<第2回応募作品>『小さな幸せを揺らして』著者:鈴木 みつる
大通りに出ると、せわしなく車が行き来する音が聞こえてきた。顔に当たる陽射しの強さから、今日が雲ひとつない晴天だと分かる。
気持ちの良い日だった。僕は額に汗を浮かべながら歩道橋を上り始めた。今日も逢えるかな、そんな淡い期待を胸に抱きながら僕は一歩一歩踏みしめる。右手に持つ杖の握り部分で揺れる小さな御守りが、僕の歩くリズムを作っていた。
「深大寺歩道橋っていうのよ」
幼い頃、手を引いて散歩に連れて行ってくれた母親の言葉は今でも鮮明に残っている。あの時初めて、歩道橋に名前があると僕は知った。上り三十六段、下り三十一段。最初の頃は確かめるように頭の中に数字を並べなければ怖くて歩けなかったが、今では無意識に足が進むべき方向を定めてくれる。
深大寺小学校を右手に、その角を曲がると長い下り坂が待っている。そこから高い石垣に沿って歩き元三大師堂を目指すのが、僕のお気に入りの散歩コースだ。小学校低学年の頃からだから、もう十年は歩き続けていることになる。
頭の上からセミたちの声が響いてくる。天に顔を向けると、その振動が顔にじりじりと伝わってくる。しばらくそうして歩いていると、陽射しが途切れた。心地よい水音の響きは下り坂の終点、大樹の下までやって来たことを知らせてくれる。「不動の瀧よ」と、これもまた母が教えてくれた。この世のものには何でも名前があるんだと知ってからは、母親に質問ばかりしていた。交差点や道にだって、僕の瀬田永路っていう名前と同じように名前があったのだ。
不動の瀧からしばらく歩くと、左手に店が並び建つ。「いらっしゃいませ~」という声に、「瀬田くん今日も帰りに寄ってってね、麦茶入れとくから」という僕に向けられた言葉が聞こえてきた。岩井さんだ。毎日、そうやって声を掛けてくれるとても親切な人で、僕はいつものように「後で寄ってきまーす」と声の主の方に向かって叫び通り過ぎる。
山門の階段はとても急だけど、両隅には竹の手すりがあり、僕は毎日その感触を楽しみながら一歩一歩踏みしめる。最初の頃はザラザラしている竹肌。しばらくすると表面がツルツルしてくる。多くの人がこの手すりを使用しているからだ。ずっとそんなことに神経を向けていたからか、最近は竹の変え時が分かるようになってきた。そろそろだなと思っていると、ある日の朝からまた新しいザラザラした竹になっているのだ。今日の感じからだと、来週か再来週には新しくなるだろう――散歩コースの楽しみは、年月を重ねるたびに増えていく。
そして、一昨日の大雨の日からまたひとつ新鮮な気持ちを抱きながら、僕は散歩するようになっていた。
その日は朝から激しい雨が降っていた。危ないので傘はささず、フード付きの雨合羽を羽織って僕は家を出た。
雨の日は雨音で周囲の音が聞き取りづらく、特に注意が必要だ。人の気配はもちろん、自転車の気配も見逃しがちになる。それに足元が滑りやすくなる。僕はいつもよりアンテナを敏感にさせて参道を歩いた。
山門から先は、歩数を頼りに僕は方向を定めている。正面から線香の匂いを頼りに四十二歩進むと、香炉の前にやって来る。そこから左に進路を変えて二十五歩で井戸の前。さらに斜め左方向に石床を十二歩ほど歩くと、元三大師堂の敷地へと続く階段がある。ここは十四段と短い。山門と同じく左右に設けられている竹の手すりの感触を確かめ、僕は一歩一歩と踏みしめる。
階段を上りきって十七歩で、ようやく元三大師堂の真正面。石段を三段、木階段を五段上がると賽銭場所に到着する。
いつものように小銭を投げ入れ手を合わせ終え、ゆっくりと階段を下り引き返し始めた時だった。濡れていた木段の角を踏み外した僕は、足を取られて二、三段ほど転げ落ちてしまった。痛みはなかったが、油断していたこともありしばらく動けなかった。
まずは両手で周囲を探り、立ち上がろうと力を込めた瞬間、その声が頭上から聞こえてきた。
