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<第2回応募作品>『水連』著者:EY

「また行くの?もう暗くなるのに」
「コンクール、近いから」
杏子は授業の終わりとともにあわただしくかばんを肩にかける。
「ねえ、もう水連も終わりなんじゃ・・」
背中にかかる友人の声に聞こえないふりをして、杏子は足早に教室を出た。
杏子の通う都内の美術大学から、電車とバスを乗り継いで45分。
調布市のちょっとした観光名所といえば深大寺である。
杏子はここに隣接する東京都立神代植物公園へ、水連の花を写生するために通っている。
「いつもいつも、がんばってるね」
植物園の受付のおじさんにはもう顔を覚えられたらしい。
閉館間もない時間、ばたばたと走って植物園にくる若者はそういないのだろう。
まっすぐに水連の池に向かい、スケッチブックを広げる。
9月も後半の、ようやっと秋の声の聞こえる今の時期、水連は公園内に建てられた温室にも見ることができる。しかし杏子は、池でひっそりと咲く和ものの水連の、派手でないながら凛とした美しさが好きだった。水面からそっと上に向いて開く桃色の花弁を見ると、自分も少し空を見上げたくなった。
しかし目の前の景色は、広げたスケッチブックのものとは、もう異なっていた。
水連の時期は終わりかけ、絵の中のみずみずしい花弁とは対照的に、しおれかけた花びらが水面にたれている。
もとい、杏子のキャンバスのなかの水連はもう細部まで綺麗に下書きをされ、これ以上写生として手を加える必要もないものにも思えた。
申し訳程度に鉛筆を滑らせて数十分後、閉館の案内が流れはじめた。
スケッチブックを脇に抱え、植物公園を出て深大寺の中を歩く。
ゆっくりと、自然を感じながら。
そして曲がり角の蕎麦屋に差し掛かったとき、無意識に敏感になった目がある姿をとらえ、心臓がどくんと跳ねる。
ちょうど、背の高い青年が屋外のテーブルを拭いているところだった。
深大寺のなかの、ある蕎麦屋の次男坊。名前は将義という。
杏子がはじめてここに来たのは半年前だった。
東京で花の写生なら深大寺よ、と断言した大学の先輩は、その日のうちに杏子を京王線に乗せた。
ひとしきり大きな公園を案内したあと、「深大寺といえば有名なのは蕎麦!」と連れてきたのがこの蕎麦屋だった。
正直、杏子はそのときの蕎麦の味など思い出せない。
何度思い返しても、うつむき加減にエプロンで手を拭くあの後ろ姿が浮かぶばかりだ。
 心臓の音を隠すように、ただただ味のしない蕎麦を夢中ですすっていた。
それから杏子は、時間の許す限り調布に通い続けた。
美大の忙しいスケジュールと、来るまでにかかる時間のため毎日とはいかなかったが、できる限りの時間を尽くして植物園の門をくぐった。
誰かに言い訳をするかのようにスケッチブックを小脇に抱えて。
そして帰り道にわざわざ深大寺のなかをゆっくりまわり、そっと蕎麦屋の様子を伺うのが習慣になった。
どうせここまで来たのだから、中に入って食事をすればいいのに、その勇気はどうしても出なかった。
彼の働く店は、屋外にもテーブル席が設けられている。
客にどんぶりを運ぶ彼の姿を見つけると、杏子は真っ赤な顔を隠すように向かいの土産物屋を物色した。
店頭に置かれたでんでん太鼓や、蒸篭でいい匂いをさせてふかされている草饅頭を見るふりをして、神経は杏子の背中の後ろで仕事をしているはずの将義に集中する。
そのときの杏子の体は、自分でも驚くほど五感がとぎ澄まされ、背中からでも彼の表情が見えるようだった。
事実、彼は大きくよく通る声をしていて、客ともにぎやかに会話していることが多かった。
常連らしい年配客たちとの会話から得たところ、この蕎麦屋の次男坊で、大学4年生。
将義という名前も、客たちとの会話から聞こえてきたものだ。
長男はサラリーマンをしていて、ゆくゆくは自分が店を継ぐつもりだ。
今は親に許しを貰って都内の大学の経営学部に在籍している。
「店をやってくから経営も必要かなって思ったけど、あんまり難しいこと考えるのは得意じゃないっすね。感覚で生きてるんで」   
そう言って心地よい笑い声を響かせる将義の顔を目の端に捉える瞬間、杏子は嬉しさともどかしさのない交ぜになった、言いようのない気持ちになるのだった。
今日も杏子は、スケッチブックを小脇に抱えてあの店の前を通りかかる。
いつもの場所に、彼は、いた。
今日は外テーブルに客は座っておらず、将義は空のテーブルを一つ一つ拭いている。
丁寧な動作だった。地味な作業にも手を抜かないどころか、真剣な目で店を見つめる姿からは店への愛着がにじみでていた。
思わずその姿に見入っていると、ふいに将義が顔を上げた。視線がぶつかる。杏子は条件反射のようにぱっと目をそらす。
不自然に思われないよう先を歩こうとした、そのときだった。将義がこちらを向き、ゆっくりと近づいて来た。
こちら側の店にでも何か用事があるのだろう。そう信じ込んでいる杏子のもとへ将義はまっすぐに歩いてきて、目の前でぴたっと止まると、長い指で杏子の手元を指差した。
「それ、見てもいい?」
杏子のスケッチブックのことを言っているのだと気づくのに数秒かかった。
「え、はい、どうぞ」
なにが起きたというのだろう。
言われるがままに突き出すようにしたスケッチブックをぱらぱらとめくっていた将義は、あるページで手を止めた。
「これ、きれいだな。水連」
それはつい先ほどまで杏子が取り組んでいた作品だった。
「植物園のおっちゃんが、いつも言うんだ。閉館ギリギリまで絵を描いてるコがいるってさ」
「植物園、行かれるんですか」
「ああ、なにしろこんな近くだからな。それこそガキのころは、動物園か遊園地みたいに通ったよ。」
聞けば将義は生まれたときからここに住み、深大寺と植物公園を庭のようにして過ごしてきたのだという。
「水連、今年もきれいに咲いてたな。でももう枯れてきてるだろ?」
 その彼の口調は、自分の店やそばについて話すときのそれと似ていた。
しばらく杏子の水連に目を落としていた将義は、やがて口を開いた。
「これ、ゆずってもらえないかな」
「えっ?」
「店に飾りたいんだ」
あまりの突然な申し出に、杏子は動揺した。そして次の瞬間に発した言葉には自分でも驚いた。
「コンクールに、出そうと思って」
たしかに友人にはそう言っていつも写生に来てはいたが、正直そこまでの執着はなかった。せっかくのチャンスに何を言っているのだと、自分に呆れる。
しかし将義は真剣な面持ちで続けた。
「そっか。上手いもんな、出さなきゃもったいないわ。じゃあ、コンクールに出して、この絵が戻ってきたら、くれないかな。それまで待つよ。もちろん、お礼もする」
そう言われて、断る理由など思いつかない。
「そんな、お礼なんて。この絵でよければ喜んで。まだ完成してもいませんけど」
「ほんとに?じゃあ、よろしく頼むよ」
切れ長の目がいっそう優しくなり、笑ったのだと気づく。吸い込まれそうな瞳だった。
別れ際、手を振り彼は言った。
「その絵、もらえるのだいぶ先だな。入賞作ってなかなか返ってこないんだろ」
翌日から杏子は、ますます水連にうちこんだ。コンクールまではほとんど日がなかったが、その間ひたすらキャンバスに向かった。そしてどうにか締め切りぎりぎりに、あの真っ白な水連の写生画を完成させた。
今まで理由付けでしかなかったはずのコンクールが、急に大きなものになっていた。
コンクールの入賞作なら将義の店に飾られても恥ずかしくない、などと考えたりした。
ところが、残念ながら淡い期待は見事に打ち砕かれた。
杏子の水連は何の賞にも選ばれることなく、早々に手元に返ってきた。
期待を裏切って自分のもとへ戻った絵を抱え、杏子はただ惨めな思いを噛み締めた。
入賞できなかったことよりも、将義に褒められた絵なら入賞も夢ではないのでは、などと何の根拠もなく考えていた自分がばからしかった。
あの水連がただの一枚の絵になって戻った日、杏子はまた植物園に向かっていた。
悲しみと悔しさの中でぼんやりと、「絵ができたら見せて欲しい」と笑った植物園のおじさんを思い出したのだ。
 
