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<第2回応募作品>『キミトいた夏』著者:黒米 譲二

鈍より曇った空の隙間から待ち遠しい夏の欠片が顔を覗かせる。そんな夏直前の梅雨空はミチヨの気持ちと重なっているようで少し不穏だった。
「ブワーン」という凄まじい音が反響しミチヨの心を揺り動かした。京王線が頭上を通り過ぎて行く。鉄臭さで辺りは包まれる。
これまで何度も聞いていて慣れいるはずなのに場違いな轟音はミチヨを驚かせる。
目の前に広がる多摩川の水面は雲の切れ間から時折顔を出す陽射しにキラキラと輝いている。その輝きに目を奪われていてもミチヨの頭の中はキミトで埋め尽くされている。
「もっと強くなりたい」雲った空に独り言を言うミチヨに多摩川から吹く風が心地よかった。ミチヨの傍らには相棒の太郎がいて円にミチヨを見つめている。「太郎、飽きちゃたよね?歩こうか?」愛犬の太郎はまるでミチヨの気持ちを気遣っているかのようにただ真っ直ぐに主人の顔を見つめ返しそれから歩んでいった。
ポニーテールについたミチヨのお気に入りの青い髪留めがゆらゆらと揺れていた。

陽の光が春めいてきたある日の午後、「ごめーん。取ってくれるぅー」
顔を上げるとミチヨの目の前にゴロゴロとサッカーボールが転がってきた。出来たてで繊細な桃色の絨毯の上に読みかけの本を置くと、ミチヨは「えいっ」と思いっきりボールを蹴り上げた。
ボールは男子の頭の上をはるかに飛び越え青く澄んだ空に吸い込まれていった。「おぉーナイスキック!」ミチヨの心は踊った。
「それにナイスパンちら!イチゴ模様!」浅黒く日焼けした男子のこぼれるような笑顔に色白のミチヨは顔を真っ赤にして校庭の隅の桜の木の下から走り去った。走り去ったあとに幾枚かの桜の花びらが舞っていた。

「ミチヨ、面会だよ。三年生みたい」
桜の木々が緑の葉ですっかり覆われる頃、同級生の声に振り向いた。
「やあ、二年生だったんだ。捜しちゃたよ」そう言いながらどかどかと教室に入って来てミチヨに本を渡した。
「これ、忘れ物。良かったよ会えて....」笑顔で本を渡すとその男子生徒は何もなかったように教室から消えて行った。
それがキミトとの再会だった。ミチヨはボールを蹴り上げたあの日から、なんだか恥ずかしくて放課後の桜の木の下での読書を止めていた。
ミチヨはその日キミトの笑顔に吸い込まれそうになった。そうついこの間味わった痺れるような感覚はやはりキミトのせいだったんだ、とその時自覚した。
そして直ぐにキミトを忘れられなくなった。

ミチヨは相棒の太郎を連れよく散歩に行った。相手が太郎なら何を言ってもうんうんと頷いてくれそうで良い。相手の顔色を窺う事の多い自分がミチヨは余り好きではなかった。
五月晴れの気持ちの良い午前中、ミチヨは太郎と深大寺へ向かい歩きだした。調布駅を背に歩き出したミチヨたちは車が行き交う大きな国道を渡り住宅街に入っていった。
閑静な住宅地はどこまでも続く。普段近所しか散歩しないミチヨは少し不安になった。
「太郎、なんだかドキドキしちゃうね」太郎は相変わらずミチヨの後を文句も言わずについていった。
「散歩行って来るね、太郎と...」朝食中に母にそう告げると母は驚いた様子だった。「ミチヨちゃん、随分と早いのね今日は」トーストを食べながらミチヨは自分の気持ちをはぐらかすように、「そうね、天気が良いからね」そんな中途半端な言い訳を残し早々に家を出てきた。
ミチヨが通う高校でキミトの噂を聞いた。噂と言っても、どうやらキミトは深大寺の近くに住んでいるらしいという程度のものだった。ミチヨはその日から機会を窺っていた。「好きです」なんて、例え地球最後の日になったって相手に告白出来ないミチヨは、ある決断をした。休みの日に深大寺を散策し、キミトの家を探しちゃおうって.....。
もしそうでもしなければ今ミチヨはキミトへの思いで頭がパンクしそうだったから。

