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<第2回応募作品>『あの頃ぼくは少年だった』 著者:Coz Kumagai

 深大寺の山門をくぐったとき、ぼくはここで初恋をしたことを思い出した。当時十二才だったぼくにとって、鮮烈な出来事だったはずなのに、思い出すのは久しぶりのことだった。誰もが一度は経験する、異性に対して感じる正体不明の心のときめき。
 ぼくは釈迦堂の横の、池に落ちる滝の水音を聞きながら元三大師堂へと続く橋を渡った。
 そうだ、この場所だ。橋の上から池の鯉を眺めていたとき、あの人がやってきたのだ。遠い日の記憶が目の前の風景と重なり合い、鮮明な映像となって脳裏に映し出された。あの頃はすべてがきらきらと眩しく輝いていた。
 
 公務員だった父は転勤が多く、ぼくは三つ目の小学校に通うことになった。小学校最後の夏休みが始まって間もない頃のことだ。
 夏休みの直前、ぼくの転校がクラスメイトたちに告げられ、ぼくは引越しの直前に一人の女の子から手紙をもらった。
「ずっとずっと好きでした。新しい学校へ行っても元気でね」と書かれた短い文面の手紙だった。
 ほとんど口を聞いたこともなかったし、その子のことは何とも思っていなかったので、ぼくはその手紙を持て余した。手紙を引越しの荷物の段ボール箱に入れようかと迷っていると、「大掃除だと思って、いらない物は全部捨てなさいね」との母親のひと言が、手紙を『すてるモノ』とマジックで書いた箱に放りこませた。今となっては、その女の子の名前も顔の形すらも思い出せない。
 友だちとの別れによる寂しさと、後ろめたさのようなものを感じた引越しだったが、新しい生活は過去の思い出を心の片隅へと追いやってくれた。 
 毎日のように、新しい世界への冒険に胸を踊らせ、わくわくしながら夏休みを過ごした。ぼくは、すぐに深大寺周辺の匂いが好きになった。正門前を中心に立ち並ぶ数軒のお土産物屋とそば屋の客引きの声は、団地暮らしのときにはなかった新鮮な響きがあった。
 お土産物屋を楽しそうにのぞいている人の姿を眺めたり、お店の前を流れる小川に足や手を突っ込んだりと、たあいのないことが楽しかった。ときどき自分のお小遣いの中からジュースやお団子を買って食べたりもした。
 ぼくはデジカメを構えてシャッターを押した。初恋の思い出を記念にしようとしたわけじゃない。それが仕事だからだ。こうやってあちこちと歩き回って取材して記事を書き、写真の撮影もする。大学卒業後、雑誌社に勤務して記事を書いていたが、これなら自分一人でもできると思って二十七才のときに独立した。フリーになって二年がたった。そしてきょう、ある雑誌の連載企画で、隠れた観光スポットを紹介するコーナーの記事を書くために、ぼくは十七年ぶりにここに来たのである。
 神代植物園、深大寺がこの界隈の名所であり、深大寺そばが名産品だ。深大寺周辺には、ひしめき合うようにしてそば屋が立ち並んでいる。当時はまったく知らなかったことだが、深大寺は「縁結び」の寺としても有名で、若い女性が一人で訪れることも多いということを観光所案内所の、話好きなボランティアの老人から聞いていた。
 縁結び。もしかしたら、それは本当のことかもしれないなとぼくは思った。
 あの日、ぼくはいつものように、お土産物屋でジュースを買って深大寺に行った。おなかの底まで響き渡る鐘の音を聞いたり、常香楼にお線香を差したり、なんじゃもんじゃの木を見ては、「これはなんじゃ?」と言ってみたりしては、ひとりで遊んでいた。
 それほど多くはなかったが、真夏でも参拝者は絶えることはなかった。深大寺を見学して、そばでも食べるのだろう。ごく稀に、人影がパタリと途絶えるときがあった。静寂が戻り、この空間を一人占めしたような気がして、そんなひとときもお気に入りだった。
