<第2回応募作品>『何時の間にかセレナーデ』著者:七草 クルミ
しっとりと落ち着いた緑が生い茂り、土産物や楽焼工房、情緒ある店並が幾つも軒を連ねた深大寺の際。佐々木美奈が足を止めた蕎麦屋は、参道へと続くその一角にあった。
時刻は十時を回った頃。店先に立つ美奈の鼻先を、ふんわりとふくよかな香りが掠めてゆく。美奈は、その正体を知っていた。チラリと店内に目をやると、思った通り、店主らしき人物が蕎麦を打っている。それを見るなり、美奈は顔を歪め、忌々しげに舌打ちした。
大学のサークル仲間、宮本圭悟の挑戦を受けてしまったから、美奈は仕方なくここにいるのだ。そうでなければ、わざわざ蕎麦屋になど足を運ぶ訳がない。
苛々と通りに視線を投げていた美奈は、ふと耳を過ぎった声に、呆気なくその臨戦態勢を解いた。
クーン、クーン。
また聞こえる。すぐ傍だ。身体ごと振り向いてみると、茶色の小さな獣は、そこにいた。
まだ仔犬だった。紫陽花の咲くこの季節、昨夜の雨露を含んだ藍色の花房の下で、黒い宝石のような丸い目が、じっと美奈を見上げている。
どちらかと言えば、尖った雰囲気と評されることの多い美奈だが、こと犬に対してだけは例外だった。
「あんた何しとるの?」
声をかけながら、たちまち下がっていく目尻と緩んだ口元。美奈の表情は優しく崩れる。
九州出身の美奈は、東京に出てきてまだ三ヶ月だった。一人暮らしを始めて何が一番寂しいかと言えば、慣れない人間関係でも環境でもなく、犬が傍にいないことだ。実家で飼っていた茶色の柴犬、ロミは、姉妹のいない美奈の妹分とも言える存在だったから。
紫陽花の下に佇む仔犬は、毛色こそ黒いものの、目元はロミにそっくりの柴犬である。美奈が手を差しのべると、仔犬は嬉しそうに顔を突き出した。尻尾をちぎれんばかりに振りながら、小さな舌で舐めてくる。思わず抱き上げてみれば、うっすらと濡れた毛並みから、雨の匂いがした。
「ジュリっていうんですよ」
丁度表に出てきた店の人が教えてくれた。
「へえ、ジュリね。お前もなかなかいい名前じゃないか」
そう言ってジュリの顔を覗き込んだところで、美奈は当初の目的を思い出した。
圭吾との待ち合わせ場所は、この蕎麦屋の前。彼曰く、開店時間ぴったりにということだったが、この店の雰囲気からすると、どうやら未だ準備中らしい。
「こちらのお店は、何時に開くとですか?」
「すみませんねえ、十一時からなんですよ。もう少しお待ち頂くことになりますが」
はあそうですか、と無難な言葉を返しながら、美奈の機嫌は再び降下した。おおよそ、あと五十分近くある。
どうせ、あのトロそうな奴のことだ。至高の日本蕎麦を食べさせるなどと豪語しておきながら、時間を間違えたに違いない。十時に開くというから、きっちり来てやったというのに。
いっそ、このまま帰ってやろうかとも思ったが、腕の中に閉じ込めたままのジュリを見て、ふと考えた。
「ね、お姉さん。この子、今日はお散歩すんどる? もしまだやったら、私が連れて行ってもよかですかね?」
思いついたことは、すぐに口に出す。時折そのせいで酷く後悔したりもするのだが、どうしても止められない美奈の性質だった。しかし意外にも、蕎麦屋の女性は、二つ返事で柴犬のリードを渡してくれた。
佐々木美奈とは、四月に通い始めた大学のサークルで知り合った。熊本県出身で、好きなものは犬と紫色の花。少々九州訛りを残した言葉が初々しく、素朴な土の香りがする。
宮本圭吾は、そんな彼女に初対面から好感を持っていた。更に『そば』に目がないというプロフィールまで付加されれば、興味を持たぬ訳がない。圭吾は無類の日本蕎麦好きだったからだ。
ところが先日、サークル内で大学祭の企画が持ち上がった時のことである。圭悟はその席で、日本蕎麦の模擬店を出そうと提案したのだった。
「麺作りからやるんだ。受けると思うぜ」
お前出来るのか、という仲間の言葉に、もちろん、と圭吾は胸を張った。圭吾の蕎麦打ちは、蕎麦職人の叔父直伝だ。そこそこ美味いと言わせられる自信はあった。だが、
「蕎麦店はつまらん」