植物公園前でバスを降りたとき、見慣れた顔と目が合った。
「よう。あの絵、どうなった?」
なにより嬉しい存在のはずが、今はまともに顔を見ることができなかった。
「落ちました」 
ようやくそれだけ言葉を吐き出し、抱えた絵に目を落とす。
将義はなんでもないことのように言った。
「そうか。審査員も大したことねえな。じゃあさ、返ってきたならゆずってくれよ」
そう言って腕を伸ばす将義に、杏子はあわてて後ずさった。
「だめです。そんな、落選した絵なんてあげられません。飾ってもらう資格ありません」
将義は杏子の剣幕に少したじろいだが、しばし黙ってから静かに言った。
「もらえないなら、交換ならどうかな」
そして、杏子を促してずいずいと歩きはじめた。
一瞬あっけにとられたが、杏子もあわててそのあとをついて行った。
着いたのは将義の家である、あの蕎麦屋だった。
いつも前を通っていたが実際に入るのは二度目だ。
将義は奥から段ボール箱を出してくると言った。
「この中で好きなものと交換。」
何がなんだかわからないまま、杏子は言われるがままに箱を見た。でんでん太鼓や赤駒、だるまなど小さなみやげ物がたくさん入っている。
すぐには気づかなかったが、それには見覚えがあった。
それは杏子が将義の店の前を通る際、いつも背を向けて物色していた土産物屋の土産たちだった。
「いつも、見てただろ。何が欲しいのか、わかんなかったから・・」
ふと顔を上げると、照れくさそうに横を向く将義の姿があった。心なしか頬が染まっている。
「結局、どれが欲しかったの?」
将義はばつ悪そうに頭をかいている。杏子は見上げるほどの位置にあるその顔をまっすぐ見つめ、静かに言った。
「あなたです」
 高いシルエットの姿の向こうで、夏の終わりを告げる蝉の声が、力強く鳴り響いていた。

EY(東京都調布市/23歳/女性/会社員)

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