<第2回応募作品>『蓮の恋』著者:大野 春子
深大寺の山門前の小路には小さなベンチがおかれています。ベンチのそばにはわき水の小川が流れ、朝には楓の古木がさしかける枝の間から木漏れ日が水面に映るのです。その水面に新しい蓮が顔を出しました。小さな蓮はつぼみをもたげて、枝をさしかけてくれる古木に話しかけ、参道を訪れる人を眺めておりました。
ある日、すらりと背の高い男の人がやってきました。まっすぐな鼻梁にはなめらかに眉が連り、涼しげな顔立ちですが、若さに不釣り合いなほど痩せていました。
男の人は蓮のそばのベンチに座って小川を眺めていました。
そこへ小さな男の子が駆けてきました。蓮が二人の方に首を傾けたとき、男の子は蓮を見て
「変な花。汚い色だよ。」
と言いました。蓮は驚き、恥ずかしさでつぼみをたれてしまいました。
「蓮は、それは見事な花が咲くんだよ。」
蓮ははっと顔を上げました。男の子はふうんというと、そば屋の方に駆けていってしまいました。それに気づいたそば屋の若旦那は男の人を見るなり驚いた顔でやってきました。
「おまえ、帰ってたのか。」
古木はようやく男の人が誰か思い出しました。昔、そば屋の息子と一緒に参道を通って小学校に通い、その後も時々深大寺に来ていた人でした。しかしいつからかふっつりと足が途絶えていたのです。
「元気だったか。」と笑う男の人を見たとき、友達は何か言おうと迷ったようでしたが、すぐ笑顔でいつ帰ってきたのかと尋ねました。二人で懐かしそうに言葉を交わしたあと、男の人は真剣な顔で「俺がいることを誰にも知らせないでくれ。」と言いました。友達はしばらく黙ると「わかった。」とだけ答え、店にも来てくれよと言って立ち去りました。
男の人は大きい腕時計を手で押さえて見ると立ち上がり、ゆっくり帰って行きました。
蓮はこれまで自分がどんな姿かということを考えたことがありませんでした。この日から蓮は水面をのぞき込むようになりました。蓮はどうにかして美しい自分を見ようとするのですが、くすんだつぼみを確かめてはため息をつきました。
男の人には家族がいました。お母さんは子供の頃になくなり、お父さんは新しいお母さんを迎えました。新しいお母さんは一生懸命に男の人をかわいがってくれました。まもなくお母さんに男の子が生まれました。家族はずっと幸せに暮らしていました。しかしその幸せは壊れました。
男の人は大学を出て、福岡の会社に就職を決めました。しかしお父さんは納得しませんでした。
「どうしてわざわざ福岡に行くんだ。」
「もう決めたんだ。」
「反対しているんじゃない。理由を聞いてるんだ。まさか死んだお母さんの田舎だからか。それともうちを出たいのか。」
「父さんには関係ないだろ。」
「関係ないわけないだろう!」
平穏な家庭の根っこに残っていた小さな痛みは、突然大きな陰になって現れました。
「どんな思いをして育てたと思ってる。」
「じゃあオレがどんな思いで我慢してきたと思うんだ。いつも遠慮して、居場所を分けてもらってると卑屈になってた俺の気持ちにおまえ、気づいてたか?」
「親に向かっておまえとは何だ!」
二人の怒鳴り声に気づいて部屋に入ってきたお母さんは、やりとりを聞くなり「わたしがダメだったの?」と絞り出すように言いました。
「そういうことじゃないんだよ。これ以上惨めにさせるのか?頼むから説明させないでくれ!」
「おまえ、今まで一言もそんなこと言わなかったじゃないか」
といってお父さんは泣き出してしまいました。二人はたまりにたまった悲しみや苦労をこれでもかと吐き出しあいました。そしてその言葉はお互いを深く傷つけたのでした。
二人が争いに疲れ果て、沈黙が流れた時、弟が高校から帰ってきました。いつも通り部屋に入ってきた弟は、父と兄を見るなり、家族の何かが壊れてしまったことを悟りました。弟にとってもそれは心のどこかで予期していたことだったのかも知れません。
弟の帰宅を合図のようにして兄は出て行きました。それきり、兄は家に帰っては来ませんでした。
男の人は調布に戻ってきました。そして毎日のように深大寺を訪れました。男の人は、時々誰に言うともなしに、「あまり時間はないのに」とつぶやくのでした。蓮は男の人がつぶやくたびにそっと葉の陰から男の人を見上げ、男の人が立ち去るときにはその姿を見送るのでした。
男の人が蓮を眺める時間は次第に増えていきました。いつしか男の人は蓮が自分の話を聞いてくれている気がして、蓮だけに気持ちを話すようになりました。
男の人はもうあまり生きられないことを教えてくれました。調布に帰ってきたのは、一番心残りなことを果たすためでした。「でもどうやって帰ればいいんだろう。俺が死ぬってことを、なんて言えばいいんだろう。」
蓮は男の人の話にじっと耳を傾け、涙をぽとりと落としました。蓮の涙は葉の上で弾み、水面に消えました。道行く人には蓮が風に揺れているようにしかみえなかったことでしょう。しかし、男の人は蓮が泣いているように思えてなりませんでした。