 あの日ぼくは、橋の上から「あれを釣ってみたいな」と池の鯉を眺めながら、地面に座って瓶ジュースをラッパ飲みしていた。そんなぼくの横をあの人は通り過ぎて行った。しばらくして彼女が戻って来る気配がした。彼女の顔が真正面から見えた。綺麗な人だった。彼女から目をそらすことができずにいたぼくの視線に気がついた彼女と、目が会った。にっこり微笑んだ彼女に、ぼくはうつむいてしまった。
「こんにちは」
他には誰もいないのだから、声をかけられたのは明らかだったけど、照れくさくてわざと気がつかない振りをした。もう一度「こんにちは」という声が聞こえた。
 顔を上げると、彼女の顔がすぐそばにあった。太陽の光のせいだったのか、彼女はとてもまぶしく見えた。
「よいしょ」と言いながら、彼女はぼくの隣にしゃがみこむ。女性らしい香りが、ふわりとぼくの鼻孔をくすぐった。
「気持ちいいわね。ここ」
大学生かそれ以上だろう。たぶん二十歳前後くらいだったと思う。いずれにせよぼくよりはずっとずっと年上の大人の女の人だった。
「そのジュース、一口くれない?」
意表をついた申し出に、ぼくは戸惑ったが、彼女には不思議な、素直に従うしかない雰囲気があった。
 瓶を渡すと彼女は一口飲んで、ありがとうと言って、ぼくに片目をつぶってウインクした。
「その坊主頭、似合ってるね。触ってもいい?」
彼女は返事など待たずに、ぼくの坊主頭をなでた。体を傾けて彼女の手から逃れようとしたが、彼女は執拗に追ってきた。嫌だったけど、でも嬉しくて、そして恥ずかしくもあり、なんだか楽しかった。
「かわいいねぇ。うりうり」
「何すんだよぉ」と反抗すると、「おっ、生意気」と言って、今度はぼくの脇腹をくすぐり始めた。絶えきれず、ぼくは大声を出して笑った。笑えば笑うほど、彼女はぼくをからかうようにくすぐった。深大寺の境内に、ぼくと彼女の笑い声がこだました。
 大声を出してはしゃいだので、ぼくは喉がかわき、ジュースを飲もうとして瓶に口をつた。
「あっ、間接キス!」
 それを聞いて、ぼくは口に含んだジュースを思わず噴出してしまった。はじけるような彼女の笑い声は蝉の鳴き声よりも大きかった。
「どんな味がした?」と、彼女はでぼくの顔をのぞきこむ。ぼくは顔と耳が真っ赤になるのを感じた。そしてまた彼女は笑った。よく笑う女性だった。
「あぁ、楽しかった。じゃあね」
彼女は立ち上がり際にぼくの頬に軽くキスし、戸惑うぼくの頭をさらにひとなでしてから深大寺を後にした。
 ぼくは彼女の姿が見えなくなるまで、じっとその姿を見つめていた。子ども心に、いいかたちのおしりをしているなと思ったことを覚えている。
 その夏休み、ぼくは毎日、深大寺に行っては、あの人が来ないかと心待ちにした。その後、彼女は一度も深大寺に姿を現すこともなかった。二学期が始まり彼女の印象は徐々にぼくの中から消え去った。それは、ぼくの初恋だったと思う。
 十七年ぶりにここにやって来て、同じ場所にいると、あのときの感触が蘇ってくるかのように、ぼくの頬に何かが触れたような気がして、遠い思い出から現在に引き戻された。
 観光に来ていたのだろうか、ひとりの女性がぼくのいる橋の方へと歩いて来るのが見えた。ぼくは視線を感じて彼女の方を盗み見た。彼女もぼくの方を見ていたようだが、目が合うと視線をそらして通り過ぎて行った。彼女は、ぼくのそばを通り過ぎる瞬間、ぼくが手にしているジュースの瓶に視線を向けたような気がした。
 ぼくは彼女の後ろ姿、いや、おしりを目で追っていた。あの日の光景と酷似しているように思えて仕方なかった。三十代後半か四十代前半くらいだろうか。ぼくよりも少し大人びた雰囲気の女性だった・・・。
 声をかけて、少しだけ話をしよう。それくらいのことなら別にどうってことない。仕事柄、口実なんていくらでもつくれる。今声をかけなければ、いつ再会できるかなど誰にもわからない。ぼくは深大寺の縁結びを信じて、彼女を追いかけた。
 深大寺の鐘の音が風にのって耳に届いてきた。

Coz Kumagai(東京都練馬区)

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