<第2回応募作品>『百日紅の咲くころ』 著者:鈴木 文子
百日紅が咲いている。奔放に伸びた枝の先の花々が、風に柔らかく揺れている。夏空に映えて、全体が大きな花束のようである。
妙子は百日紅が好きだ。まず、「さるすべり」という名前が面白い。猿がツルツルと際限なく滑る姿を想像すると、その滑稽な愛らしさに笑みがこぼれる。幹の感触もよい。滑らかな薄茶色の木肌に、いつまでも触っていたい。楕円形の葉が几帳面に並んだ華奢な枝は、手を伸ばし、誘いかけているようで嬉しい。フリルを束ねたような花の一つひとつは可憐だが、群れた花はどことなく淫らで、その二面性が魅力的だ。強い陽射しにも我関せずと咲き誇っている様子は、花の色も手伝い、夏に盛りを迎える生命の強かさを感じさせる。
妙子の生家にも、父が植えた小ぶりの百日紅があり、紅に近い濃いピンクの花が咲く。幼馴染みが住む斜向かいの家にも白い花をつける百日紅があり、幼いころ、白は男の花、桃色は女の花と決めた。生意気盛りには、濃いピンクの花を艶美、薄桃色を優美、白を清楚と名づけ、散った花びらを手に、自分はどのタイプの女だろうかと考えたりした。恋を知ると、親しくなった。妙子の恋は、たいてい夏に盛り上がり、花が散るころにあっけなく終わったり、意外に長く続いたりした。夏の闇に、灯りをともしたように咲く花に語りかけ、夜を明かすこともしばしばあった。
百日紅を見ると、調布に帰ってきたという実感が湧く。深く呼吸をして、街の空気を存分に味わう。もうすぐ津田に会えるのだと思うと、体中が勝手にざわついて、喧しいほどである。津田とは、深大寺で会う約束だ。
妙子はいつものように、調布駅でリムジンバスを降りると、そのまま深大寺へ向かった。まっすぐ家に帰り、兄夫婦と暮らす母に顔を見せなくてはと気がとがめるのだが、まず津田に会うことが、津田への愛を、津田にも自分にも証明することだと考えている。
二年ほど前、地方勤務の話を機に、妙子は東京を離れた。すでに父は他界しており、母を残していくのは後ろめたかったが、仕事も津田との関係も、何とか続けていくために決断した。歳の離れた父と見合いで結婚し、専業主婦として家庭を守ってきた母は、幸い、妙子の仕事に理解を示し、協力的だった。
父の生前こそ、会うだけ会ってみたらと、縁談に熱心だった母は、調布を離れると、結婚について何も言わなくなった。ただ、時折、ほんの一瞬だが、じっと妙子の目をのぞきこむことがあり、そんな時はふと、母には全てわかっているのかもしれないと思った。津田とのことは話していなかった。知れば心配する関係だということもあるが、これまでの戯れのような恋とは別物で、だからこそ全てをこの身で引き受けようという気負いがあった。身を焼くような恋愛もせず嫁いだらしい母を、母娘とはいえ、自分とは違う種類の女だと決めつけて、密かに軽んじている所もあった。
妙子は、深大寺小学校の前でバスを降りた。深大寺へ行くには、坂を下らなくてはならない。石畳を丁寧に踏みながら、参道を下っていく。これは妙子なりの儀式で、旅で疲れていても欠かさない。歩むごとに、現実は遠く薄く、影を潜めていく。未知の世界の奥底を探りに出かけるような興奮が、心地よかった。
都内には、他にも気に入った場所はあるが、津田と会うのなら、深大寺界隈がよい。妙子の実家からさほど近くはないが、知人に遭遇することも予想できた。肌を合わせることは拒んでいたが、妙子の胸にはそれだけ一層、津田への狂おしいほどの濃密な感情と呆れるほどの純情が錯綜している。だが、良識を楯とする目撃者には、あくまで不純な関係と映るだろう。それでも、この界隈を望んだ。
実際、この辺りは妙子の興味をひくものが多い。例えば、百日紅は本堂の左手など都合三本あった。どれも桃色の花をつけるが、それぞれの違いも楽しんだ。深沙大王堂では、境内の薄暗さに驚いたが、裏手の明るさと併せると、縁結びの神様が祀られている場所らしく、恋愛の真実を象徴していると思った。表の薄暗さが表す苦しみを経て、裏の光が表す歓びを得る、また逆も真なりと、このコントラストを神聖な気持ちで解釈していた。
だが、本当の理由は別にある。深大寺ほか植物園など、緑の豊かなこの界隈では、至る所で様々な生物が、各自の方法によって命を紡いでいる。その事実は、津田も自分も、自然界を構成する生命の一つにすぎないことを妙子に再認識させ、罪悪感から救い出した。ともに緑の海に溶けこみ、単純に恋する生命体になれきれる場所が、深大寺界隈だった。
開福不動堂を過ぎた妙子は、そば屋の並ぶ脇道から山門へ向かった。風鈴の音が爽やかに渡っていく。門前の見事な百日紅に目を奪われていると、年配者の団体が賑やかに近づいてきた。すれ違いざま、ひときわ背の高い男性と楽しげに話をしていた女性が、一瞬、母に見えた。思わず振り返ったが、母と同じく小柄な後ろ姿は、人の陰で見えなくなった。
