<第2回応募作品>『その、ひとこと』著者:小田切 おすた
何だか落ち着かぬ様子のボクはさっきから何杯もお茶を飲んでいた。頼んだあんみつには手をつけず、何度も自分の手鏡で髪型を気にし、その時間が来るのを待っていた。
ボクよりはるか年上、もう二十歳になったであろうか、そんな女性にボクは恋をしていた。原田夏海。ボクが幼い頃によく遊んでくれた、まるでお姉ちゃんのような人だった。一人っこであまり人と接するのが得意でないボクにそっと手を差し伸べてくれた彼女、いつも優しくて元気いっぱいで、そして笑顔がきれいで。ボクは彼女が大好きだった。
やがてボクは東京から地方へ引っ越し、彼女との連絡もとれぬまま何年か経った。離れてから気がついた、ボクは彼女を愛してるってことを。きっとそれは初恋だったんだ。そして今も、思いは変わらぬままボクの胸に燃え続けている。
中学三年生、一番大事なこの夏の時期にボクは彼女に会うためにこの町へ帰ってきた。久々の電話での会話、ダメもとで誘った彼女とのデートがもうすぐで現実になる。いつもの待ち合わせ場所、大師茶屋に午後一時。ちょっと懐かしい集合場所だ。ボクは一時間も早く着いてあれこれと考えていた。今日、思いを伝えなければきっとボクは一生後悔したまま生きていくことになる。ボクは決心した。
告白しよう。
そんな勇気が自分にあるのか定かではないが、もうやるしかないんだ。好きだって、その一言が言えればボクはそれだけでいい。後はどうなったって構わない。
店の外は多くの客で混みあっていた。浴衣を着たカップルがやけに目につく。ボクも今日は張り切って自腹で買った涼しげな色をした浴衣を着た。下駄は百円ショップ、髪の毛は朝一番で美容室でカットしてもらった。準備は万全だ。後は心次第。
ふと、外を歩く人の中に気になる人を見つけた。色鮮やかな浴衣に、髪を上に結わき、うっすらと頬のあたりに化粧を施した若い女性。どこか見覚えのある、くりっとした瞳。まさか。ボクはその女性をよく観察した。間違えない。夏海さんだ。でもなぜ?まだ約束の時間まで一時間以上ある。ボクと同じことを考えたのか?
あれこれと考える間もなく、一人の男が夏海さんの前に現れた。ボクは胸が急に締め付けられたような感覚に襲われた。夏海さんと同い年くらい、ボクより全然背が高く、キリリとした顔立ちに今時の男らしい格好いい浴衣を着ていた。ボクは席を立ち上がった。夏海さんと男は会話をしながら、大師茶屋の前を去っていった。ボクは泣き出しそうな思いをぐっとこらえ、店を出た。
来た時より人が多い。二人が動きだしてすぐ店を出たはずなのに、すでに二人を見失いそうになった。こんなんじゃ目で追っても無駄だ。ボクは瞼を閉じた。人の声、靴の音、蝉の合唱、風の歌。聞きとるものはただ一つ、夏海さんの澄んだ声。聴覚を集中させ、溢れ返った音をかき分けて夏海さんの声を探った。
「・・・それでね」
見つけた。この道の先、きっと二人は深沙大王堂のある方向へ向かっているはずだ。ボクは気持ちを抑えきれず、とうとう走りだした。
声を追い、いつの間にか深沙大王堂を過ぎて、趣ある道、緑のアーチを進んで行くと、万霊塔の近くのベンチにちょこんと座る二人を見つけた。ボクは息を切らしながら、二人の会話が聞こえる少し離れた所で気づかれないような突っ立っていた。
「でね、四月にある花祭りなんかすっごいの」
どうやらこの深大寺で行われる祭りの話をしているようだ。花祭りは確かにボクも好きだった。小さな時は一つの祭りも欠かすことなく、二人でよく行ったものだった。
「そっか。じゃあ来年のは行ってみようかな」
男が言った。なんて味気ない応答なんだろう。格好はよくても意外と不器用そうな印象だ。彼のどこが好きなんだ?そもそも彼は夏海さんのいったい何なんだ?頼むから、これ以上ボクを苦しめないで。
二人はベンチから立ち上がり、再び歩き始めた。ボクはその後を音もなく追った。
道の左側、男が右で夏海さんが左に並び、互い違いにカランコロンと下駄を鳴らす。たまに二人のその音が重なると、ボクは息ができなくなる。道の右側、二人から数メートル離れた所を歩くボク、そのボクを必死に追いかけるボクの影はきっと脆く、隙間だらけの闇であろうとボクは見向きもせずに決めつけた。木陰と重なり、消えた影の足跡をむなしさが辿ってついてくる。
小川に掛かる橋、夏海さんはその上から流るる水の輝きを見つめていた。ゆっくり、そして静かに川は変わることなく涼しげな音を奏で続けた。さらさらと、それは夏色に染まり、光を跳ね返して夏海さんの肌を照らし出すと、ボクはその光にさえ嫉妬した。好きだという気持ちが過剰に、何もかもを否定しようとする。そんな自分が嫌だった。もう諦めるべきなのかもしれない。初めから告白なんて無理だったんだ。二人の後をついてくること事態、おかしなことだったんだ。
