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<第2回応募作品>『優しい時間は終わらない』著者:岩脇 忠弘

「美里ちゃん! すゑばあちゃんがいなくなったんだって?」
 町内一情報ツウの隣のオバサン、杉村さんが飛び込んできた。病院からの帰り道、ちょっと遅いので母が探しに行っただけなのに。
お天気ならたいてい祖母は病院から歩いて帰ってくる。
「ボケてなかったわよね」
 杉村さんのことばには遠慮がない。
「友だちのところに寄っているのかも」
「ケイタイ持たせた方がいいわよ。あたしだって持ってんだから、ほら」
 スイッチとボタンだけのシンプルな携帯。
「最近物騒だからさ、孫には、なんか、どこにいるか分かる携帯があるらしいのよ、それ持たせろって、息子に言ってんだけどさ。幸子さんがウンて言わないのよ」
(……結局はお嫁さんのグチか。)
「若い人のはなんかすごいんでしょ、音楽聴けたり、買い物できたり…… ちょっとそこまでお買い物いってくるから、見つかったらこっちに電話して。紙きれと鉛筆ある?」
 渡すと自分の電話番号をスラスラ書いた。
 さてはこれで情報を仕入れ、ばら撒いているのか?
 杉村さんの勢いに急かされたわけではないが、少し心配になり母にコールしてみる。
なんだ、また電源切れてる。
電車に乗るとき母は、マナーだと言っていつも電源を切る。なんのことはない、シルバーシートに座る罪悪感を少しでも和らげるためだ。「疲れてるときはいいの」と言っていつも座っている。そして電源を切ったことをそのまま忘れてしまう。相手の電源が切れていれば、自分の携帯も意味がない。
 窓から空を見上げると、夕立が来そうな雲ゆきになっていた。少し心配になってきた。急いで洗濯物を取り込み、カサを三本持って家を飛び出した。
(おばあちゃんはいつも深大寺の入り口を通ってくるから……)
はたして、祖母はそこにいた。
「おばあちゃん!」
 大きい声を出したのに、気づかない。
「おぅばぁあちぃやん!!」
 ゆっくり大声で。しかし祖母は何かを見つめたまま。もしかすると杉村のオバサンの言うとおり…… いやそんなことはない。父も母も私を呼ぶときに、まず兄の名前を言って、すぐ間違いに気づき、言い直して弟の名前、そして最後に「違った、美里!」という。しかし祖母はきちんと私だけを呼ぶ。そんな祖母に限って……。
ふざけて名前を呼んでみた。
「すゑさん!」
祖母は驚いて気づいた。
「美里かい」
「帰り遅いんで、探してたんだよ」
「そうかい、そりゃすまなかったね」
「電話くらいしてよ」
「公衆電話が見あたらなくて……」
「夕立くるよ」
「うん……」
祖母は動こうとしなかった。その視線を追うと、工事の看板があった。
「この木だけ、切り倒すんだって」
祖母が言った。
「道路に面してるだろ、だから排気ガスで、梢が枯れてきて……」
「しょうがないよ。この木、邪魔だし」
「……」
「早く帰ろうよ」
祖母は動かない。
「ばあさん、ちょっとどいてくんないかな、危ねえよ」
黄色いヘルメットの作業員だった。
「この木ほんとうに切ってしまうんですか」
「そうだよ。だからどいてって」
「ここならいいですか」
祖母はやっと少し動いた。
「まあいいけど。気をつけてよ、ケガでもされたらこっちの責任問題だからさ」
「危ないから帰ろうよ」
「……」
祖母はもうそれ以上動かなかった。
「あの木なら、ずっと立ってると思ったのに。せめてあたしが……」
「あの木がどうかしたの?」
祖母は、木を通りぬけて違う時間を見つめているようだ。
「美里よりもうちょっと大きくなったくらいだった、あのひととここで別れたのは……」
「あのひとって?」
祖母は恥ずかしそうに笑った。
「別れる前にあっちの店で一緒におそば食べて。あのひとは、自分のいのちが延びるように縁起かついで、おそばゆっくり食べて。ああ、のびちゃったって、おどけてた……」
