<第2回応募作品>『なんじゃもんじゃの木の前で』著者:大谷 重司
哲也が自分のアパートの近くに奇妙な名前の木があることを知ったのは、見知らぬメールの相手の書き込みからだった。「なんじゃもんじゃの木」と一度聞けば覚えてしまうおもしろい名前だった。その木がどんな木だろうと彼にとってあまり意味はない。問題はなんじゃもんじゃの木の前でメールフレンドと初対面を果たす事だけが大切なことだった。
秋空の抜けるような鮮やかな青に細井雲の群れがうっすらと色を淡くしてきた。深大寺に隣接する神代植物公園でバラフェスタをやっているということを彼女のメールから知った。入り口を眺めると大勢の人たちでにぎわっていた。神代植物公園の入り口にはバスを待つ人たちが行列をなしている。
哲也は一人ではバラフェスタのイベントなどに来ることなど考えたこともなかったが、週末の夕方にバラの芝生でボサノバライブを聞いてみるのもいいかと考えた。それには二人で来るのが良いに違いない。
熱風を吐き出すバスが大勢の人を詰め込んで通り過ぎた。太った初老の男女がバスの中でひしめいているのが見えた。小さな真紅のバラを抱えている人が目立つ。優雅なバラの香りが漂っていた。
哲也はこの調布でソフト開発の会社に入って三年になるが、会社から歩いて五分のところにアパートがあるため、深大寺の周辺を気晴らしに散策することが多かった。そんな時に、気まぐれにバラの鉢を買った。だが、手入れの方法が判らずネットであちこち調べていた。そのうちに掲示板で親切な人と知り合うことができた。その相手が女性で同じ町内に住んでいることが判り、とうとう会うことになったのだ。
相手の女性は待ち合わせの場所に深大寺の「なんじゃもんじゃの木」の前を指定してきた。しかし哲也は花や植物に関して詳しくない。なんじゃもんじゃの木がどんな木なのか、どこにあるのかもしらなかった。さらに強度の近視でほとんどのものがぼやけて見えていた。なんとか約束の五時に間に合えばいいと考えていた。携帯電話番号や携帯電話のメールアドレスを遠慮して聞き出さずにいたのだった。
どこをどう歩いているのかバス通を歩いていたが、林があったりして道がわからなくなっていた。
どこかで道を尋ねないといけない。店らしき所を探し、暖簾をくぐると素朴なそばの匂いがした。笑顔で迎えてくれたおばさんと眼があった。
「あの、このあたりに、なんじゃもんじゃの木ってのがあるって聞いたんですが……」
笑顔のおばさんは一瞬瞬きをしてから頭を傾げた。
「そうだねえ、なんじゃもんじゃの木ならこの店の前の坂道を登ってさ、突き当たりの嚏字路にある太い木がそれだよ」
哲也は言われた通に歩いてみた。古いそば屋が何件も並んでいた。水車があったり、龍の形をした鉄の口から水を流していたりと歴史を感じさせた。
言われた通に歩いていたが、それらしき道にこない。約束の時間は迫ってくるが、たどり着けそうになかった。辺りは木が多いためか夕暮れが早いようにも思えた。果たしてなんじゃもんじゃの木とはどんな木なのかを聞いておけばよかったと後悔した。
夕闇が木立を黒く染め、ムクドリの羽ばたきが木陰から聞こえた。時計を見ると約束の五時を遥かに過ぎていた。目の前にはのっぺりとした大木が立っていた。巨木は大きな枝を力強く広く伸ばしていた。巨木がなんじゃもんじゃの木だと知るのは後のことだった。すっかり暗くなった道を哲也は大きな街道まで戻った。
彼はアパートに戻ってから、なんじゃもんじゃの木をウェブで探してみた。「その土地の道しるべとなる巨木で、6月にはヘリコプターのような形の白い花が咲く」ということが分かった。彼女はどこからでも見える巨大な木なら目印にいいと思ったのだろう。即座に哲也はメールを打ち込んだ。道に迷ってしまい、どこになんじゃもんじゃの木があるのかが分からなかったことを。さらに勇気を出してあまり眼がよく見えないことを書き添えておいた。それから明日の日曜日にこそ確実に会うことができるようにと自分の携帯電話番号を書き添えておいた。
