机の上に絵の具の小鉢と何本もの筆が整列をしていた。ユキが楽しそうに、僕にまとわりついてくる。
彼女は、店の人と割れた焼き物の皿を覗き込んでいた。
「落としたりぶつけたりしていないのに、あの子が亡くなる前日に急にパカッと割れたんです。どうにかならないでしょうか」
 震える声に、思わずこっそりと彼女の手元を見ると、割れた焼き物の皿が右手と左手に半分ずつ収まっていた。それぞれの割れ目の中程に、何か窪みがついている。彼女が名残惜しそうに皿を一枚に合わせると、窪みは足形になった。大型犬の大きさだ。
「金継ぎをしてみてはいかがでしょう。材料はホームセンターなどで手に入りますよ」
「やっぱり金継ぎがいいですか……ありがとうございます」
彼女はそう返事をした後、陶芸体験の『手びねりコース』なるものを申し込んだ。粘土から好きな焼き物を作れるらしい。僕はそれを聞いて困ってしまった。何故なら、ユキは、彼女の作業が終わるまで、ここから離れない気でいるに違いなかった。そんなに長い時間、店先をウロウロするワケにもいくまい。僕は覚悟を決めて、申し込みをしている彼女の横から「僕もいいですか」と、声を上げたのだった。
 申し込みが済むと、お互い何となく「同じコースだし、変に距離を置くのも……」と、いった感じで向かい合って座り、粘土をこねた。僕の緊張も知らずに、ユキが長机に前足を掛けて、ふっくり笑っている。つられて微笑んでしまいそうな愛らしいその笑顔を、形作った小さな皿(もちろん、ユキの餌皿だ)に彫り描く。段々夢中になってきた頃、ふいに可愛らしい声が僕にかけられた。
「それ、ポメラニアンですか?」
「え! あ、そうです。ポメラニアンです」
慌てて返事をして顔を上げると、キャバリアみたいに可愛い笑顔が咲いていた。
「すごーい、お上手ですね」
 ああ、僕はポメラニアンが大好きだけど、キャバリアもとても好き……。
「飼っているんですか?」
「いえ、好きすぎて、飼えないです」
無邪気な様子で首を傾げる彼女に、僕は嘘が吐けなかった。
「先立たれるのが怖いんです。きっと耐えられない」
 言ってしまった後で、「しまった」と思った。彼女は、愛犬を亡くしたばかりなのに、僕はなんて無神経な事を。けれど、彼女は泣きそうな顔で微笑んで、頷いてくれた。
「……わかります。どこにいても思い出すし、まだここに一緒にいる様な気がするのに、いつも一緒に遊んだドッグランには、あの子の駆け回る姿はなくて、私は一人になるの」
 僕はギクリとした。どうして犬を亡くした彼女と、犬を亡くしていない僕の境遇が一緒なんだろう。何故だか泣きたくなって、取り繕うように別の話題を持ち出した。
「それ、何を作ったんですか?」
 彼女は、犬型の平たいプレートを形作っていた。
「これですか? 家の片隅に、あの子のメモリアルコーナーを作ったので、名前と命日を絵付けして飾ろうと思って。ずっと前にこのお店で、あの子と作ったお皿を飾りたかったのだけど、割れてしまったから」
「ああ、金継ぎで直るといいですね」
 彼女は、渋々といった様子で頷いた。金継ぎに乗り気ではないらしい。
「線が入ってしまうでしょう?」
「金色で綺麗だといいますけど」
「いくら綺麗でも、あの子との境界線を引くみたいで、気が進まないの」
「でも、あなたは引かないと」
思いがけず、僕はそう言った。自分は喪失が怖いクセに、彼女には黄金色の線を引いて、悲しみを飛び越えて欲しいと思ってしまった。
 目を瞬いて、彼女が僕を見つめた。大きな瞳が潤んで光る。
「線を引いたら、もう涙が勝手に零れなくなるかしら?」
 僕は、そう言った彼女が眩しくて、いじらしくて、苦しくて、何も言えなかった。
 ただ笑って欲しくて、彼女は何が好きだろうとか、どうしたら喜ぶだろうとか、こどもの様にひたむきに考えた末、甘い物でも一緒に食べませんかと誘っていた。勇気は必要なかった。女性をお茶に誘うなんて、僕史上最高にハードルの高い行為を、勇気じゃなければ、何で飛び越えたのか、自分でも不思議だった。
 彼女は泣きそうな笑い方をして、「いいですね」と、答えてくれた。
 団子を食べながら、犬好き同士打ち解けた。ひと月後に出来上がる焼き物を、一緒に受け取る約束も出来た。もの凄い快挙だ。
 一秒ごとに、彼女の笑顔に惹かれてしまいそうで、臆病な僕はコッソリ線を引く。
 けれどいつかその線を飛び越えて、彼女が感じた喜びや悲しみに触れてみたいとも思った。
僕の気持ちを知らないで、ユキがニコニコ笑って僕を見上げている。

梨本灯狸(愛知県名古屋市/39歳/女性/会社員)