祖母が何を言い出したのか分からなかった。
「あたしを描いてあのひとは行ってしまったんだよ」
祖母は遠い目つきをしたままだ。
「おまえは好きな人の前でなら裸になれるかい?」
「え?」
「あのひとはどうしてもあたしを描いておきたいって」
「あのひとって誰よ」
「……」
「わかった、おばあちゃんの昔のカレシ」
「今はそういうんだね。」
「昔は?」
「許婚」
「いい名づけ?」
「あとで辞書ひきなさい」
「はい」
話しながらも、まずは枝が切り落とされていく光景から、祖母は視線をそらさない。
「あのひと、画家のタマゴでね」
「いまは?」
「……」
聞いてはいけないことを聞いた気がした。
「兵隊行く前にあのひとは指輪をくれた。あの木のところでね。帰ってきたら一緒になってくださいって。……あたしに指一本触れず、あのひとは……」
「その指輪、まだ持ってるの?」
「供出っていってね、うちにある金属は全部戦争のために使わなきゃならなかったから」
「じゃ、そのひとの指輪も……」
「溶かされて鉄砲の弾になんかされてなきゃいいけど……」
「……絵はウチにあるの?」
「おんなじような絵がたくさんある美術館に預けてある……」
「どこ? 見たい」
「長野のね……」
 そのとき木を切っている作業場のほうがざわついた。
「なんだこりゃ」
さっきの作業服が声をあげた。
「おい、切った枝ン中になんか入ってンぞ」
同じ作業服が何人も寄ってきた。
「虫じゃねえの」「違うよ」「光ってんな」
好奇心でほじくり出していた。
「なんか書いてあるけど、横文字おれダメ」
「どれどれ」別の作業服が替わった。
「Kousaku Masuda & Rin Gotoだってよ!」
【Rin Goto】!「後藤りん」祖母の名前だ。
気づくと祖母は駆けていた。あわててあとを追う。
「なんだよばあさん」
「それあたしの……、です」
「なんだって」
「おばあちゃんの結婚前の名前なんです」
「結婚前ってったって……何年前よ」
「もう六十年以上前です。あのひとが出征するときにここで最後の別れをしたんです。あのひとはあたしに先に帰れといいました。後姿が見えなくなるまでここにいるからって」
「誰だい、あのひとって」
「おばあちゃんのイイナズケらしいんです」
「で、ここを去るときにこの枝にこれを差したってわけかい」
「そうだと……」
「じゃ何かい、この指輪を包み込むようにして、この枝は太くなってったってわけ?」
「……まさかぁ」
「こんなの兵隊にゃ持ってけねえもんな」
「名前入りじゃ変な所に置いとけないし」
作業服たちは口々に言っている。
私は祖母の左手をとった。
「はめてみてよ」
「でもこれはあのひとのだよ」
そっとクスリ指にはめてあげた。
「ぴったりじゃない」
「むかしは白魚のような指って……」
祖母は少女のように笑った。
作業服が、ヘルメットを脱いで言った。
「りんさん…… この木、切んなくちゃなんないんだけど。ごめんな」
祖母はゆっくりうなずいた。そして木に歩み寄り、幹をそっとなでた。
手の甲の皮と木の幹の皮。同じ時間をすごしてきた分だけ、皺も色もよく似ていた。
祖母にそんな想い出があったなんて。そしてこの木がその想い出を大切に包んでいたなんて。
この木の中で、優しい時間がずっと流れていた。
携帯が鳴った。母だ。
「いたよ、おばあちゃん」
祖母が携帯をのぞきこんだ。
「それは昔の人には通じないのかい」
「あたりまえでしょ」
「……不便だね」
雲が灰色をいっそう濃くし、雨降りの前のあの匂いがしてきた。私は一本だけカサを開き、おばあちゃんと相合傘で、道を急いだ。

岩脇 忠弘(神奈川県川崎市/38歳/男性/事務員)

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