男の人はある時からふっつりとこなくなりました。時々そば屋の若旦那がベンチの方を見ては、店に戻って行きました。あの人は大丈夫だろうかと心配する蓮を古木は優しくなだめました。
数日後、別の人がベンチにやってきました。髪は真っ白ですが老人と言うにはまだ早く、背の高いそのおじさんは若旦那とベンチを指さして話しこみました。そしてベンチにくると一時も離れずに座っていました。おじさんが帰ったのは空に月が高く昇る頃でした。おじさんは来る日も来る日もベンチに座って参道の向こうを見つめていました。
そんな日が幾日続いたでしょうか。蓮のつぼみは次第にふくらみ、柔らかな色に変わっていきました。蓮は男の人を待ちこがれ、水面をのぞき込んでは日一日と変る自分の姿を悲しい顔で見つめるのでした。そしてとうとう蓮は花開きました。花の色はまだはかなげでしたが、行き交う参拝客は皆、足を止めて蓮の花に見入るのでした。蓮は咲いた姿を男の人に見て欲しくてたまりませんでした。しかしあの男の人は現れませんでした。
7日目の夜、いつものようにおじさんは帰って行きました。蓮は今日もがっかりして眠りにつきました。ひんやりした空気が降りてきた頃、蓮はベンチのきしむ音で目を覚ましました。顔を上げると、そこにはあの人が座っていました。男の人はいっそう痩せ、頬には深い陰が刻まれていました。
蓮はあれほど花を見せたいと思っていたのに、男の人を前にした途端その気持ちは消えていました。蓮は男の人の顔に刻まれた影をまっすぐにみつめたのでした。そのとき月の光が指し、蓮は昼の光には映らない突き抜けた白さに照らされました。
蓮は男の人の顔にあった迷いのひとかけらが消えたのを見ました。男の人は立ち上がるとまっすぐにおじさんが帰っていった方角に消えていきました。
「ただいま、母さん」
お母さんは小さく声を上げて息子をみつめました。そして確かめるように息子の肩や腕に手を当てると声を殺して泣きだしました。
「ごめんね、父さん」
お父さんは顔を真っ赤にして背中を丸め、息子の頭をぐしゃぐしゃになで、腕をしっかりつかんだまま放しませんでした。
弟は両親に内緒で福岡に兄を訪ねたことがありました。そのときからさらに背が伸び、髪を明るい色にしていましたが、鼻をつまんで泣くのをこらえる幼時のクセはそのままでした。そして一人笑いながら「兄ちゃん、お帰り。部屋そのまんまだぜ」と言いました。
男の人の部屋は、10年前のままでした。出て行った直後、お父さんはこの部屋を閉め切りました。しかし弟が両親に嘘をついて兄を訪ねたころから、お父さんは男の人が残していった荷物を、家族の記憶を頼りに戻していきました。この部屋だけはお父さんが掃除をしました。男の人はお父さんと二人で夜が更けるまでこの部屋で話をしました。
それから7日目の朝、男の人がやってきました。白髪のおじさんと、小柄で優しそうなおばさんと一緒でした。三人は友達のそば屋から出ると蓮のベンチに腰を下ろしました。男の人は座るのさえ大変そうで、腕を上げると時計は肘まで下がりました。おばさんは蓮を見て言いました。
「あなたは小さい頃、蓮の花をとろうとして、あそこの水生植物園の池に落ちかけたのよ。」
「え?」
「おまえ覚えてないのか。」
「お父さんがあわててあなたをつかんで、びっくりした弾みですごく怒ったのよね。」
「ああ、あのとき。」
「あなたそのとき、お花が欲しかったんだって言って泣いたの。わたしとおなかの赤ちゃんにあげようと思ったんだって言ってね。」
「あれ、蓮だったのか。綺麗な花だとしか覚えてなかった。」
「わたしあのとき、一生かけてあなたのお母さんになるぞと思ったのよ。」
お母さんは「ダメだったけどね。」といって涙ぐみ、ごめんね、かわいそうだったねと震える声で繰り返しながら目をぬぐいました。
「俺は子供になろうと思ってなかったんだな。」男の人は蓮の花を見つめて「今は思うよ」と言いました。
男の人は一人ベンチに残りました。男の人は蓮に触らないように気をつけながら、手を花びらのすぐそばにかざしました。蓮はこの人に会うのはたぶんこれが最後だと悟りました。蓮は花びらの水滴を男の人の手の上にそっと落としました。水滴は手の上で輝いて、すうっと消えました。
それが最後の別れになりました。
蓮の季節が過ぎ、8月も末の頃、黒い車と続く数台の車が参道から境内に入っていきました。明るい髪の、喪服に身を包んだ若者が蓮のいたベンチにきました。蓮の鉢には大きな葉だけが残り、小川には相変わらず澄んだ水が流れておりました。古木はこの若者にそっと枝をさしかけてやりました。若者は後から来た両親とベンチをみつめ、一緒に石段を登って境内に去っていきました。
大野 春子(東京都調布市/30歳/女性/教員)