良い季節はあっと言う間に終わる。じめじめとした梅雨は自分自身のようだ、そうミチヨは思っていた。あれから数ヶ月経つがキミトとは何の進展もない。「あたり前かぁ、わたし何にもしてないもんね」何度深大寺を訪れてもキミトの家は見つからなかった。それでもキミトに会えたりして、そんな淡いミチヨの期待もこの数十日間裏切られ続けてきた。

ポッカリと梅雨が明けた。
ミチヨたちは初夏の深大寺にいた。土の感触を楽しみながら奥に進んで行くと蕎麦屋が幾つかありその蕎麦屋に囲まれるように小さな池がある。小さな池には赤い欄干が架かっている。何ともいえないそのこじんまりとした景色がミチヨは大好きだった。
胡麻の香がした。
目の前にお揃いのモノトーンで決めたカップルがやって来た。
「これ食べる?」女性はアツアツの胡麻団子を男の口に持っていった。男は鳥の雛のように素直に口を開け美味そうに団子を食っていた。
いいなぁ、こんな風になりたい。ミチヨは微笑ましくそのカップルを眺めていた。

結局キミトの家探しは失敗に終わった。夕食後、スイカを食べながらミチヨは今日のことを耽った。実はあのカップルが去ったあと団子を買い太郎と食べた。それから取りあえず御神籤を引いてみた。きっと自分もキミトとデートしたらこんな風になるのだろうなぁ、って想像しながら行動してみた。御神籤をドキドキしながらそーっと開いてみると([末吉]待ち人来る)と書いてあった。 ミチヨは嬉しくなってスキップしながら帰った。
そんなことを思い出しスイカの前で一人ニヤけていた。でも正直キミトを思うと、胸の中が熱くなり苦しくなるからこれ以上考えたくなかった。
「恋に悩まない君はいいねぇ」つい苦しまぎれに食べかけのスイカに愚痴ってしまった。スイカは黙ってミチヨを見ている。
「いいよ、今日こそ君のタネまで全て食べちゃうからね」こんな理解し難い八つ当たりで押さえきれない気持ちを粉砕した。

スイカの怨念か、ミチヨは腹をこわして寝込んだ。悪いことは重なるものなのか、キミトのことで気持ちは塞ぐし体調は最悪だし......。
三日間ただ横になって過ごした。
窓から見える入道雲はまるでミチヨを励ましているようにもみえた。入道雲さん、私の気持ちをどうにかしてよ。
ドシャッ。
言い終えるか否や二階の窓から部屋に一握りの紙包みが舞い込んできた。
驚いたミチヨは丸められた紙包みを開いて目を見張った。驚いたら腹痛も治った。

元気になったミチヨは早速太郎を連れ深大寺に向かった。珍しくポニーテールには赤い髪留めを付けていた。はじめ足取りは軽く深大寺に近づくにつれ重くなった。最後には小さい太郎に引き連られるようにしてミチヨは深大寺に入っていった。
ドキドキ、あの赤い欄干が見えてきて...ウズウズ、周りの景色も薄いできて...ギスギス、足かまるで他人のものみたいで.....。
漸く池の前のベンチに座りホッと一息ついてみた。太郎も舌を出し肩で息をしていて、その円な黒瞳には不安そうなミチヨが写しだされていた。
不意に肩をドンッと叩かれた。
「オスッ。嬉しいなぁ、来てくれたんだぁ」
きっ、来たぁー。ついに来たー夢にまで見た瞬間が!
振返ると浅黒いキミトの顔から真っ白な歯がこぼれていた
正真正銘のキミトがそこにいた。
ミチヨのお気に入りのこじんまりとした景色の中にキミトが笑って立っていた。
気絶しそうなミチヨはキミトのクシャクシャな手紙を思い出した。
『ハロー、イチゴちゃん。元気!イチゴちゃんの凄まじいキックを見て以来、俺の心は君に夢中。君には気づかれないようにいつも君を見ていた。ポニーテールの青い髪留め、素敵だね。俺が嫌でなけりゃ、いや俺の高校最後の夏休みは君と最高の夏休みにしたいから、俺の願いが届くなら赤い髪留めを付けて深大寺に来て欲しい....』
「可愛いなぁ、こいつキミトは太郎を思いっきり撫でていた。
「そうだっ、これ食う?」キミトは恥ずかしそうに団子を差し出した。
「ありがとっ....」喜んだミチヨは団子を大事そうに受けとった。
それから池の前のベンチで二人、季節外れの団子を頬張った。
真っ白く浮かぶ入道雲は温かく二人を見守っていた。
ミチヨは空にそっとウインクした。

黒米 譲二(東京都東大和市/43歳/男性/歯科医師)

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