メールの前後から想像して、彼女は神代植物園で働いているか、深大寺のどこかの花屋で働いているのではないかと思っていた。バラのことを質問しても即座に的確な答えが帰ってきた。それが趣味からくる知識なのか、専門的な知識なのかは分からない。
夜中に彼女からメールが届いた。約束の5時から三十分、待っていたこと。バラフェスタでいっしょにライトアップされたバラ園を見にいきたいがライブ演奏には興味がないという。仕事ガ終わった五時になんじゃもんじゃの木の前で赤いふうせんを持って行くという。最後に嫌われるかもしれないと書き添えてあった。
哲也は不思議だった。赤いふうせんは、こちらから見やすくするためだろうが、ライブには興味がないというのはどうしてなのだ。思ったよりも年長の女性なのかもしれない。それに今回も携帯電話番号を教えてくれなかった。
とりあえずはバラの栽培のアドバイスのお礼をする。そして神代植物公園でバラ見物といきたかった。
翌日の日曜日、早めになんじゃもんじゃの木の前に行っていた。哲也はなんじゃもんじゃの木のそばでじっくり眺めた。あまりにも巨木で高さがどこまであるのか分からない。花が雪が降ったように咲くとはどんなものか想像できなかった。そうしている間にも緊張していた。時計を見ると五時までには十八分ある。
彼女のメールの書き込みを思い出した。
「バラは絶えず病気との戦。害虫にも狙われる。でも心をこめると必ず大輪の花弁をつけて答えてくれる……」
バラに感情移入する女性とは、何か秘ごとがあるに違いない。
哲也は普段は箪笥にしまいこんである黒縁の眼がねをかけてきた。部厚い眼鏡をするのは恥ずかしかったが、彼女の姿をはっきりと見ておきたかった。
カラスの群が騒がしく声を上げて深大寺の屋根の上を飛来した。静けさが増した。
道路から視線を上に上げると一人の女性がこちらに向かってきた。哲也の胸は締め付けられるように呼吸が止まった。近づいてきた女性の手には赤い物が見えた。風船を持った女性がこちらを見ている。その眼は恥じらいで下を向いた。痩せた肩、乾いて薄い額の上にカールした前髪があった。彼女は顔を上げ真剣な顔をしてから、細い腕を動かした。彼女は自分の耳に手をあてて両手でクロスした。
黒縁の目がねに張り付いた薄暗い空は動かず凸レンズに隠れた石灰石のような瞳は動かない。二人の間に重い沈黙があった。哲也は彼女の目を見つめてうなずいた。これまで携帯電話の番号を教えてくれなかったことも、ライブには興味がないとメールに書いていたこともなにもかも納得することができた。
彼女は鞄からメモ帳を取り出してボールペンで書き始めた。
「私は神代植物公園の職員です。バラの栽培が専門です。私の育てたバラたちを見てください。それから、あのバラは元気にしてますか?」
哲也はポケットから写真を取り出して見せた。バラの写真を覗き込んだ彼女は初めて笑った。哲也は彼女の持っていたメモ帳にボールペンを走らせてお礼の言葉を書いた。顔を見ているよりもメールのやり取りの調子が出てきて切れ目なく文字が出てきた。
彼女は薬害で高熱から耳が聞こえなくなったという。何年も病気と闘ってきて、花に癒されてきた。そしていつしかバラを栽培する仕事についたのだと言う。
「ねえ、これってチャットしてるのと変わりないね」
彼女は上目図解をして見つめてから
「これはチャットではありません。筆記ですから……」
「そうか筆記ですか、それならチャーント筆記します」
哲也は「チャーント」の横線を長く引っ張った。彼女はそれを見て笑い声を上げた。無邪気な笑い声だった。彼女の持っていた赤い風船が振動した。早船哲也はそれを見て思いついた。風船に向かってハミングした。風船は細かく震えた。
「野外ライブに風船を持っていこう。こんな風にするんだ」
風船を彼女に触らせて声を出してみた。彼女は風船をしばらく触ってからニコニコしてウナズイタ。
哲也は彼女の前に手を出した。彼女は自然に手を握ってきた。そして二人は神代植物公園に向かって歩いた。
二人の後ろ姿は、植物公園の大勢の人たちに紛れてしまった。
大谷 重司(東京都調布市/48歳/男性/鍼灸師)