「きれいだねー、水。やっぱ夏の川って見てて楽しくなってくるよね」
「そうだね。でもそれを見てる夏海こそ、楽しく見えるよ」
「それどういう意味よー?」
いたずらっぼく笑みを浮かべながら、夏海さんは男の顔を見つめていた。男は夏海さんをチラと見、川に視線を移した。
「そのまんまの意味だよ」
まるで恋人同士のようだ。夏海さんの、男に見せるその笑顔があまりに眩しすぎた。こんなキザな男に、何の取り柄もないボクが勝てるはずがない。しかも夏海さんにとってボクは弟のような存在でしかない。ただそれだけの感覚しかきっとないはずだ。ボクはこんなにも愛でているのに。ボクにとっての夏海さんは、もう面倒見のいいお姉さんじゃなく、一人の恋人なんだ。たった一つの、大切な宝なんだ。この気持ち、伝わって・・・
好きだ。
二人は山門をくぐって本堂に向かって行った。ボクは二人のいなくなった橋の上でしばらくたそがれた。今ならこの時間はいくらあっても足りない。できれば気のすむまでずっとこの流れを眺めていたい。できれば、ずっと。
本堂はどこよりも多く、人々が集まっていた。もうボクは完全に二人を見失っていた。それでも二人がどこに向かうか、それだけは承知だった。ボクは重い足取りで人の流れに逆らってひたすら前進した。
本堂、賽銭箱に飛び込むお金の放つ高い響き。両手を重ね、心で囁く小さな言葉たち。ボクはそんなのを目にしながら、なんじゃもんじゃの木の木陰で休んでいる二人を見つけた。ボクは自分の腕時計に目を向けた。もうまもなく一時、約束の時間だ。ボクはもうあの店に戻る意味をなくしていた。あそこに何が待っているのか、ボクには分からなかった。
「夏海さ」
改まった声で男が言う。夏海さんも真面目な表情で男を見る。
「俺、今日短い間だったけど、デートできてめっちゃ嬉しかった・・・で、そのぉ・・・」
ぎこちなさげに男は言葉に詰まっていた。ボクは誰かが告白しようとしている所を初めて見た。生唾をごくりと飲む。足が震えてまともに立ってなどいられない。
「俺・・・その・・・夏海と一緒にいたいんだ。これからも、ずっと。だから、その・・・ダメかな?」
間接的に言い切った男は顔を赤らめながら答えを待った。はっきりしろよ。好きなら好きって、しっかり伝えなきゃ、お前の目の前にいる恋人が気持ちよく答えが出せないじゃないか。
夏海さんは困った様子で視線を地面に落としていた。少し涙目の夏海さんの瞳が瞬きをする度にキラリと光る。
「私、実はね・・・すごく大切で、大好きな人がいるんだけど。それはね・・・」
夏海さんが男の不安に満ちた顔を見た。夏海さんの唇が震えている。二人の鼓動がそのままボクの胸に届き、連動する。ボクは我慢しきれず、その場から逃げ出した。嘘だ。そんな。嫌だ・・・嫌だ!
ボクは泣いた。泣いて、走って、石につまずきながら、それでも走って、走って・・・大師茶屋の店の前で立ち止まり、その場で泣き崩れた。愛していた。大好きだった。夏海さんが好きで好きで・・・夏海さんがいてくれたから、どんな苦境も乗り越えられたのに・・・もうボクには夏海さんが見えなくなってしまった。
いないんだ、ボクには夏海さんが。
通り過ぎゆく人々の中に、ポツリとしゃがみこんでいるボクはきっと邪魔という言葉以外の何ものでもないであろう。邪魔なものは除外される。それが世界の掟だ。ボクは捨てられ、どこか誰もいない所に屍となって放置される。そういう運命なんだ。
ふと、ボクの頭の上、温かくて柔らかいものがボクを撫でていた。ゆっくりと顔を上げる。ぼやけた霧の中、確かに目に映る夏海さんの姿。なぜ?なぜここに?こんなに近くに夏海さんがいるのにその実感がなかなか沸いてこない。好きじゃないのか?わざわざ夏海さんが来てくれたんだぞ。伝えなきゃいけないことがあるんだろ?言えよ。
必死に唇を動かしているのに、言葉が喉に詰まって出てこない。言いたい。伝えなきゃ。ボクは大げさに口を動かして、せめて夏海さんに伝わるように言葉を表した。
す、き、だ。
それを見た夏海さんはボクと同じようにわっと泣き出し、ボクを抱いた。しゃがんだまま、苦しいだなんて感じもせずにボクは夏海さんに身を委ねた。
「おかえりなさい・・・私の大切な人」
ボクの瞳からまた涙の粒が溢れた。夏海さんはボクの帰りをずっと待ってくれていたんだ。こんな幸せはない。こんな素晴らしい人はいない。
ボクは夏海さんを一生守っていこうと、夏海さんを優しく抱擁した。二人の鼓動は不思議と重なっていた。
気のせいだろうか。すぐそこの木の影、あの男が微笑みながらこちらを見ていたのは。一つ瞬きをしてみたら、姿は一変、それは人間ではなくなった。そしてボクは、分かってしまった。
その一言を言わせたのは、ずっとボクらを見守っていた、縁結びの神様だってことを。
小田切 おすた(東京都町田市/18歳/男性/学生)