土産屋をのぞき、かき氷を食べてひと休みした妙子は、本堂の左手の百日紅の下で、津田を待った。百日紅の脇の池には、三十匹ほどの錦鯉がいて、妙子たちは贔屓を決めていた。津田は、目立ちすぎていないのがいいと、小ぶりな金色の鯉を気に入っていた。
所在なさから金色の鯉や自分の贔屓を追ってみたが、津田がいないとどれも同じに見えた。平日の午後で、人影はまばらだった。約束の時間は過ぎていた。蝉が喧しい。三通送ったメールに返信はなく、思い切って電話をと思った矢先に、携帯電話が鳴った。
「ごめん。今日は会えない」
唐突な謝罪が起こす腹立たしさより、無事に津田の声を聞けた安堵が大きく、「打ち合わせがはいったの?」と明るい声で尋ねた。
自営業の津田は、時間の都合がつきやすいが、急な予定が入ることもしばしばあった。
「時間を変えましょうか? それとも、体調が悪いの?」
妙子は、自分より優先される理由を知らなければならないと思った。津田はしばらく黙っていたが、「前から言おうと思っていたんだけど」と苦悩の混じった声で切り出した。
「実は……子どもが……一歳なんだけど……熱を出して……女房は急用で……留守で…」
決して思い出すまいとしてきた津田の妻の淋しげな横顔が、脳裏をよぎった。かつて職場の先輩として、親切にしてくれた人だった。
妙子は、子どもの存在を聞かされていなかったことより、今日、会えないことの方が何倍もつらいのだと自分に言い聞かせた。その気持ちを、何とか津田にも伝えたいと思った。
「少しだけでも、会えない? 何なら、お手伝いに行ってもいいのよ」
「ごめん。これから病院に連れていくから」
「本当にごめん」と今度は小さく言って、電話が切れた。発作のような涙が襲ってきた。池の左手のなんじゃもんじゃの脇に、草田男の句碑がある。以前、津田が「萬緑の……」と読み上げて、「つくづく、いい句だな」と感慨深げに言ったのをぼんやり思い出した。
涙に濡れた顔で見上げると、百日紅の花が風の中で揺れていた。妙子の悲しみをぬぐうようにも、何かに別れを告げようと手を振っているようにも見えた。妙子はそれを拒むために、津田の金色の鯉を必死で探した。
「妙子」とふいにかけられた、懐かしい声に振り向くと、母が優しい眼差しで立っていた。
母は、「お茶でもしない? それとも、おそばがいい? お夕飯ではまだ早いかしらね」と言い、返事を待たずに妙子の鞄を取ると、先に立って歩き出した。慌てて追いかけて鞄を取り返すと、静かに「お帰り」と言った。
母の気に入りのそば屋で、妙子は次第に落ち着きを取り戻していった。先ほど解散したが、友達と植物園に睡蓮を見に来たのだと言った。薄化粧を施し、よそゆきを着ているので、いつもより若々しく華やいで見えた。
「知っていたの?」という妙子の曖昧な問いかけに母は事を察し、「偶然よ」と微笑んだ。
「いつだったかしら、近所の奥さんが、深大寺で大きな鞄を提げたあなたが、男の人といるのを見かけたって」とさりげなく言って残りのそばをすすると、「ああ、美味しかったわ。ごちそうさま」と満足そうに箸を置いた。
「私の運命の赤い糸は、からまっているみたいなの……わかっていたから……だけど、どうにもならなくて……でも……」と詰まり、箸を置いた妙子の目に再び涙が浮かんだのを見てとると、母は「ねえ、私の昔話を聴いてくれない?」と言い、「結婚したばかりのころ、お父さんとよく縁結びの神様にお参りにきたのよ」と静かに語り始めた。
父と母には、結婚前にそれぞれ身も世もなく愛した人がいたが、夫婦になれない事情があった。失恋の痛手を負った者同士の結婚生活は、殺伐としていた。二人の仲を心配した父方の祖父母は、縁結びの神様の深沙大王に夫婦円満の願をかけた。一方、同じ悲しみが同情と理解を生み、やがて愛情へと変わった。父と母は、改めて本当の夫婦になりたいと願い、手に手を取って深沙大王堂へ参拝に出かけるようになった。間もなく母は身ごもった。
「私は幸せね。お別れは少し早かったけれど、お父さんのような素敵な人に出会って、愛し、愛されたんですもの」と母は締めくくった。
店を出ると、妙子は、「お母さんとこういう話をちゃんとしたことがなかったから、嬉しいわ」と朗らかに言い、お参りを提案した。
本堂と元三大師堂を参拝して、深沙大王堂へ向かった。お堂の裏手は、白昼のように明るかった。母と並んで手を合わせながら、これからも、あの光を求めていこうと決めた。
門前の百日紅の辺りで、津田のメールを受けた。「会いたい」とだけある画面を見つめながら、「今度は、私の話を聴いてもらおうかな」と母につぶやいた。家の百日紅があでやかに咲いて、妙子を待っているはずだった。
鈴木 文子(東京都調布市/39歳/女性/主婦)