「大丈夫ですか?」
すっと手が伸びてきた。とても細い指だった。僕の左手首をしっかりとつかみ、「立てますか?」と声を掛けてきた。
「だ、大丈夫です」僕は慌てて言うと、彼女に力を借り立ち上がった。
「雨の日は滑りやすくなるんですよ。気をつけてくださいね」
「つい油断してしまって……。もう大丈夫です」僕はそういうと、杖を握っていないことに気づいた。転んだ瞬間に手放してしまったのだ。
「毎日、ここに来られてますよね? あっ私、ここで巫女をやっている山口由美です。何か困ったことがあったら何でも言ってくださいね。だいたい毎日、ここにいますから」言い終えると、彼女は僕の右手に杖を優しく握らせてくれた。
「本当にありがとうございます」
高まる鼓動に負けないぐらいの早足で、僕は逃げるように境内を出た。それでも彼女の柔らかな手の感触と温もりは、僕の両手から消えることはなかった。
翌日は打って変わって良い天気だった。期待と不安を覚えながら、僕はいつものコースを寸分の狂いなく歩く。元三大師堂に続く階段を上ると、呼吸が早くなっている自分に気づいた。今日も由美さんは来ているのだろうか?
ポケットから小銭を取り出し参拝。周囲に何人かの気配を感じる。たぶん老夫婦と親子がひと組だ。少しいつもより時間をかけて拝んでしまったと思い、僕はやって来た方向に向き直り、階段を慎重に下りる。今度はいつ逢えるんだろう、と思った瞬間だった。背中に声が掛かった。
「あの、ちょっといいですか?」
声の主はもちろん由美さんだった。振り向くと、すぐ近くに気配を感じた。
「ちょっと貸してください」
由美さんは僕の右手から杖を取った。何をするんだろうと思いながらしばらく待っていると、また由美さんが口を開いた。
「よし、これで大丈夫かなぁ。私からのプレゼントです」
返された杖の上端に何かが結び付けられていた。僕はそっと触ってみる。お守り?
「ここのお守り、本当によく効くんです。私も同じのをいつも身に付けてるんです」
「あ、ありがとうございます。あの……」
続く言葉は結局、出てこなかった。なぜそんなに親切にしてくれるんですか、とは言えずに僕は家路に就いた。
家の玄関で靴を脱いでいると、奥の台所から母親が近づいてきた。家の中にはカレーの匂いが充満していた。
「ずいぶん遅かったわね」
そう言ってから少し間を置いて、僕が靴箱に立てかけた杖に気づいたのか尋ねてきた。
「お守り買ってきたの?」
「ううん、もらった」
「誰に?」
「え?」僕は迷った。照れがあったので、その場は「ナイショ」と笑顔を作ってみせた。
「なにそれ」と母親も笑ったが、続けてこう言った。「大事にしなさいね。これ、交通安全のお守りなんだから」
「分かった」
生まれた時から視力を持っていなかった僕は、これまで周囲の人からたくさんの親切を受けてきた。ずっと、ずっと、支えられ助けられ、今ではひとりで生きていけないということを自覚しているほど、多くの人たちから。でも由美さんの親切は、これまでのものとはまったく違っていた。なんだろう……顔を見ていないはずなのに僕の心の中でイメージが膨らんでいったのだ。声の響きやそこにいるという気配。ふたりの距離には無数の空気の粒があるはずなのに、まるで触れ合っているかのような気分なのだ。
翌日から僕にとっての深大寺の散歩は、明らかに変わった。散歩でなくなった。だから額の汗を気にすることなく僕は今日も、横断歩道を越え、深大寺小学校をなぞるように参道へと入り――山門からの百十歩を寸分の狂いもなく爽快と歩く。杖の先端に付いた、小さな幸せを揺らしながら。
「こんにちは。今日も良い天気ですね」
元三大師堂の前までやって来ると、セミたちの鳴き声に負けないぐらい元気な由美さんの声が響く。
この夏、またひとつ散歩の楽しみが増えた。
鈴木 みつる(東京都大田区/29歳/男性/フリーライター)