横合いから水を差したのが、美奈だった。
「なんで駄目なんだよ? あんただって、蕎麦好きなんだろ?」
「私が好きなのは、中華そば。日本蕎麦は好かん」
美奈の言う『そば』とは、中華そばのことだったのだ。それには納得したが、だからと言って、日本蕎麦を一刀両断にしなくても良いだろう。圭吾は無性に腹立たしくなった。
「あんたの好みはそうかもしれねえけど、日本人なら日本蕎麦だ」
美奈は、ふんと鼻で笑った。
「日本人イコール日本蕎麦? ずいぶんと単細胞な展開だね。よか? 日本は海外の多様な文化を取り入れて吸収し、それを自らの食文化に根付かせて来たとよ。中華そばこそが、今じゃ国民人気のNO1なの」
既に話題はサークルの模擬店から、日本と中華の蕎麦対決に変わってしまっていたが、二人の言い争いを止める者はいなかった。
圭悟の脳裏を、ひたすら蕎麦に情熱を捧げた叔父の姿が過ぎった。
いつも蕎麦の温度に気を配り、蕎麦が風邪を引かないようにと工夫を凝らす。頑固なこだわりと溢れんばかりの研究心、水や蕎麦粉のみならず、道具の一つ一つにまで決して妥協はしない。蕎麦好きが高じてサラリーマンから足を洗い、とうとう蕎麦作りに専念するようになった叔父を、圭悟は密かに尊敬していた。
叔父が、蕎麦打ちの最中に急死したのは、五年前の春だった。
「最後まで情熱の中で生きられたのだから、あの人も本望だったと思います」
きっぱりとそう言った叔母の姿に、圭悟は感動を覚えた。
大事なのは命の長さではなく、その中でどう生きるのかという事。蕎麦に捧げた叔父の生き方は、圭吾に鮮烈な思いを残した。
だからこそ、美奈の言葉は許せなかった。圭悟にとっては、日本蕎麦を罵倒する者は、叔父を侮辱するにも等しい。それほどまで言うなら、美味い日本蕎麦というものを食べさせてやる。そして、前言を撤回させてやる。
宮本圭悟が佐々木美奈に挑戦状を叩き付けるに至るまでには、こんな経過があったのだ。
しかし、その決戦当日。圭吾は必死で目的地へと走っていた。意気込みだけで最終確認を怠っていたのだ。まったく、開店時間を読み間違えるなんて、どうかしている。
とっくに帰ってしまったと思っていた。だから、黒い柴犬を連れた美奈に蕎麦屋の前で出くわした時、圭吾は思わず言葉を失った。
美奈の実家は、熊本で小さな中華そば店を営んでいた。近くには老舗の日本蕎麦店があって、晦日ともなると店員を増員し、即売店を出す程の賑わいをみせる。それに対して、実家の経営状況はあまり芳しくなく、美奈の父親は、その店に酷く劣等感を持っていた。
「あんな偏狭な性格だから、店も流行らんかったんよ。日本蕎麦のせいじゃなかね」
美奈は小さな声でそう言って、最後の麺をすすった。
本日一番乗りのお客のための蕎麦。新蕎麦にこだわる人なら避けるかもしれない今の季節でも、その艶やかな喉越しと歯触りは、美奈の心を柔らかく解きほぐす。
今時珍しい話だが、美奈は、日本蕎麦を食べたことがなかった。機会を与えられることの無い生活環境に加え、親から叩き込まれた日本蕎麦に対するひけ目とライバル心が、更に美奈の反発心を煽った。そしていつしか、蕎麦と聞いただけで鳥肌がたつようになってしまったのだ。
「本当は、一度食べてみたかったの。けど、親を裏切るみたいじゃなか?」
箸を置いて苦笑する美奈に、圭吾は八割方の期待を持って尋ねてみた。
「んで、結果はどうよ?」
「美味しかったよ、悔しかなあ」
照れ臭そうに顔を背けた美奈の視線の先には、道端一杯に広がる紫陽花があった。その葉陰から仔犬の尻尾がぱたぱたと揺れている。
美奈が好きなものは、犬と青い花。
圭吾が好きなものは、日本蕎麦と土の香り。
心地良いものに囲まれていれば、人間誰でも素直になれるものかもしれない。
「また、散歩に連れていきたかな。ね、今度はいつ食べにくる?」
美奈はそう言って、穏やかに笑った。
「ジュリの都合次第だな」
圭吾は答えて、仔犬の上で揺れる青い花房に目を細めた。
七草 クルミ(東京都小平市/26歳/女性/グラフィックデザイナー)